第六話 男の苦悩 *社内新聞九月号掲載

男という生き物は女の変わり目に必ず苦悩するものだ。
例えば父親。
少女からレディーに変わるその数年、
「足臭い! 寄るな! 見るな! 洗濯物は別!」
己のエキスから変異した、その可愛い可愛い娘に罵倒され、
(なぜ?)
眠れぬ日を過ごさねばならない。
その事まさに運命。
例えば結婚二十五周年。
長年連れ添った妻が更年期障害を迎える。
体が熱い、頭痛がする、関節が痛い、それらのとばっちりはなぜか夫。
「このアブラ野郎! いるだけで目障り! はやく保険金をくれー!」
妻の罵声を尻目にそそくさと家を飛び出し、
(なぜ俺が?)
深夜、公園のブランコで一人寂しく口笛を吹く。
またそれも運命。
例えば結婚七年目。
三人の娘に恵まれた太り気味の男がいたとする。
彼は三十路を間近に控え、酒を呷りながらこう思うはずだ。
(俺は妻の顔色を窺いながら生きてゆかねばならないのか?)
男は最初にぶつかる苦悩、
「妻から母になる瞬間」
この現実に悩んでいるはずだ。
「遊んでよー! ゴロニャーン!」
足取り軽かった妻が出産を境にだんだん気性が荒くなり、ある時期から母になる。
母へと変異した女は、ほんの数年前の姿を綺麗サッパリ忘れ去り、子育てと韓国ドラマ、それと茶飲み話のみに没頭し、
(旦那は餌だけやっときゃ生きていく)
そういうスタンスになってしまう。
旦那がソロリ太ももなど触ろうものなら、
「やめてよっ毛虫!」
バチーンその手に平手打ち。
人として、いや哺乳類としてすら見てもらえない手厳しい仕打ちを受ける。
落ち込んだ男は次の行動を採るはずだ。
近所の図書館じゃ恥ずかしいので、ちょっと離れた書店まで出かけ、女性心理の本を読み漁る。
そして、また悩む。
(なるほどなぁ、サルもパンダもメスは変わってしまうのか、そうだよなぁ、子を産めば女は変わるよなぁ)
子育ての大変さを横目で知っているから理解しようと努めるはずだ。
が…、本で読んだその情報より、時間をかけて知った妻の印象、その方が何倍も濃く深い。
(あの妻がそんなスピードで変わるわけがない)
深層心理でそう思っている。
だから登山家が「山があるから登る」と言い切ったように、そこに隆起物があれば触りたいし、寝る時は普段通り腕枕を求めて引っ付いてくるものだと思いたい。
だから男は叩かれても叩かれても挑もうとする。
そして「なぜ?」を繰り返す。
悪気はない。
男は急激な変化に困惑しているのだ。
女性陣にだって考えてもらいたい。
何年も隣にいた福山雅治が一瞬のうちに江頭2:50に変わっていたとする。
そのありえない現実を貴方ならどう捉える?
…。
ね…。
受け入れ難いでしょ。
上に挙げた悲しき事例は決して私の事ではないので語れる立場ではないが、一般論として、男性の叫びを集めた結果として、世の女性たちに言いたい。
「その瞬間、その影で、身近な男性が泣いているんですよ」
ちなみにこの男の話、涙なしでは続きが聞けない。
「柔らかいところは触らないで!」
妻に怒鳴られた男は硬いところを探したそうな。
「カカトです、そう、カカトしか僕は触れんかったとです!」
男泣きに泣く、その男が妻のカカトを悲しげに触っている姿を想像した時、男なら絶対に胸が苦しくなるはずだ。
そして、涙を禁じ得ないはずだ。
若い男、
(そうはなりたくない!)
ゾッとし、古い男、
(俺も昔はそうだった!)
涙目で回想する。
つまり、それは男として生まれた運命、運命と書いて「さだめ」なのだ。
嗚呼、何と悲しき「さだめ」だろう。
「暑いから寄らないで!」
そう叫んでいた妻が涼しくなった途端、
「涼しいんだから寄らないで!」
金切り声で叫び立てる。
これも男と女の秋風景。
風も心も季節もそう、模様は既に秋である。


