第93話 美術とは何ぞや?(2014年2月)

美術の人がやって来た。申し訳ないが最初猛烈に警戒した。
阿蘇にはアーティストと呼ばれる人が多い。色んなアーティストと呑んだが、みんな言ってる事が意味不明で、やたら横文字を使いたがった。先日メーカーフェアというモノづくりの祭典に参加した時もアーティストと名乗る人は難しい横文字が多かった。ラジオを聴いて思うのもアーティストは遠い人。とても同じ語族に属しているとは思えず、田舎の婆様が外国人を見たら逃げるように、私もアーティストを見たら逃げるようにしていた。
さて…。
突如お越しの美術人は明るく爽やかであった。当然私は逃げ腰だったが、どうもこの人は私が知ってるアーティストとは違うらしい。通じる日本語を喋ってくれた。会話になった。私が作るモノに「興味がある」そう言われた。
美術の人は女性であった。女性に興味があると言われ、私の態度は急変した。逃げ腰は瞬時に攻め腰となった。こういう点、中年として猛省するが男の反射ゆえどうしようもない。
振り返れば過去に3度も駅前の喫茶店で高級印鑑を売り付けられた。むろん買う寸前に気付いたが、知らない女性の親しげな態度は純情に痛い。印鑑出されるまでどれも本気で話を聞いた。
美術の人は美術品を売り付ける人ではなかった。美術館に勤める人で名刺には熊本現代美術館・学芸員と書いてあった。恥ずかしながら熊本に美術館がある事すら知らなかった。美術とはそれ程に縁遠い世界で理系の踏み込む場所ではないと思っていた。
既に思い込みで書いているが、更に思い込みで書きたい。
美術、宗教、行政は文系の世界だと思い込んでいる。そう決め付けているから接点がない。これらの世界は手触りがない。ぼんやり。ふわり。そういう感じは理系を寄せ付けない。理系の思考は万物を切り取って理解しようと努める。次いで理解できたモノを組み合わせ新しいモノを作る。が、ふわりには理系の刃物が刺さらない。どこを突いても手応えすらない。
むろん文系の人と接する機会はある。友達もいる。が、接する度に違う世界を感じる自分がいて、その距離が一向に縮まらない。
「人脈ですよ!結局は人脈と運です!」
これは巨大組織(特に行政)の口癖で、更には呑み会の総括であるが、これを理系が言ってしまうと永遠にモノができなくなる。
万物、人の数が増えると維持保全の力が働く。その段階になると理系の出番が少なくなる。文系は得意の呪文でオブラートに包み、色んなものを見えにくくする。理系は見たい。文句を言いたいわけじゃなく見たいは理系の反射である。
宗教家の大半も難しい言葉を縷々並べ、色んな人を煙に巻こうとしている。少なくとも理系の私にはそう見える。分からないから分からないと正直に告げ、細かく質問する。悪気はない。知りたいのだ。すると、
「祈りなさい!信じなさい!アーメン!南無南無!あなかしこ!」
またも煙に巻かれる。理解するのが理系の入口だから、これでは前に進めない。
美術はもっと分からない。今に残る美術品の大半が政治や宗教に寄り添ったものだから分からなくて当然かも知れぬが、兎角美術は感性らしい。
「感性?」
何と怪しげで意味深な言葉だろう。如何にも文系が金庫にしまいそうな言葉で捉えどころがない。
美術好きの知り合いが数人いる。素面で聞いてもつまらんので、酒を呑み、ぐでんぐでんで話を聞いた。
「理解したいが理解できん!美術とは何だ?感性で飯を食う手法か?」
美術好きはこう言い切った。
「お前は真の美術と出会ってない!本当に波長が合うと動けなくなる!ビビッとくる!奇跡の合致を探す試み、それが美術だ!」
美術に会いたい。感性合致でビビッとなりたい。美術的目覚めが欲しい。
私は家族みんなで美術館へ行こうと提案した。私がビビッとなる可能性は低いが五人もいれば誰かビビッとくるだろう。ビビッとなった人を間近に見るだけでも美術を知るキッカケとなる。
