第60話 ふらりゆく(2010年3月)

3月12日、ふと酒が呑みたくなった。
手元の時計を見ると13時、外に出ると暖かな春の風が吹いていた。
昨日は大雪で一時は靴が埋まるほど積もった阿蘇地域であるが、庭に白いものは見当たらなかった。春の陽気が溶かしてしまったらしい。
隣町に住む友人の勤務表を見た。友人は熊本空港に勤めており、つい先日、北海道の紋別空港から転勤してきた。家が近いのでたまに呑んでいるが、「今日は夜勤」「明日は早出」とちょくちょく断るので勤務表を提出してもらった。その勤務表が冷蔵庫に貼ってあり、何となく眺めた。が、今日は夜勤であった。
(誰と呑もう?)
その事を考えると仕事が手に付かなくなった。
目の前に組立中の設備があった。それを見ながら一人の候補者が浮かんだ。この設備を依頼したお客さんであった。
設備は生鮮物切断機である。昨年冬に試作の依頼を受け、色々やったがうまくいかず、ついには本格的な設備を作ってしまった。これの組立と配線をしなければならなかったが、どうしても気分が乗らなかった。気分は完全に酒モードで、こういう時にやる仕事は大抵大きなミスをする。やらぬが得策であった。
この設備の依頼主はMさんという。球磨郡湯前町在住の農家さんで歳は親子ほど離れている。依頼主の顔を思い浮かべると何となく呑みそうな人に思えてきた。
(人吉で呑もう!)
そう決めた私はMさんに電話を入れ、今晩の都合を聞いた。
「今日の夜、どぎゃんですか?」
「え、今日?」
少々困惑気味ではあったが呑むのは構わないという事だったので人吉に19時集合と決めた。
Mさんの暮らす湯前町は人吉を中心とした球磨郡に属す。熊本県の南側一帯であり、呑むといえば人吉だろうという勝手な思いから場所を人吉にした。が、後に聞くと電車で40分もかかるらしく、その点、同じ田舎に暮らす者として、配慮に欠けるお誘いだったかもしれない。
人吉という場所は南阿蘇から本気で離れている。しかし私には行き付けのスナックがあった。友人の義母がやってるスナックで屋号をマスカットという。マスカットは若い子が膝付け寄り添うクラブ風でもなく、ヤンチャ可能な温泉酒場でもない。一次会で行ける居酒屋泣かせの庶民派スナックで、食えて呑めて歌える。それでいてスナックに求められる癒しの機能美がある。
居酒屋は呑む場所と美味いツマミを提供してくれる。しかし、それそのものに孤独な心を慰める機能はない。だから居酒屋には一人で行けない。しかしスナックには行ける。それがスナックの役割だと私は思い込んでいる。そもそも「呑みたい」の同義語は「寂しい」であり、スナックの存在意義はこれをどうにかする事にある。
全国の繁華街からスナックのネオンが消え続けている。それは地方経済の低迷も然る事ながら、それ以上に人心の変化がカタチとなって現れているように思える。昭和の心を癒し続けたスナックは平成の合理主義を前に当然の流れとして減った。減ったからこそ頑固な昭和気質のスナックには熱い需要があると思え、現にそういう場所に恋焦がれている私がいる。スナックは白木屋や高級クラブとの差別化を図り、癒しを求める呑み人を街に引き寄せねばならない。それには何が必要か、よく分からぬが、分かるものは合理主義の標的にされ、比較検討されるので、分からぬものを維持飛躍させる事が重要に思える。スナックは我々寂しがり屋にとって形而上的空間であり、だからこそ呑み人はそこを目指す。
Mさんとの約束を得た私は仕事をする気が100%なくなった。時計は14時を指していた。人吉までは高速を使い車で行くと2時間かかる。約束は19時、さすがに今出るのは早かった。
(バイクで行ったらどうか?)
ふと思い、エンジンをかけてみた。かかった。今年初めてエンジンをかけたが、さすが本田宗一郎。カブ50は放置に負けず荒い鼻息を上げ、「俺に乗れ」と私を誘った。
地図を見て、バイクで行ったらどれくらいかかるか計算してみた。4時間弱で行くと思われた。たぶん18時には人吉へ着くに違いない。ちょうどいい。そういう事でバイクで行く事に決めた。タイヤに空気を入れ、埃かぶっていたヘルメットを掃除した。
私はノリノリであった。そして、それを嫁が見ていた。
「まさかバイクで行く気?」
「そう、行く気」
「はぁ」
ふらり旅はこれが初めてではない。過去には宮崎にも福岡にも鹿児島にも行った。嫁の感想として「またか」という感じであり、夫の発作に過ぎなかった。
嫁は私に言われるまま一日分の着替えを用意し、雨対策としてクーラーボックスをカブの荷台に突っ込んだ。むろん荷台は樹脂製のミカン箱(オレンジ色)であり、そのフォルムは農村に映えた。しかし都市部では浮いた。
嫁と一言交わして出たかったが嫁は近所の奥様と井戸端会議に出ていた。仕方がないので孤独に家を出た。
暖かな春風はバイクに乗ると寒風に早変わりした。よく見ると日の当たらない場所には雪が残っていた。前後左右の山にも白いものが見えた。
(峠は大丈夫だろうか?)
