第90話 回転寿司にて(2013年11月)

凄い集団が来た。回転寿司に文明拒否の四人組である。
昨今の回転寿司はタッチパネルで注文が普通だが「そういうモノは一切やらん」と老年四人組は言う。
「ここに写真付きのメニューがあるじゃない!これで注文するわ!」
四人組、頑として引かない。
「そう言われましても当店はタッチパネルでのみ注文を承ってますので」
店員はタッチパネルの使い方を説明するが四人組は見向きもしない。
「だから、そういうピュッしたモノはやらないって言ってるでしょ!見ても分かんない!」
四人組は「茶がない」「皿ない」「醤油ない」と店員を呼びっぱなし。注文した寿司を新幹線が届けても寿司を取ろうとしない。新幹線はこのテーブルに長期滞在。店員が慌てて駆けつけ寿司を取り、赤いボタンを押すよう言うが、
「ボタン?そういうのはイヤって言ってるでしょ!」
四人組は何が何でもピュッとしたモノ(四人組の表現)を触りたくないらしい。
隣で見ていてイライラした。が、不思議なもので段々期待するようになってきた。次は何と言ってゴネるのだろう。四人組が民衆だと思えば腹も立つがコメディアンだと思ったら笑えてきた。店員の反応も同様で、最初イライラしていたが、次第に諦め、笑い倒す方向に転化したようであった。
店員はペンと紙を用意した。よく見るとペンが筆ペンであった。「ボールペンやシャープペンは知らんでしょ」という皮肉であろう。メモ紙もいい。ポストイット風の小さいそれであった。これに筆ペンは一枚一品しか書けない。
(さて、どういう風に書くのだろう?)
私はハマチを食っていた。が、味わえなかった。隣の席に釘付けであった。食いながらパネルを押すフリをして中腰になった。隣を見た。吹いた。ハマチがテーブルに飛び散った。超達筆な字で「鮭の握り」とメモ紙いっぱいに書かれていた。
(カタカナ語を拒否!サーモンじゃなく鮭!字が太い!ニッポン!むふー!)
四人組は期待を裏切らなかった。その後の会話で口内に残っていたシャリが全て吹っ飛んだ。
「私も鮭ちょうだい」
「どうやって数を書くの」
「右に書くのよ」
恐る恐る中腰になった。見た。また吹いた。
「むふっー!」
「鮭の握りT」「雲丹の軍艦T」「鮪の握り正」お品書きに続いて正の字が書かれていた。
(さて、店員はどう見る?)
全神経を隣に集中させ、その声を聞いた。
「マグロのにぎり、しょう?」
(はうっ!)
まさか店員、正を「しょう」と読んだ。更に、
「ウニのぐんかん、ティー?」
(もーだめ!むふふっ!)
私は突っ伏してしまった。
要領を得ない四人組と店員は、
「しょう?小?普通のサイズでいいわよ!」
「ティー?お茶?濃い目がいいわ!」
大混乱。全く会話が通じなかった。分かっているのは隣で苦しむ中年一人。分かっているから突っ伏し、腹筋壊れて身悶えた。笑い死にするかと思った。
「ダメ、勘弁して…」
呼吸を整える私に四人の雑談が更なる追い打ちをかけた。
「この店、意味分かんない!」
「この黒いボタン何よ?」
「新幹線を呼ぶボタンじゃない?」
「押してみて」
「アツッ!」
「キャー!」
「これお湯が出るところ!お湯って書いてあるじゃない!もー!」
腹筋捻れて大回転。突っ伏したまま即死であった。
さて…。
自宅に戻り老年四人組を反芻した。強烈な笑いの裏には強烈な人間臭があって、臭いものは嗅ぎたくなる性分であった。
人は了見の範囲内で生きている。知っている側から見て知らぬは滑稽だが知る知らぬの境ほど微妙で楽しい世界はない。四人と我々の境は回転寿司にあった。我々も笑ったが四人組も笑ったに違いない。互いに滑稽を笑い合った。
「あの若者も、その店員も、画面ばかりで人を見ない!ヘンよ!ヘン!手を介さずハリボテ列車で品を受け、茶も皿も自分で準備!家で飯食ってるのと一緒じゃない!アッチもコッチも同じ事!同じ流れでロボットみたい!コンベアに乗っているのは寿司じゃない!アンタたちよ!」
「何と言われましても現代の回転寿司はそういうところですから」
むろん上の会話は空想だが、結局そういう事で押し問答があった。四人組はこう言い捨てた。
「私たちが知ってる回転寿司じゃない!」
「今はこういう仕組なんです!」
たぶん四人は間違っている。店員が典型的文明人ならば一蹴されたろう。
「理解せんなら来んでいい!来るな!」
それはあまりにも寂しい。今回は店員に救われた。私も救われた。だからこうして書けている。
書きながら色んな人を思い出した。引かぬ媚びぬ老人が昔はたくさんいた。
昔の老人はとりあえず頑固であった。若者は老人の頑固を笑い、老人は頑固を笑われ死んでいった。葬式は老人の頑固と、頑固の裏の優しさを語るためにあった。
頑固が生きにくい社会である。
「こういう社会でごめんなさい」
我々は謝るが適当、いや、礼を言うが適当だろう。老人の了見の上に我々の了見が乗っている。了見はダルマ落とし。すぐに我々の当たり前も当たり前じゃなくなる。了見など笑われてナンボ。「笑わせてくれてありがとう」が適当な反応で、すぐに笑わす番がくる。
四人組は最後まで店員に絡み続けた。店員の歳を聞き「孫と同じ」と盛り上がり「アメをあげる」と盛り上がった。
ピュッとしたモノで注文した我々はスムーズに食い、スムーズに払い、スムーズに帰った。
(何が正しいのだろう?)
理は現代にある。
(理って何だ?)
ほんと分からん理詰めの世である。
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