家族全員で家を出た。全員初めての美術館であった。いきなり未知との遭遇は脳味噌クラッシュの恐れがあるので、まずはクラシックコンサートを観た。「子供も観れるクラシック」という保険屋主催のイベントで、動物のかぶりものをした奏者が見事な演奏を繰り広げるというものであった。楽しかった。時に眠くなった。威勢のよい金管楽器はいいけれど、弦楽器はどうもいけなかった。眠いのは自分だけかと周りを見た。うちの家族だけ全員寝ていた。どうもこの家には芸術の適性がないらしい。
この家が美術と繋がりを持つのはこれが最初で最後かもしれなかった。気の迷いかもしれぬが美術の人が来てくれたというのは事件であり出会いだからこのタイミングを逃してはならなかった。クラシックで助走し、美術館で目覚めを迎える予定であった。が、助走をしくじり全てが狂った。
美術館が近付いてきた。近付けば近付くほど家族の雲行が怪しくなった。長女が「頭痛い」と苦しみ始めた。次女は「腹痛い」と動けなくなった。三女に至っては「腹が減った」と縦横無尽に転がった。収拾がつかなくなった。
この日は特別な日であった。芸術に次ぐ芸術、そう芸術デー。美術館の後には、
「福山家の芸術大開放を祝し大宴会だ!」
嫁も呑むつもりの電車移動。美術館には是が非でもテンション上げて乗り込みたかった。そして、その感想を持って大宴会がしたかった。
「行くぞー!」
田舎から来た五人組は大混乱のまま突入した。指令は「全て見よ」その中にビビッとくる何かがあるかもしれなかった。
最初の部屋には巨大な絵と紙製のピアノがあった。
「ビビッと来るか?」
「こんっ!」
「お前は?」
「こんっ!」
次の部屋にはデジタル芸術があった。よく分からない映像をプロジェクターで投影してあった。何か意味深なテーマがあるのだろう。考えに考えた。説明パネルも全て読んだ。が、意味不明であった。
「デジタルの申し子!今を生きる子供たち!お前たちなら分かるはず!感じるか?」
期待したが、子供たちは遊びの可能性のみ感じたらしい。プロジェクターで影絵遊びをし、
「キツネとキツネがディープキス♪」
ヘンな歌を歌い始めた。申し訳ないがセンス皆無の私には影絵キツネのディープキスの方が面白かった。
自問自答の瞬間もあった。覗きカラクリみたいなボックスがあった。嫁が言うに有名な芸術家の作品らしい。穴を覗いた。すると鏡の部屋にボールが浮いてて自分の顔もたくさん映った。壮大なテーマを表現しているらしい。
「感じるか?」
自分自身に問うてみた。
「うん、感じる」
「何を?」
「え?」
何も言えなかった。言えなくていい。それが芸術だろう。言葉に頼ろうとするから芸術が理解できない。小田和正もこう言っている。
「言葉にできない」
言葉にできないから小田和正は「ラーラーラー」と歌い、さだまさしは「アーアーアー」と歌った。美しいや面白いに理由はいらない。作り手の感性がそこにある。それ以上もなければそれ以下もない。
「理解してはいけない!感じろ!感じるんだ!」
美術館は文系に寄る修行であった。想像以上に苦しい展開に陥った。
フロア中央は図書館になっていた。解説を読むと美術的空間となっていた。が、素人の私には喫茶店っぽく見えた。現代美術館だから現代感性の主流がこの空間かもしれず、そうなるとシャレた喫茶店の象徴がそこにあってもおかしくない。
「どうだ感じるか?」
「僕は変です!全く感じません!」
私と嫁のビビットはどこにあるのだろう。子供のビビットは既に諦めてしまった。長女はベンチで寝てしまい、次女は腹が痛くて便所通い、三女に至っては床に寝るのを叱ったらいじけてどこかへ行ってしまった。
企画展がやっていた。アール・ブリュット・ジャポネ展と銘打たれていた。横文字の時点で意気消沈したが戯れに解説を読むと実に面白そうであった。
アール・ブリュットは「生の芸術」と訳すらしい。美術教育を受けてない人の作品をそう呼ぶらしく、多くは障害を持つ人の芸術を指すそうな。
「つまり山下清?」
「そうだね、山下清だね!見よう!」
子供三人は勝手にやるというので嫁と二人じっくり見た。
全てをくまなく見た。展示物は細かいモノが多かった。期待したビビットこそ起きなかったが、私や嫁でもじゅうぶん楽しめる内容であった。
(これが美術の愉楽か?)
