第30話 釈迦、キリスト、そして道子(2008年6月)

「私は何も考えない」
嫁・道子は常々自分の事をそう言っている。そんな事はあるまいと常日頃から旺盛な興味を持ち、じっくり嫁を眺めているが、恐ろしい事に本当に何も考えてない風向きがある。
ある古老はこう言った。
「死ぬ間際になって世ん中んこつがちぃった分かってきた。ばってん一つだけ最初から最後まで分からんこつのある。そりゃウチの婆さん、つまりゃぁ女心たい」
それを聞いた婆さん、横でケラケラ笑いつつ、
「男は女にからかわれて一生ば終えるったい。男は馬鹿正直ばってん、女は生まれた時から嘘泣きばしぃ、そん裏じゃ舌ば出して笑いよる」
金歯光らせそう言ったが、なるほどウチの嫁も私を馬鹿にする事この上ない。傍目には立てるように敬うように見せかけて、真実はそこらの犬っころと同じく、
「餌さえやっときゃ死なんでしょ」
そういう扱いが随所に見られる。悲しいが、これこそ夫婦円満の秘訣らしく、一つだけ注文するなら私が気付かぬよう上手に転がして頂きたい。
結婚して早九年が経つ。嫁の株はこれ以上ないほど上がっており、とどまるところを知らない。どこへ行っても、
「あたん嫁はよか!」
嫁を見た事がない人まで太鼓判を押す。それは四度の引越しを短期に行い、それに嫁が文句を言いながらも付いてきた事、そして私の挙動が亭主関白気味である事、更に私の性格が勝手気ままである事に因るかもしれない。それらを受けて人様の想像は遥か昔にいたニッポンの我慢強い女性を描き、「よかねぇ」と、しみじみ言わせてしまうのかもしれないが、それは的を得ていない。
嫁は超近代的で、勝手気ままという点においては私を遥かに凌駕する。ただ嫁自身が宣言するように、これといった思想がない。何も考えていない。この点は凄い。こんな特技を持つ女、いや人間は、私の人生において見た事がないし、今後も現れる事はないだろう。自我を捨てるという事は宗教家においては究極の目的であり、それだけに極めて難しい。自我は幼児期に自覚され、青年期に確立するというが、こと嫁に至っては自覚こそあっても確立しなかったのではないか。
私と嫁は頻繁に喧嘩をする。三日に一度はやっているが、大抵は言い争ってプンッ、その後、数時間経ち、お互い忘れて仲直りというパターンである。が・・・、たまには芯から怒る事もある。明らかに嫁に非があると確信していて、これを放置しては今後の夫婦仲に亀裂の生じる恐れがある時で、そういう時は理系の常で物事の顛末を整理し、順を追って述べ、一つ一つ嫁の思いと私の思いを照合する。この作業において、私は必死である。どう考えても非は嫁にあると確信している案件であり、嫁は私が持っている合否判定の基準を意に介さぬどころか、平気で踏んずけたわけである。
「ここはキチッとお互いの方向性を合わせとかんと家庭が成り立たんぞっ!」
熱を持って説明し、
「さあ、どうだ?」
嫁に意見を求めた。するとビックリ熟睡中であった。当然、焦り呆れて激しく起こし、次いで眠った真意を問うた。するとこれまたビックリ、見事な回答を得た。
「議論が始まると眠ってしまう体質なんだよー」
嫁においては全てが他人事に感じられ、段々とその世界が遠くなってゆくらしい。また嫁によると議論中に寝た経験は一度だけではなく、過去に何度かあるらしい。それ以来、論じねばならないような環境を毛嫌いするようになったらしく、嫁はインテリっぽい人が来ると我先に逃げる。とにかく物事を理屈で考えようとすると眠くなるというのが嫁の出した結論で、以後、私は言いたい事を文章で示すようにしているが、それも読んでるようで眠っていて、さり気なく捨てている。
また日頃の作業に関し、繰り返しのルーチンワークは苦にならないそうな。掃除、洗濯、子育てと、家事をソツなくやっている嫁であるが、そのルーチンから外れる仕事や飛び込みの仕事は全くやらない。言ってもやらない。怒るとやる。
嫁が言うに「頭を使いそうな行動全てが嫌」らしく、ルーチンワークは何も考えずにできるから苦にならない、リズムこそ仕事の骨頂らしい。
私などはルーチンワークを極度に嫌う癖があり、その点、夫婦のバランスが取れているのかもしれぬが、全くもって理解に苦しむ。その事を言うと、嫁は「血の問題だ、諦めろ」と私を突き放した。
嫁の言う血とは母、つまりは義母の事を言っている。確かに義母は嫁と似ている。凄いタイミングで寝る。こんな事があった。
釣り馬鹿日誌がテレビでやっており、私と義母、それに嫁、長女でそれを見ていた。義母は釣り馬鹿日誌が好きらしい。その事を聞き、
「いやぁ、僕も好きなんですよ。浜ちゃん、いいっすよねぇ」
そう言って義母を見たら机に突っ伏し眠っていた。その間、凡そ三秒。手には煎餅が握られていた。
こんな事もある。義母は雨上がりの滝のように水道全開で皿を洗う。仕事は早いが終わった後は服がビッショリ濡れており、床も濡れている。異様な光景だったので、その事を指摘すると、
「ジャーッとしないと洗った気がしないだわ」
