第43話 節約の話(2008年12月)

ひどい景気になってきた。
うちは景気の上下に関わらず常時低空飛行であるため影響は軽微であるが、それにしても近辺の慌てっぷりを見ていると気が滅入ってくる。
何よりもマスコミが悪い。「悪い、悪い」と日夜連呼するため、悪くなくとも悪いような気になってくる。こういう時こそ極めて馬鹿馬鹿しい話、どうでもいい話を提供して欲しいと思ってしまうが、大部分の人が更に悪い話を聞きたがっているため、大衆迎合のマスコミとしてはどうしようもないのだろう。そもそも、この不景気はリーマンブラザーズが発端だとマスコミは言っているが、カネという文明の血液をせせくり回し、その差分で儲けようという経済の上に乗っかった変な思想が問題なように思える。経済というグローバルな組織が存在するなら、その「管理職」にウェイトが寄り過ぎた。それが問題ではないか。多数の人が寄る以上、管理はいる。が、それは調整役であり、あくまでオマケである。多数の人が寄ったり、メインになるべきではない。
時代の恐ろしさは田舎でモノづくりやっているこんな私にも響いたところにある。株式投資、外貨預金など、甘い説明を幾つか受けた。こんな貧乏人にそういう話を持ってくること自体、営業マンの才能が欠けているように思われるが、
「貧乏だから投資をやるんですよ!」
それが時代の理屈らしい。
仮に私がそれで大儲けをしたとする。たぶん私は地道にモノ作りをするのが馬鹿馬鹿しくなるだろう。面白くはないが一日中パソコンを見て株価をチェックするようになる。そういう人が増えていく。つまり何の役にも立たず、ただカネをせせくり回す人が増えてゆく。現にそういう世の中になった。仕組が壊れない方がおかしい。
阿蘇カラクリ研究所は「赤字にならない事」を目標に初年度を過ごした。一年前この目標を立てながら、
(何と欲がない経営だろう…)
そう思っていたが、初年度を終えるとピッタリその程度であった。仕事は立て続けにあったが、得た利益は工具・設備・試作に消え、家庭に入れる余力が全く生まれなかった。嫁からすれば悩むところもあるだろうが、まぁ計画通りであり、この時代にあって、なかなか良い滑り出しではないかと勝手に思っている。
サラリーマン時代から比べれば色々なところに潤いは出た。が、カネで見る生活の水準は明らかに落ちた。むろん家庭にも節約を強いねばならず、何度か口にした。
数日前、Nという悪友と飲んだ。彼は私と同じ時期に独立したが、景気の波を受け、業績悪化に苦しんでいるという。Nは飲食店を経営している。飲食自体は嗜好品でないため、そう景気に振り回されるものではないが、外食は嗜好品である。明らかに平日の客が減ったらしい。むろんNも状況に合わせ家庭に節約を強いた。が、
「嫁は節約というもんが分かっとらん!」
叫ばねばならぬほど、その考えにギャップがあったらしい。
節約とは日常的に垂れ流しているカネを削る事である。仕事に影響を与えず、それでいて長い効果が期待できるもの。例えば家で使う電気、ガスなどの光熱費、ティッシュ、掃除用品、風呂用品など消耗品がピックアップされる。
「一緒になって見直そう!」
Nも叫んだが、私もそう唱えた。例えば便座を暖める電気、家にいる時はつけっ放しでいいが、家を出る時や就寝前は切ろう、これは節約の入口であろう。トイレットペーパーも男は年間1ロールあれば足りる。が、女が四人もいる家庭では、その300倍は消費する。風呂で使う石鹸も私はレモン石鹸(5個100円)で二年を暮らした実績がある。が、女はそういうわけにはいかない。
「男の水準は求めんけど、ちょっとは気を使ってくれよ。こういう時代だけん」
「男と女は丸っきり違うんだよ! 便座も切った事を忘れて、うっかり座っちゃうと心臓が止まりそうになるんだよ! 顔の大きさも福ちゃんと私じゃ全く違うから使う量が違って当たり前じゃん! 髪の長さも違うし女はリンスがいるの! 短くてゴワゴワのそっちとは明らかに違うでしょ!」
嫁はここぞとばかりに叫ぶ。そして必ず持ち出されるのが、
「そっちは一回呑みに行ったら5000円じゃん! この節約で幾らになるの?」
この比較である。分かる。それを言いたいのはじゅうぶん分かる。が、呑むという作業は今の日本において、最も堅実で、最も効果のある営業活動である。つまり仕事の一環であり、むろんコレにも手を付けざるを得ないが、手順として、仕事と関係のないところから手を付けるというのが節約の原則であろう。
Nと私は呑みながら大いに泣いた。そして共感した。盛り上がった。
「なぜ男の意を汲み取ってくれんのだ!」
「分かる! お前の涙は俺の涙だ! 同志よ!」
「ううっ!」
そこまでは言ってないが、とにかく盛り上がった。