第五話 感じた数日 *社内新聞七月号掲載

私はこういうものを書いている身なので、「凝る」という事が好きなタチである。
その代わり飽きっぽい。
ダーッと集中して何かをやる、それが軌道に乗ったりダラダラしたりすると無性に別の事がやりたくなる。
好奇心に集中力が負けるのだ。
私の履歴書に書けるスキル(金を稼げるであろう技術)として、機械設計、電気設計、ソフト設計、工程改善、エッセイ執筆、この五種が挙げられるが、周りの同年代を見渡すに幅広い方だと思っている。
これはまさに飽きっぽさの賜物で、飽きて別の仕事を求めたからこそ得たものである。
ただ、それぞれが薄い。
その道数十年のベテランから見れば、私の持つスキルなどはスキルと呼べるものではないのかもしれない。
だが、その分野の話をするにはじゅうぶん足るし、ベテランたちが知らない世界を知っている強みがある。
また、今では前述の業務にも飽き、今度は営業という広域な職に就いてみたが、就いてみて色々なものが密接に関わっている事に気付いた。
世の中に無駄な学びというものは存在せず、履歴書に書けるくらいの何かがあれば、どこかで必ず活きるのだ。
こんな事があった。
会社の行事に向けて、プロジェクトX風のビデオを作ってくれと依頼があった。
人様の結婚式の時には、よくスライドショーを作っていたし、プロジェクトX風であれば二度ほど作った事がある。
「徹底的にやってもいいならやります」
ここでも凝る性格が前面に出、仕事として全力を尽くす約束で受けた。
数年前、QC発表をドラマ風に仕上げた時、
「そこまで凝らんでいいっ! お前はそれに何時間かけたっ!」
そう怒られ、
「凝らん仕事の何が楽しかとですか?」
喧嘩した経緯があったからだ。
今回の上司(社長)には了解してもらったので、気合を入れて取材し、シナリオを書き、イメージに適う動画を撮り、写真を集めた。
放映時間は凡そ40分、ほぼプロジェクトXと同じ時間であるが、一人作業は思ったよりも辛かった。
40分というと大した時間ではないように思えるが、映像の変化が少ないと紙芝居のようになってしまい、実につまらない。
凄まじい数の静止画と動画が必要だった。
「福山君はいいねぇ、そういうのが仕事になって」
皆はそう思ったろうが、だったら作ってみればいい。
私はこの仕事をやりながら、安請け合いした事、それも「最高の作品に仕上げる」と言い放った自分自身を呪った。
だが、冒頭で書いたように凝るタチなので挿入画像は妥協せず、社屋写真が必要であれば航空写真を求め、ラジコンマニアの親父に、
「ヘリから撮って」
そう頼み、それが叶わぬと分かれば、見晴らしのいい新田大橋に走った。
だが、ラジコンヘリから航空写真を撮る事業は数年前に失敗したらしく、既に撤退しており、新田大橋からは会社が見えなかった。
ならばという事で、1キロほど先にある巨大な米倉に走った。
周囲を見渡すに、高い建物はそこしかない。
「上から写真ば撮らせてください、1枚でよかけん」
そう言うと、
「責任者がおらんけん出直してきて」
若い兄ちゃんがそう返す。
言われた通り出直してみた。
すると、
「農協から部外者は入れるなと指示されている」
責任者、そんな事を言う。
「じゃ、農協に掛け合う」
そう言い残し、今度は農協に走った。
「局長がいない」
「上から禁止と言われてるもんは仕方ない」
農協の人たちも揃ってそんな事を言う。
「だったら誰に聞けばいいのか!」
こちらもだんだんムキになってきて、こうなったら県でも国でも乗り込んでやるという荒々しい気持ちになってきた。
結局は農協の次長が困惑する私を見かね、
「地元の企業ばないがしろにするわけにはいかんたい」
そう言って次長自ら車に乗り込んでくれ、米倉の上まで案内してくれたわけであるが、それが後々に繋がった。
