第14話 サラリーマン適性(2007年10月)

第十三話を書いてから約三ヶ月が過ぎてしまった。その間に退職、独立、引越しと様々な事が続き、実に慌しい日々を送ってしまったが、その日々を振り返るに、私はこういう状態が嫌いではないという事にぼんやり気付いた。むしろ好んでその方向へ進んでいる様を見るとそういう状態を愛しているのではないかとも思える。
嫁子供はそれに巻き込まれるかたちなのでちょっぴり可哀想ではあるが、いずれ慣れ、次第にその慌しさがなくては何か物足らないと思い始めるだろう。
思想、嗜好、行動、それらが時間に煉られて何となく似てくる。それが家族、延いては血というものではなかろうか。
で…、
「退職、独立に至るまでの経緯と理由を説明して」
この数ヶ月、何度もその問いを受けたが、それらに対し、私は経緯こそ語れど理由は一切語れなかった。なぜなら、私自身よく分かっていないし、考えた事もない。ただ、ぼんやり、
(そろそろかな)
そう思っただけである。従って、人様に理由を聞かれた事で、
(はて? なぜ独立したのか?)
その事を考えるに至った。そして辿りついた超強引な結論が血に因るものではないかという事である。
私の父方は全て技術屋であるが、祖父の代から誰一人としてサラリーマンをやり遂げた人間がおらず、その全てが脱サラし、自営業を営んでいる。母方は全て女性なのでよく分からぬが、そちらの祖父も自営業である。つまり、私が見てきた血の繋がった男性にサラリーマンが皆無なのである。
しかしながら自営業だろうがサラリーマンだろうが責任もって働く姿は何も変わらないので、そういうものが思想化するとは思えず、ましてや遺伝するものとも思えず、偶然か、単にワガママが多かっただけかと鼻で笑っていたのだが、嫁の一言で、
「これか!」
思わず柏手を打った。
私がサラリーマンを引退すると嫁に告げた時の一言である。
「これから福ちゃん(私の事)が毎日家にいると思うと頭が痛いよぉ。うちはサラリーマン家系だから、父親が家にいるのに慣れてないんだよぉ」
言い換えれば子供から見たサラリーマンと自営業の大きな違いは、仕事が家庭から見えるか見えないか、仕事をしている親父を知ってるか知らないかという事、つまり仕事と家庭の密着度だろう。
幼少の私には親の仕事が見えた。そして知っていた。自宅の下が店舗で親の仕事というものがクッキリ見えた。しかし、義父は埼玉県春日部市から東京都心まで通うサラリーマンだったため、家庭からすれば仕事の事は知らぬ存ぜぬだったに違いない。
また、サラリーマンの場合、家庭の方針・規律は夫婦が決めるだろうが、会社の方針・規律はそこで決められたものに従わなければならず、色々なところで切り離しや割り切りが必要なのであろう。が…、自営業は違う。家の方針と規律が仕事のそれであって、そこに線引きはなく、あっても薄い。
嫁が発した「ウィークデイも夫と過ごす事に慣れてない」という言い方は、こちらからすれば「俺は家庭から離れる事に慣れてない」という事になるわけである。
思えば私のサラリーマン生活はちょっと浮いていた。学校を卒業し、北九州に本社を置く大手電機メーカーに就職したが、完全に変わり者扱いを受けていた気がする。作った設備や冶工具に彼女や家族の名を付けて現場へ送り込んでいたが、それを変だと言った上司に私は不思議な違和感を覚え、そして上司もその感想を持った。また、「今日は無礼講、何をしても文句は言わん」と言った上司にカンチョーをした際、端っこに呼ばれ、減給をほのめかす厳重注意を受けた事もそれら線引きの有無に因るものかもしれない。
しかし、幸か不幸か分からぬが、私のバリアフリーな思想を受け入れてくれる人も確かにいた。
「俺も昔はそうだった。しかし、いずれ変わるよ」
実に優しい目で私のヤンチャを見守ってくれた諸先輩により、私は五年三ヶ月もサラリーマンとして生かされ、実に充実した日々を過ごした。
その後、趣味で書いていたエッセイで賞を取った事と、有名脚本家が発した「お前の文章はイケる」という台詞に乗せられ思い切って脱サラしたが思うような生活水準が確保できず、今度は阿蘇の大手メーカーで働き始めた。
しかし、一社目よりも縦割り思想が確立している中で思想のギャップは拭いようがなく、
「技術があってもその考え方では良いサラリーマンになれん! 悔い改めよ!」
飲みの席でそう叫ばれてしまった。
平等に与えられた加齢の具合だけは止めようがない。順調に歳はとっていくし、とればとるほど根本的な思想のギャップは見た目に際立ってくる。
この二社目において、「独立」という一文字が私の視野へ据わった気がする。
二社目には一年三ヶ月いた。期間は短かったが、この時期が、この土地が私や家族に与えた影響は大きく、阿蘇を離れる時、
(必ずこの土地に戻る!)
