第95話 愛、それは作業着(2014年4月)

長女の卒業と入学があって、ここ数日式典が多かった。式典は正装で臨まねばならない。技術屋の正装、それは作業着であって他は知らない。
まずは卒業式。私は洗い立ての作業着に身を包んだ。メーカーは自重堂。作業着の一流メーカーだから正装として非の打ちどころがない。が、嫁は気に食わないらしい。作業着はダメ、背広を着ろ、ネクタイを締めろと言う。
「なにー?」
そもそも嫁はカラクリ研究所唯一の社員なのに作業着愛が薄い。いや、むしろ、作業着を手強い洗濯物と見、思いっきり憎んでいる。
嫁は座ったら眠くなるという理由でデスクワークを拒否した。自ら現場で働く事を望み、望んだゆえ作業着を買ってあげた。が、その作業着を嫁は恥ずかしいと言う。嫁は来客があると作業着を脱ぐ。家を出る時も脱ぐ。授業参観にも着て行かない。ヨレヨレのジャージや水着より作業着が恥ずかしいと言う。
「むかつくー!」
私は作業着が好きで好きでたまらない。好きと言うよりも既に血肉となっていて、嫁や子供より遥かに付き合いが長く、愛の段階に達している。
私は技術屋に囲まれて育った。祖父も伯父も実父もみんな技術屋。先人は起床と共に作業着を着た。脱ぐのは夜。決まって入浴前であった。休日もそんな具合で常に作業着。つまり作業着に囲まれて育ち、当然の流れとして大人になったら作業着を着ると思っていた。
初めて勤めた会社はモーターやロボットのメーカーで、その作業着は緑が鮮やかだった。ズボンは茶色。腰から上は若い緑。つまり新緑の立木を現していて自然派の私は猛烈に気に入った。
北九州で研修を受けた後、埼玉県の入間市に移ったが、都心の池袋へ行くにも秩父の山へ登るにも作業着を愛用した。コンパで女性に身を委ね「君の添え木になりたい」と言うのは決まり文句で、この作業着なくしてはこのラブコールが成立しなかった。同様に富士山に登った時も手を広げ「富士山頂に植樹」というギャグが成った。年輩層にはウケたが若年層にウケなかった。
この会社に五年三ヶ月勤めた。独身寮も社宅も会社の隣にあって通勤も作業着。帰りの一杯も作業着。起きてる時間は常に作業着で過ごした。が、六年目に作業着通勤禁止の御触れが出た。ロッカーを貸与するから着替えなさいと言う。私は会社を辞めた。貸与されたロッカーを一度も使わずに辞めた。
二社目の作業着は青かった。これもなかなかシャレオツで常に愛用していた。
会社への愛は作業着愛から始まるだろう。努めて着た。常に着るべく努力した。なのに叱られた。呼び出された。
「呑み屋に作業着で行くな」
作業着で呑み歩く中途入社がいると噂になっていたらしい。
「何か問題でも?」
こういうのが未だによく分からない。社名や職業が見えて何が悪い。隠す事ではあるまい。むしろ成人が成人として胸を張るべき重要なポイントに思える。
「あいつは社のイメージを落としそう」
むろん、その危惧も分かる。分かるが、それほどに信用できんなら雇わなきゃいい。
「そういう事ですか?」
「そういう事じゃないが、とにかくダメなものはダメ」
私はこの時の上司と服装の事でやたら喧嘩した。現場とはいえ事務系にはそれらしい体裁があると言う。ある日、作業着の下にネクタイ着用を命じられた。私は首がないから今も昔もネクタイが嫌いである。ボール盤やフライス盤など回転機を使う仕事もあったので、
「暑い!苦しい!巻き込まれたら死ぬ!百害あって一利なし!」
着用を拒否した。結果「とりあえず持って来い」と言われ、机に入れてはいたが一度も着用しなかった。クールビズの先駆けであった。
次いで「作業着のズボンを背広の下に替えよ」そういう指令も受けた。むろん「汚れるからヤダ」と拒否し、率先して汚れ仕事を引き受けた。気付けば職場にいる作業着が私だけになった。
「ダメなものはダメ!」
「僕もダメなものはダメ!」
この会社は二年弱で辞めた。
三社目は作業服をくれなかった。事業開発室という営業のような経営補佐のような、よく分からん立場に置かれたため作業服は要らんとなった。
「背広で良かろう」
この展開を受けて嫁は新しい背広を買ってくれた。が、数回しか着なかった。それも仕事ではなく、結婚式と娘の行事で着た。
会社にはやはり作業着で行った。現場で働く工員から予備の作業着をもらった。貰って着るほど作業着好きの私を見、社長もやっと作業着をくれた。が、現場と違うデザインが与えられた。事務方用という説明だった。正直ダサかった。
作業着は厚手でピタッとしたのがいい。機械の角に引っかかっても破れず、油汚れを恐れない。それでいてムダなポケットが四方八方あるのがいい。ポケットは数ヶ月同じものを着ると工具のポジションが自ずと決まる。すると作業効率が上がって気持ちがいい。
私は事務方のくせにやたら現場を愛した。事務方の作業着はすぐに破れ、結局、現場の作業着を着用した。現場の作業着はネズミ色の自重堂だった。