その事を心配したがウグイスの鳴く南阿蘇は確かに春であった。薄着で手袋も着用していなかったが気にせず外輪山に突入した。そして焦った。峠は逃げ場のない雪道であった。強行突破を試みたがツルツルのタイヤが空転するばかりで先に進めず、雪道と遭遇する度にバイクを押さねばならなかった。
たまたま峠で知り合いと会った。雪景色の写真を撮りにきたらしい。カブ50を押してる私を見て腹を抱えて笑った。「今世紀最強のアホ」と言われてしまった。
峠を抜けると雪は消えた。しかし寒かった。あまりにも寒く手が凍ってしまいそうだったので、コンビニで軍手を買おうと立ち寄った。しかし、コンビニの軍手は高かった。ホームセンターの軽く五倍であり、便利と値段の帳尻合わせを痛感した。結局、貧乏性の私は軍手を買わなかった。しかし買うべきであった。数百円をケチって数時間苦しむ必要はなく、その点、寒さで思考回路が麻痺していたとしか思えない。
コンビニではコーヒーを買った。体を少しだけ温めた後、二本杉峠という強烈な田舎道へ入った。入った瞬間「軍手を買いたい」と念じ始め、念じ続けて三時間、買える環境を得たのは目的地周辺であった。
ちなみにこのルートは九州でも屈指の田舎道である。何せ平家の落武者が壇ノ浦から逃げきったルートで九州山脈のど真ん中を通る。平地の人は山中に集落があるとは思いもせず、川を流れてきた日用品で川上に人がいることを知ったという。近世の話である。
明治以降、日本という国が劇的変化を遂げる中、山の上の集落は真空層を持つ魔法瓶の中にいたようなもので、昭和の中期に至っても上代の香りが漂っていたらしい。民俗学の宝物として学者に重宝された。柳田邦夫や宮本常一が興奮気味で調査を行い色々書いてくれたようだが、私はそういう知識や興味を持たず、単なる好奇心のみで彼らから遅れること数十年、この道を歩いた。そして泣いた。恐ろしく魅力的な道であった。が、それは15年以上も前の話で、今はほぼダムの道であり、道から生活の匂いが消え、暗い政治の象徴になってしまった。
砥用町から二本杉峠に差し掛かると小さな集落があった。早楠(はやくす)という集落らしい。津留川という小さな流れに沿った石垣の良い集落という記憶だったが、どこか元気がなく、その代わり立派な道や喫茶店ができていた。どこの僻地もそうだが、僻地に立派な道を通すとそれが風穴になって若者が出て行ってしまう。そしてスカスカになった集落に都市部からちょっとだけ人が入ってくる。その人たちは文化の担い手にはなれず文明の運び屋となり、普遍的な産業や習慣が集落に跋扈する。そうなった時点で文化は消え、集落の特色はなくなってしまう。
手元にぶ厚い本がある。それを見ると二本杉峠が林道として通ったのは昭和35年らしい。牛馬の背に荷物を乗せ、この先の泉村へ物資を運んでいたらしいが、冬は路面が凍結し、毎年何頭か死んでいたという。時代を経て道は格段に良くなっているが、なるほど日の当たらぬところは雪道でガードレールの下は絶壁であった。
雪のない道はバイクに乗り、雪道は押して歩き、かなりの時間をかけて二本杉峠の頂上に立った。頂上は一面銀世界であった。手元の地図によると標高1106メートル。こんなところに手袋もせず軽装で、更にカブ50で来てしまった私はどうすればいいのか。登りはいい。これから下りが始まる。下りの雪道に高速で突っ込んだが最期、牛馬と同じ運命を辿るだろう。
下りは私の記憶によると立派な二車線道であった。確かに立派な道が通っていたが、なんと通行止めで、「自然災害により当分の間通行止め」と書いてあった。道の機能を放棄しても大して問題じゃないところに人煙の稀な具合が見えるし、そこに巨大な道を通した行政も凄い。この道はダムのオマケであり、つくった後、豪快に放置されるのもダムの定石。ダムを抱える山村の風景はどこもこういう感じである。
迂回路を通った。迂回路は危険極まりない雪交じりの日陰道であった。が、何とかこけずに沢まで下った。沢は西の岩川というらしい。狭い道が沢に沿って走り、人の気配がなかった。その代わり獣は多かった。鹿がピョンピョン跳ねていて、私を見ても逃げなかった。獣の領域主張であった。
道のかたちは実に良かった。単に古道を舗装したものと思われる。谷に沿ってグニャグニャ走っていて、重機を持った文明人がいかにもトンネルを掘りたくなる道であった。
栴檀轟の滝、下屋敷を経て椎原へ出た。椎原は平家落武者伝説のメッカであり、ここで国道に合流した。猛烈に寒かった。椎原で寄りたいところが幾つかあったが、雪道の遅れ、迂回の遅れと遅れが嵩み、約束の時間に間に合わぬ気がした。既に手足の感覚もなく、止まると再起が困難に思われた。先を急いだ。
国道は有名な川辺川と共に高度を下げてゆく。五木村をダムの道で通過した。次から次へとダムに付随したコンクリートが現れ、毎年景色が変わっているように思われた。十五年前、歩いて五木村を通過し、
(凄い道だ! 素晴らしい!)