そう思い、二年以内に舞い戻った。
三社目は福岡県柳川市にある社員25名ほどの企業であるが、入った理由は面接による。面接を受ける段階で大手の会社から幾つか内定を貰っており、正直そう乗り気ではなかった。しかし、
「営業で採用するが何を営業させるか分からん。何か事業を見付けて軌道に乗せて。とにかくお金を稼いで」
壮大、且つダイナミックなお願いだったため快く受けた。そして実際入ったら話が違うというのはよくある話だが、実際も話の通りで全てを任された。個室を与えられ、
「勝手にやって」
そう言われた時、社長に私と同じタイプの奔放な匂いを感じた。この社長も脱サラした口であるが、サラリーマン時代に私と同じような違和感を感じていたのかもしれない。でなければ面接時、「いずれ独立する」と言い放った私を採用するはずがないし、過ぎるほどの任せっぷりを見せるはずがない。
この会社に入った事は社にとってどうだったか知らぬが、私にとっては本当に財産となった。
何でもやった。やらせてもらった。経営の補助、役人へのプレゼン、広報、営業、開発、設計、組立、調整、一人だから誰に頼るわけにもいかない。
手探りで、ゴソゴソと、勝手に色々やった。
で、2007年8月末日、一年七ヶ月働いた会社を退職するわけだが、その理由を問われても返答に苦しむ。前二社とは退職の質が全く違う。
退職前の変化として開発費の減少はあった。しかし、それは一因になりうるとも要因にはなり得ず、他に理由があるかといえばそうでもない。
「社長、開発費も減りそうですし好きな時期に切って下さい。切られた後に独立しますので」
「じゃ、来月末にしよう」
「ぬおっ! 早いっすね!」
端的に書いているが、そういう感じのやり取りで退職が決まり、その延長戦で独立が決まったという感じである。
退職後はバタバタと独立準備に追われた。予定では九月に中山道(京都〜江戸)をゆるりと歩き、それから準備に入る予定であったが、
「子供が三人もいるのに馬鹿な事を言わんでよー! アホー!」
嫁に散々罵られ、「十月に創業しろ」という運びになった。
ちょうど十月から入居可能な熊本県が募集している格安起業家応援施設もあったので、応募・プレゼンしたら見事合格。
続いて住むところも探そうと賃貸のつもりで物件巡りをしていたところ、格安の中古物件があり、うっかり購入。車も二台なければ仕事ができないので軽を購入。
九月中に土台と借金が固まった。
「そうと決まりゃ、すぐに動くぞ、引越しだ!」
私の常で決まった後は爪先立ちになっているわけだが、
「せめて春ちゃん(長女)の運動会は出してあげてよ!」
「おっとー馬鹿ー、一人で熊本行けー!」
嫁と娘の嘆願により約半月後、10月15日の引越しとなった。
独立を決めた直後、様々な方に勇気を褒め称えるお言葉を頂いたり、心配のお言葉を頂いたり、アドバイスを頂いたりした。冒頭に書いた独立理由を問う質問も多く受けた。受けたのでコレを書いたわけだが、ここまで読んでもらえば分かるように特にコレといった理由がない。
強いて言うなら血、そしてこの道より他に私の生きる道がなかったと言うべきか。
ありがたい事に前の会社や前の会社でお付き合いしていたところが早速仕事を出してくれている。前社に至ってはホームページのトップに私の会社のバナーを載せてくれている。
今、起業家応援施設で事業計画に対するアドバイス等を頂いているが、その中で、
「普通は勤めていた会社とは縁遠くなるはずですがね。あなたは稀なタイプですよ」
そう言われ、幾人かの顔がハッキリと浮かんだ。
私にはサラリーマン適性がない。その幾人が私をどういう目で見、そして、どういう思いで仕事を出してくれているのか分からぬが、私には私にできる仕事を私っぽくやるだけである。
ふと、やってる本人は超楽しいが家族は不安だろうと思い、嫁にその旨を尋ねた。
「ぜんぜん不安じゃない。むしろ今までより稼いでくれそう」
笑顔で応える嫁に胃が痛くなる阿蘇の朝であった。
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