車中、
「ファインテックはどんな仕事をやっているのか?」
そういう話になり、精密加工や研磨の話をすべきであったが、してもつまらんと思い、
「りんごの皮剥き機などを作っている面白い会社です」
適当にそう答えた。
「じゃ、いつか見せに来て」
そう言われたので、その翌週には持って行き、農協で披露したところ、それを見ていたギャラリーの一人が数日後に近所の農家を紹介してくれた。
近所の農家は私の顔をまじまじと見、こう言った。
「あんた、何でもできる設計屋なんだろ?」
農協の方が私やファインテックの事をどう紹介したのか知らぬが、「何でも」とは実に広い。
よく分からぬが、
「はい、何でもできると思います」
そう答えた。
すると、ドライアイス製造機とアイスクリーム充填機を作って欲しいという。
作るのはいいが、むろん、そういうものを作った経験はない。
正直に伝え、失敗するかもしれないという事を臭わせたが、
「やろうじゃないか! 金は払う!」
実に男気溢れる回答が返ってきた。
男として、技術屋として、こういった依頼は奮い立つものがある。
すぐさま自分の持ちうる限りの情報を集め、構想図を書き、手持ちした。
男気のある農家は男らしい男であるゆえ、納期と姿勢に厳しい。(想像)
何事も迅速にせねばならぬ。
更に、アイスの名を冠した設備を秋や冬に納めたところで何も始まらぬ。
部品加工の時間を考えると、本当に時間がなかった。
図面が農家の構想を具現化し、話が詳細な方向へ流れるうちに、とある人物の事を思い出した。
その人物とは鉄板を螺旋状に寸分の狂いもなく曲げるという人で、熊本県の工業大賞をとっている大物技術屋である。
(その人の螺旋板を使ってアイス充填機ができないか?)
思い立ったその瞬間、電話をかける自分がいた。
アポを取り、構想図を片手に乗り込んだ。
その人は予想以上にお歳を召されていて、見た目、七十を超えているのではないかと思われた。
「よいしょ」って感じの挙動であったが、技術の話になると、
「むむっ! 目の付け所がいいっ!」
その瞳が爛々と輝いた。
何やら私が使おうとしていた「その案」を先方も温めていたらしいのだ。
「絶対に秘密ね」という事で、螺旋の面白さを色々と語ってくれ、極めて有意義な時間を過ごした。
私も肥後もっこす、その人も肥後もっこすである。
福岡で「肥後もっこり」という風俗店を発見したが、そんな事はどうでもいい。
大いに盛り上がった。
「大先輩、熱かですねぇ」
「いやぁ、おたくも熱か」
熱のないところに火は生まれぬ、大いなる発展性を感じた瞬間であった。
さて…。
そんなこんなで現在アイス充填機とドライアイス製造機を製作中だが、そこへ至るまでの過程を辿っていくと、ものを書くというスキルがあったから歴史ビデオの製作依頼を受けた。
機械設計・電気設計というスキルがあったから「何でもできる」と誤解され、前述の注文を頂いた。
そして、営業をやり始め、新しいところへ飛び込むのが苦にならなくなったから、いい技術屋との出会いに繋がった。
今後どう転ぶかは誰も分からぬが(どん底に転ぶかもしれない)、とりあえず上の例でいくと、どれが欠けていても今に繋がらない。
(人間、研鑽を怠ってはいけない…)
その事だろうし、最大の悪は動かない事、その次の悪は受身でいるという事だろう。
動けば何かが起こる。
美空ひばりじゃないが、人生って素晴らしいではないか。
ちなみに…。
歴史ビデオの製作依頼を受け早1ヶ月、2週間目で飽きてしまった私、それから手付かずの状態で今もパソコンの中にある。
物事にはいい面もあれば悪い面もある。
飽きっぽいの恩恵、そして側面…。
人生いろいろ人間いろいろ、仕事を任せる側はそういう特徴を見極める必要があるのかもしれない。

