第8話 春の足音(2007年3月)

その日の私は「ひたすらネジを締め続ける」という作業に没頭していた。久々に研究室を飛び出し、作業着に着替え、真っ黒になりながら現場でネジを締め続けていると一本の電話が鳴った。嫁からであった。
「大変だよー! 幼稚園から電話があって春の熱が引かないから迎えに来て欲しいんだって!」
春とは私の長女であるが、数日前から熱が引かず、前日は休ませたのだが、この日の朝は調子が良かったため、本人の意向を尊重し、送り出したのである。
「迎えに! 迎えに来て欲しいんだって!」
何度もそれを言う嫁の意図するところは「お前が迎えに行け」という事であるが、仕事中の私にそれを言うとは凄まじい。確かにうち、娘が三人おり、末っ子も熱が出ている現状で、且つ外は大雨、迎えに行くのが困難だというのは分かるが、
「おい! 嫁! お前は男の仕事ばナメとるどがー!」
その事である。
が・・・、
「行ってよ、行って! 可愛い娘のためじゃーん」
関東出身の嫁にそうせがまれると、ぽわーん娘の顔が浮かんでくる。それが血の通った父親というものであろう。無機質なネジと発熱中の娘、さあ、どっちがいい、それは比較するまでもない。
「よっしゃ! 行ってやろう!」
すぐさまレンチを放り出し、外出の旨を社長に届け、急げや急げ幼稚園。強い雨の中、柳川の狭い道を右へ左へ駆け抜けて、気が付けばそこは幼稚園。玄関前に立ち、ブザーを連打した。
出てきたのは担任の先生で、私の作業着姿を一目見るや、
「あらー、お仕事中にご苦労様ですー」
そう言いつつ、奥から真っ赤な娘を連れてきた。娘はモジモジした仕草で靴を履き、こちらをチラリ窺うと、
「おっとー、ごめんねぇ」
しおらしく、実にしおらしく、そのように言い、
「おっかーが来ると思っとった。でも、おっとーが来たけんビックリした。仕事中にごめんねぇ」
私の顔をじっと見据え、そう言い放ったのだ。
そこは幼稚園の玄関。先生の前であった。先生の前であったが、私は猛烈に感動した。これだけの感動は「おしん」の再放送を見た以来であろう。
五歳の誕生日を数日後に控えた小さき娘がこうも成長した姿に驚き、そして大人である私でさえも吐けない気の利いたセリフをサラリと言ってのけた娘、感動せずにはいられなかった。
「馬鹿言うな。仕事よっか春が大事に決まっとるた」
「でも、おっとーが働かんとゴハンが食べられんたい」
「子供がそぎゃんこと言うな。仕事して金稼いだっちゃ・・・」
胸が詰まった。
「・・・春は買えんとぞ」
目の前で繰り広げられる浪花節真っ青の茶番に、担任の先生はきっとムナヤケしただろう。もし、私の前で同レベルの茶番が繰り広げられたら氷水をぶっかけるかもしれない。
が、当の本人は押し寄せる感動のため、全く周りが全く見えていない。
その度合いがどれほどであったか、帰りの車内、その会話を聞いてもらう事で分かって頂けると思う。
「おっとー、春を幾らだったら売るね?」
「500億だな」
「それは車よりも高いとね?」
「高い、高い、家よりも高い。そうやねぇ、春に値段はつけられんなぁ」
「おっとーは優しいねぇ」
「むふふ」
「うふふ、うふふふふ」
馬鹿本番、春の足音が近付いている。
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