そういう回答を得た。また、義母の早朝における作業順序も決まっていて、それが実に荒々しい。雨戸をバーンと開け、ハタキでそこらじゅうをバンバン叩き、何か恨みでもあるかのように掃除機をガンガン壁にぶち当てて掃除をする。初めて嫁の実家に泊まった日、あまりの騒動に布団を飛び出し、嫁にその驚きを伝えたが、嫁にとっては単なる朝の風物である。特に気にするはずもなく、必然、嫁もその流れを受け継いだ。
この二人を考察するに、二人は擬音語の作業を愛している。上の例でいくと、ジャーッ、バーン、バンバン、ガンガン、つまり勢いでこなす仕事が好きで、確かにこの視点からいくと、私が求めている仕事というのは流れを阻害する。
嫁はどうあっても今の自分を「血の影響」で片付けたいらしい。嫁の希望により、更に共通点を模索する。
嫁は言う。
「私、決断する事が大っ嫌い」
で、それは義母も言ってた。人が決めた事をアーダコーダ言うのは好きだが、「お前が決めろ」と言われたら裸足で逃げ出すらしく、娘の名付けに関しても二人は案を出さないくせに、私の案をケチョンケチョンにけなし、結局最後は私の出した膨大な案から二人が選んだ。
「物事は自分で決めんと面白くなかろう?」
そう問うたところ、決めるには頭を使わねばならないし責任が伴う。それが嫌らしく、人が決めた事に茶々を入れる作業は感覚でモノが言え、更に責任を伴わないところが魅力らしい。
何とも無気力な論ではあるが、論理でなく感覚に重点を置き、全てを他人事、つまりは客観視するところに「私の生き様がある」と言われては何も言い返せない。こちら論理派としては話し合おうにも話し合えないから、勝手気ままに突き進み、進んだ後に茶々を入れられる以外、歩みようがないではないか。事実、そのカタチは「ウチのカタチ」として定着してきた。
私はこれを書きながら釈迦やキリストが達した無我の境地と嫁が胸を張る「考えない境地」の違いを考えてみた。無我の境地に達するまで偉大な先人はありとあらゆる事を考え、結論としてその域に達している。嫁は何も考えず、ただ考える事が面倒臭くて偶然その域に達してしまった。前者も後者も自我を捨てるという点、結論は同じであるが、その経過が全く違い、嫁は経過がないだけにその中身は無が広がるばかりで人様に説明ができない。ゆえ、その思想は広がりようがなく、「私は何も考えない」を宣言するばかりになってしまう。
が、ひるがえって考えるに釈迦やキリストの領域に達すのは一兆人に一人くらいではなかろうか。その点、様々な知識人がもがき苦しみ、結局はその頂に届かず無念の死を遂げている。あるいは少々の財を築き、子孫を混乱させ、地球を汚し消えている。であれば思想をかなぐり捨て、自我の確立を放棄し、良縁と時代の流れに身を任せるのも悪くないと思ったりするが、自我の確立を放棄するのは容易ではない。普通に生きれば「俺が」「私が」どうしても言いたくなるのは人の世の常ではないか。
この点、私は幸運であった。私自身、自我の色、気ままの色が濃いだけに両手両足二人分の失恋をした。その挙句、万人に一人いるかいないか、無自我の伴侶を得た。
「私は何も考えない、それが私」
この宣言、私にとって意味不明だったが、それによって自由と責任を得た。以後、嫁の株は寛容という事で上がり、私の株は気ままという事で下がり続けた。この傾向が今後も続く事に疑いの余地はなく、もし仮に私が何か大きな事を成したとしても、それは嫁の手柄となるだろう。
嫁は今日もヨダレを垂らして座椅子で寝ている。何度も「風邪をひくから布団で寝ろ」と言っているが聞きゃしない。そもそも聞く気がなく、私の存在自体を小馬鹿にしているから、右から左へ受け流している。
仕事も全く手伝わない。次女が保育園に行き始め、日中そこそこ暇になったらしい。やる仕事はタップリある。経理に加工、購買に営業、
「暇なら手伝ってくれよ」
何度も言うが、
「それはそれ、これはこれ」
意味が分からない。嫁の考えないポリシーからすれば、頭を使いそうな作業は触れたくない寄りたくない見たくもないという事だろう。現に、
「今は美菜ちゃん(三女)がいるから奥様会って逃げ道があるけど、これが保育園に行きだしたら逃げ場がないよぉー! ああ、やだよー! 私はパートに出て、のんびり時間使って、社内旅行とか行って、勝手気ままにやるつもりだったのにー!」
そのような事を言っており、手伝う気は微塵もない。
「考える事はアンタに任せた、後はアンタのやる事に茶々入れるから私に仕事を振るんじゃない!」
そういう事だろうが、さすが我嫁、そこらへんが徹底している。
嫁は今日も奥様会、私は一人勝手なモノづくり。夫婦のカタチは色々だが、こういうカタチもある。
ちなみに考えないポリシーの最もたる恩恵はポジティブなところにある。年収が減り、生活に窮しても笑顔でいる。考えないから何も知らない。知っても考えない。
世の中それでじゅうぶん回る。ネガティブでなければ大抵は生きられるという事だろう。
嫁は無に帰すという点においてのみ、先天的であるぶん釈迦やキリストを何となく超えている。この並びでいけば悟りを開いた一人とも言え、今後の展開が予想できない恐ろしさがある。
古老が言った「嫁は分からん」、その言葉、今の私には限りなく重い。
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