惚れ込んだ道が今どこにあるのか全く見当がつかなかった。看板で右へ左へ導かれ、コンクリートを見ているうちに五木村を通過した。
日が暮れてきた。相良村に入った。顎がガチガチ鳴り出した。と、同時に交通量が増え、チラホラ光が見え始めた。古い時代の旅人はここらで生きた心地を得ただろう。獣の領域を出て人間の領域に入った。そういう感じがここでする。
少し前まで人間社会の風景的確認は田んぼが担っていたに違いない。川辺川が作った僅かな平地に田が見え始め、それが徐々に増し、人吉盆地で一気に開ける。街というのはそういう風にできていて、街の魅力を陰で支えていたのは街から伸びる長い獣道であろう。
カブ50とそれに乗る太り身は凍りついていた。凍ったまま目的地のスナックに着き、ヘルメットをかぶったままドアを開けた。
「オヒサシ、ブリ、デス」
「あらー、福山君、久しぶりー! 連絡もせずにー!」
ママは青い私を見ると声を荒げてそう言ったが、連絡しようにも田舎道の連続で電波が入らなかった。
「サムインデ、オンセン、イッテキマス」
我身に熱を与えねば呑むに呑めない状況だったので、まずはオススメの温泉を聞いた。人吉城の隣にある小さな温泉が最高という。湯場の名は元湯というらしく、さすが夜の女王のオススメだけあって地元に愛されている風格があった。昔ながらの渋い造りで番台があり、中には小さな浴槽が一つ、モロに私の好みであった。
人が多かった。その中で老人が血を流していた。浴槽の端っこに手をぶつけたらしく、血が止まらないらしい。常連総出で止血に精を出しており、良い光景だったが私は湯船に走った。冷えた体をどうにかしないと大好きなお節介もできなかった。
湯船は四人入るといっぱいだった。四人が体育座りで向かい合い、他愛のない会話をした。皆のぼせて上がったが、私は長いこと浸かった。
「おたくは根性があるねぇ」
常連さんが褒めてくれたが、そういうものではなく、それだけ浸かる必要があった。
温もった私はMさんを交え、スナックで呑んだ。バイクで来た事を告げると、
「何で?」
真顔で聞かれた。聞かれて困った。
(確かに何で?)
理由は今も分からぬが、とにかく衝動的にふらりゆきたい、そんな気分がたまにある。
「男の子ですから」
苦し紛れにそう返したが、自分自身よく分からなかった。
スナック・マスカットは相変わらずちゃんとしたスナックであった。このご時世、賑わったスナックを見るだけでも心地良いのにカウンターでクダを巻く常連がいた。ママは酔った常連を叱った。それを横目に静かに呑んでる常連もいた。団体さんは勝手に歌って盛り上がり、常連もそれに負けじと演歌を入れた。マスカットにはスナックの基本的構図が一通り転がっているように思えた。構図は人間模様である。模様は多種多様であればあるほど面白い。
Mさんは二時間で帰った。私はハシゴする気満々だったので、もう一軒だけ雰囲気の良さそうなスナックに立ち寄った。小奇麗な店だったが客はいなかった。若いママさんが隣に付いてくれたが話もそこそこに切り上げた。やはり私は人見知りで、知らない人と二人の時間が苦痛らしい。
マスカットのママは相変わらずパワフルだった。「朝飯を一緒に食おう」と私を誘い、早朝から旅館の食堂にやってきた。ママは類稀に見る食わせ上手であった。気が付くと食い過ぎて動けない自分がいた。ちなみに食わせ上手は遺伝するらしく、ママの娘さんも凄かった。この娘さんの山盛り朝食を頂いた時も動けなくなった。
ママは短い睡眠で今日もパワフルに一日を過ごすらしい。これからお客さんとウォーキングへ行くという。私はゆっくり温泉に浸かり、満腹感が引くのを待って旅館を出た。
すっかり忘れていたが玄関前にバイクがあった。それで思い出した。
(これで帰らんといかんのか・・・)
ふらり旅行、行きは気分がノッてるが帰りは正気になっている。また四時間も愛車に乗る事を思うと正直捨てて帰りたくなった。
旅館を出た。ウインカーがボトリと落ち、後続の車に踏み潰された。バイクの走行距離は推定10万キロ、整備不良というより大往生の予告に違いなかった。
雨も降ってきた。大雨になった。南阿蘇は遠かった。山を三つも越えねばならず、雨雲と二人、北への長旅は永遠と続いた。カッパを通して水がへそに達してきた。今度はギャランドゥーを伝って股間に達した。
「何でバイクで来たんだろう?」
Mさんの素朴な質問を反芻し泣きたくなった。ふらりゆくのも考えもので、もはや心の病気であった。
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