この頃、私は一つの確信を持った。作業着の色はネズミや紺や深緑、暗い色がいい。それらの色は汚れて洗うを繰り返すと一年がかりで技術屋の色になった。
ちなみに三社目の作業着(ズボン)は今も現役で、ウエストアップに耐え切れず一度ホックが飛んだ。それ以外は何の問題もなく、暗いネズミ色は白く霞んだモヤになり、油汚れは雨雲のようで、雪舟の水墨画のような得も言われぬ味となった。嫁はこの作業着を汚らしいと言って何度も捨てようとした。そういう点も嫁は作業着と向き合っていない。
三社目も二年弱で辞めた。嫁は四社目に行けと言ったが、三十で独立は中学の作文で書いた未来予想図なのでその通りにした。
独立してからは上記ネズミ色のズボンとホームセンターで買った安物の作業着を着まわした。が、昨年思い切って自重堂のちゃんとした作業着を買った。色は紺にした。ちゃんとするからには社名も入れようと左腕に刺繍も入れた。刺繍の色は金字塔を意識して金色がいいと思った。が、嫁は黒字になるよう黒がいいと言った。嫁の言う通りにした。手元に届いた。紺色に黒の刺繍は全く目立たず読めなかった。
話を戻す。卒業式である。
色が落ち着くにはもう半年かかるだろうが、新調したこの作業着以外正装は考えられなかった。私は作業着で家を出た。嫁は怒った。怒り続けた末、地団駄踏んで少し折れた。
「じゃ、いいよ!ネクタイはしなくていいけどスーツは着なよ!」
文明の鎖ネクタイは外していいらしい。が、社会の透明マント「背広だけは着てくれろ」と言った。嫁の言う通りにした。
卒業式の後、謝恩会があった。嫁は「普通」にうるさかった。
「普通に目立たない格好がいいよ!みんなと合わせて普通でいて!」
しつこく皆の普通を聞けと言うので知り合いのMさんに聞いた。
「謝恩会はラフな格好で行くよ」
Mさん確かにそう言った。そう言ったから作業着で行った。すると全員背広であった。Mさんもバッチリ背広であった。
床屋の奥様が笑いながら寄ってきた。
「なんで作業着?」
真顔で聞かれた。
「技術屋の正装です」
こちらも真顔で返したら爆笑された。
「そうよねぇ昔は格好で職業が分かったもんねぇ!福山さん古風ねぇ!」
古風と言われて嬉しかった。嫁も喜んでいるかと思ったら嫁は他人のフリをしていた。嫁は今風であった。
四月になって入学式があった。入学式も洗い立ての作業着で行った。
長女の友達は私が背広を着るか着ないか予想し、大いに盛り上がったらしい。
私は作業着で最前列に座っていた。嫁はバッチリ化粧し、スーツを着、私の隣にちょこなんと座っていた。
「あんたの親ウケるー!スーツと作業着、この組み合わせ何ー?」
長女の友達は私でなく私たち夫婦の組み合わせに笑ったらしい。
「で、何と応えた?」
「オットーがオットーの考えで勝手にやってるんだから私は知らない、ママも知らない、とにかく、みんな勝手にやってるって応えた」
「最高!百点!」
私は長女を褒めた。床屋の奥様も言ったが昔は格好で職業が分かった。職種であれ団体であれ、その小さな花を大事にし、誇らしく飾って胸を張った。
「俺はこれで生きてる」
作業着で胸を張って何が悪い。嫁は嫁で黒子に身を扮すためスーツを着た。
「普通に生きて、普通に暮らして、普通に死にたい」
嫁の野望はそれであり、波風嫌う女の主張がそこにあった。
職種や生き様が分かる正装こそ成人の成人による成人のための正装ではないか。
「世界中を横一線に並べ、ピランピランの首輪(ネクタイの事)で繋ぎ、個を隠す背広で覆ってしまえ!」
これは戦後アメリカによるグローバルスタンダードという魔術で、ニッポンという国は深刻にそういう具合になってしまった。
私は日本の庶民である。室町様式が確立して以来、色んな普通が出来たが、ちゃんとした普通は一握りのお偉いさんだけが知ってりゃいい。下々には下々の普通があって、集落や組織、それら小さな団体にも胸を張れる普通がそれぞれにあった。普通が渦を巻いて鎮座するのがニッポンの仕組であって、それらをローラー作戦で均し、巨大な普通に一本化しようなど世界経済や政治、それにアメリカ様が求めても、
「小さな花が許さめぃ!」
お天道様に成り代わって背広の海に愛を叫ぼう。
愛、それは作業着、技術屋の誇りである。
私は作業着を着る。悲しいが嫁はスーツを着る。
私は子供にオットーと呼ばせている。悲しいが嫁はママと呼ばせている。
私は長女の友に笑われた。嫁も一緒に笑われた。
ありがとう長女の友。笑ってくれてありがとう。一つ並んだその花が同じ花とは限らない。笑いとは不揃いの妙。笑ってくれ。さあ、みんな笑ってくれ。このおじさんは、この作業着が好きで好きでたまらない。
金子みすずが言ったっけ、
「みんな違ってみんないい」
言うは楽だが娑婆で通すは難儀。我今日も作業着を着て愛を叫ぶ。
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