節約という言葉は男の器を大いに小さくする。言えば言うほど男として自己嫌悪に陥らざるを得ない。本来なら「好きにせい」と言いたい。が、状況を見ればそれが言えない。苦渋の末、家庭に「お願い」するのが節約である。
「もったいにゃーどが! 節約してくれよぉ! 頼むよぉ!」
それを指摘する時、男は身を削っている。本来なら言いたくない。節約のお願いは徹底的に恥ずかしいのだ。
「なぁ福山、この苦しみ、分かるどがぁ!」
「分かる! 分かり過ぎるぞ!」
同時期に独立した二人は業種こそ違えど重なる部分が多々ある。酒が美味かった。凄い呑んだ。たぶん、お互いの嫁は夫の酒代、その無駄を罵り、
「節約なんかやってられるか!」
自宅で叫んでいるだろう。
話し相手が変わる。
高専の友人でミカン農家をやっているSという変わり者がいる。一次産業は景気に左右されにくいと思ったが、Sが言うに果物は嗜好品だからモロに影響を受けるらしい。デコポンやバンペイユならまだしも、コタツの友達ミカンは冬の主食である。関係ないと思ったが、
「お前は米を我慢してミカンを食うか?」
そう問われると確かに影響があるかもしれない。
見渡せば色んなところで節約が始まっている。色んな人の色んな節約に興味が湧く。私は皆が浮かれポンチでいる時より障害に立ち向かっている状況が好きで、生の人間はそういう時に見れると確信している。
2000年から2002年、不景気の頃、私はサラリーマンであった。大企業を辞める直前であったが実に貴重な経験をした。休みがない事を常に嘆いていた人が急な連休に怯え始め、組合を馬鹿にしていた人が組合に泣きついた。ある者は組合の能力に罵声を放ち、ある者は経営者の力量を罵った。誰もが一夜漬けのプチ論客になり、文明の上流にいる経営者、霞ヶ関、それに身近な役所を呪い始めた。
「給料が2割減るくらいで、こぎゃん休みが増えるなら万々歳じゃなかですか?」
若かった私は焦る中年各位の前でその言葉を吐き、危うく殺されそうになった。
中年各位が切羽詰る理由はローンにあった。退路をローンが塞いでいるため引くに引けない。また日常にビジョンが欠けていたため、その道その仕事以外、生きる手段が考えられない。危機感が人間の性格を変えている恐ろしい瞬間、それが不況であった。
サラリーマンは基本的に愚痴で横の繋がりを保っている。この繋がりは吹けば飛ぶほどに薄い。が、不況の瞬間だけは組合を旗頭に愚痴が組織的増幅を見せ、ついには政治的団結を見せる。これは実に荒々しく堅固である。目的は状況度外視の自己保全であるが、政治(組合)が美しい修飾語を至るところにまぶすため、外から見ると詩人が泣いているように見える。
私は集団の強みというものをこの時に知った。併せて人間の弱さ、汚さ、ズル賢さ、それら泥臭さと対面し、政治に寄らぬ強い人間に憧れた。
(どうすれば外乱を気にせぬ強い生き方ができるのか?)
分からぬまま今に至っているが、なぜかぼんやりとは見えている。だから南阿蘇に住んでいる。
「都会の慌てぶりはどうか? そぎゃん慌てにゃいかん事かね?」
これは近所の婆ちゃんが発した一言である。この婆ちゃん、平日昼間、大根片手に現れ、私の事務所で腰を据えた。よくある田舎の光景だが、この長い茶話の中で幾つもの名言を残してくれた。
「今の若いもんは大変。考えにゃ生きていかれん。私たちの時代にゃ畑ば耕しゃ生きていけた」
遥か昔、日本に稲作が広がった頃、土蜘蛛、隼人、熊襲など、狩猟民族が消え失せた。その瞬間、集団・組織・社会というものが日本全土を覆い始めた。武士の台頭から封建の時代へと続き、戦後は資本主義が色濃く流入。根本からカネがなきゃ暮らせない時代になってしまった。
婆ちゃんの回想はほんの50年であろう。たった半世紀で人も時代もカネに寄らねば生きてゆけなくなった、その事を婆ちゃんは大いに嘆いている。
「大根ば置いていくたい、痩せとるばってん薬ば使っとらんけん味はよか」
景気は人間の営みが生み出す組織的産物であるが、大根にそれは関係ない。不景気だが味はいい。我が道をゆく婆ちゃんの営みは何と強い事か。営みの強さというものはカネから離れたところにある。その点、何兆円も転がす投資家より、土が染み込んだ婆ちゃんの方が断然強い。
「さよなら三角、また来て四角〜」
古い挨拶をする婆ちゃんの背中は株価が6000円を割ってもビクともしないだろう。株価という言葉すら知らないかもしれない。そんな婆ちゃんの便所はポットン便所である。これに対し、ウチは水洗で便座も温かい。カネのかかる便利な生活がそこにある。むろん離れられない。離れる気もない。大根もスーパーで買う。カネから離れられぬ以上、それが足りねば節約するしかない。
ああ、男は辛い。ロマンの隣に家族がいて、生活があって、そして節約がいる。
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