そう思ったりしたが振り返るに違う愉楽であった。酒を呑み呑み嫁の話を聞くと作品の感想より制作者の感想が多かった。我々は美術を楽しんだようで、実は人間の多様性を楽しんだらしい。
山下清の貼り絵を見ても分かるように、
「なぜ、これほどまでに細かい?」
そう思わせる作品が多かった。モノはそこにある。そこにあるけれど、疑問の回答、制作者の心の中は覗けない。覗かなくとも良い。芸術とは作品が全てであって、モノとの対話が美術観賞の全てだろう。
私はモノだけを咀嚼し、美術品と向き合うべきであった。が、そこにはパネルがあった。パネルには作った人の詳細があり寸評があった。大衆の「なぜ?」にパネルが応えていた。
モノとパネルを見比べる作業が楽しかった。しかし、この楽しいは美術品に向けられたものではない。多様性が生み出す人間ドラマに向けられたもので、これを美術の愉楽と言ったら美術好きに叱られてしまう。
「それは単なる人間観賞!美術鑑賞とは違う!」
ごもっとも。だったらパネル全てを引っ剥がし、障害者の制作という情報も伏せ、モノだけを陳列すれば良い。
私はパネルなき陳列をどう歩くだろう。何事もなく通過してしまうかもしれない。いやいや、そのお陰でビビットを得、学芸員に制作者の詳細を問うているかもしれない。
何にせよ私を含め人間は名前に弱い。山下清を知ってるからこの展示会を見た。山下清の流れがあるから天才を感じたくパネルを読んだ。読んだ時点で私は美術というものを見ていない。が、美術館という箱はこういう風に大衆を寄せ、現代美の背骨を探す、もしくは創るためにあるのだろう。色んなパターンを試し、最も受け入れられたカタチが美の常識として喫茶店っぽさになったり、今時の住宅になったり、ユニクロになったりする。
美術にパネルはいらない。美術館にパネルはいる。美術品にもアーティストにもパネルがいる。パネルとは普遍性で、それがなければ飯が食えない現実がある。
分からんものを見に行って分かった事は文明という普遍性のしつこさ。そして如何に自分も普遍性に馴らされているかという実態。
企画展を出ると子供たちが美術館の端っこで遊んでいた。木で作ったボールプールがあった。ここにはパネルがなかった。誰の作か分からぬが、実によくできていて見事な組物であった。
ボールプールの前には彫刻されたブタがいた。重量感といい手触りといい耳の具合といい最高に愛らしく、動かしたくなった。優秀な造形を見ると動かしたくなるのは職業病で(ビビットとは違うが)その日の傑作はまさにこのブタに尽きた。
ちなみに美術館後の宴会は中止になった。次女の腹痛が悪化した。下痢ラッシュでペンギン歩き。連れ回すわけにもいかず即帰宅の運びとなった。
夜の電車で家族に問うた。
「美術とは何ぞや?」
「しらん」
家族の即答、我に通じるものがあって空を眺めた。蛙の子は蛙。美術館というリトマス紙は誰にも反応しなかった。が、芸術的センスがないかと言うとあながちそうとは言えない部分があって、キャンパスに収まりきれない大きな芸術は身に沁みるらしい。
「今日の星きれー!」
「ほんとだ!きれー!」
アーティストもこれは描けまい。作れまい。
「美術とは何ぞや?」
感性の話は語るにせんない。そういうものだろう。
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