密やかな追記…。
柳川の夏と接し、阿蘇恋しの感、ここに極まれり。
願わくば、阿蘇からファインテックに通いたい。
叶うはずもない、家族総意の願いである。


第四話 黄色い箱の力 *社内新聞八月号掲載

私はバイク通勤をしている身である。
乗っているバイクはホンダのカブ50。最近の古カッコいいカブ50ではなく、農家のオッサンや集金をする人、もしくは農協の職員が愛して止まない旧型のカブ50である。
購入価格は2万円。
価格が価格であるから、シートには穴が空いていて、ミラーを取り付けるネジは、当たり前のようにいかれている。スピードメーターも叩かねば動かない。
ただ、エンジンの調子はいい。何と始動セルも生きている。
見た目さえ気にしなければ何の問題もないのであるが、一点だけ困ってしまう事がある。荷物を積むところがないのである。
後ろにペタンとした荷台が付いてはいるのだが、いちいち紐で括っていては手軽な乗り物が手軽でなくなってしまう。
という事で!
先人の智恵に倣い、プラスチック製の黄色いミカン箱を荷台に付けてみた。
するとどうだろう。
私にとって何となく恥ずかしい存在であったカブ50が圧倒的な存在感を持ったニッポンの乗り物へと早変わりしたではないか。
そのフォルムは柳川の田園風景へ何の違和感もなく溶け込み、その走る姿は誰もが振り返らずにはいられない。
(黄色いミカン箱が、この乗り物をニッポンという国に仕立てた…)
私はたったそれだけの事が与える影響に唖然とし、先人の智恵と感覚に強い感動を覚えた。
(サッカーのニッポン代表も、これに乗って登場して欲しい!)
心からそう思える見事なバランスと迫力、そして愛国心であった。
ミカン箱を装着してからというもの、私は車に乗らなくなった。
通勤にも買い物にもパチンコにもカブ50を利用した。
ミカン箱は幾つもの荷物を積み、たくさんの思い出を運んでくれた。
ある時は市場で買った魚が乗り、ある時は買い込んだアルコールや食料品が乗り、ある時は会社の重要書類が乗り、ある時は愛娘が乗った。
色々なものを乗せれば乗せるほど、
(日本のものはミカン箱を基準に作られているのではないか?)
そう思えるほど、多くのものがピッタリはまる事に気付いた。
また、ミカン箱には犯罪を抑圧する効果もあるらしい。
財布の入ったバックを丸二日もミカン箱の中に置き忘れた事があった。決して人通りの少ない場所ではなかったのだが手付かずで残っていたし、バイクを離れる時、箱にヘルメットや買ったものを投げ入れてゆくのだが、取られたためしがない。
その代わり、箱の中身が増える事はある。
パチンコ屋に駐輪した時、余り玉で得たお菓子を皆が投げ入れてゆくため、自然とお土産が増える。あるショッピングセンターでは食いかけのハンバーガーが投げ入れられていた事もあった。
いずれにせよ、自転車やバイクがズラリと並んでいるところのミカン箱という環境の事である。その中でミカン箱だけが何も減らずに増えてゆくというのは何か理由があるに違いない。
そういえば、ミカン箱を装着してからというもの、パチンコの調子もいい。
信号待ちでは、
「あたはどこの農協な?」
完全なる地元民と間違われ、軽トラに話しかけられた事も一度や二度ではない。(作業着が農協に似ている事も一理あるが)
そうそう、ノーヘルで警察に呼び止められたが注意で終わった事もあった。
ニッポンという国とミカン箱には何か大いなる関係があるのではないか。
八百万(やおよろず)の神はニッポンという国を造られ、その民にオマケとしてミカン箱を与えられたのではないか。
「何なんだ、ミカン箱! お前のその力は?」
極めて宗教心の薄い私だが「ミカン箱教」なるものがあったら入るかもしれない、そう思いつつ今日もミカン箱付きカブ50に跨る。
旧型のカブ50、荷台にはミカン箱、乗っている人間は見るからに昔の体型、そして見渡す限りの地平線、見つめる先には有明海へ落ちる夕日。
(さぞや絵になる)
そう思うが、私はそれを眺める事ができないし、嫁は他人のフリ。
「頼むよ、ミカン箱」
さすがのミカン箱も、それから先は無力であった。


第三話 人柄の話 *社内新聞六月号掲載

普通なら腹が立つ事も、
(あやつならしょうがない)
そう思える奴が稀にいる。
これに対し、
(お前のやる事なす事、全て腹立つー!)
そんな奴も稀にいる。
相性も多少はあろうが、すごい奴は大体がすごいと思っているし、そんな奴は大体がそんな奴だと思っている。
民衆に意見を求め、三分の二以上が認める「そんな奴」それが人柄というものではなかろうか。
私は営業っ気が微塵も感じられない営業ではあるが、それでもいちおうは営業なので、色々な人と会う機会が多い。多いがゆえに人柄の効能と人柄の恐ろしさを人よりも心得ているつもりでいる。(うぬぼれ)
稀に会う独特の雰囲気を持ったダンディー中年。
「どうだ?」
いつもなら撥ね返すところであるが、その皺深い円熟したお顔で見つめられると、
「むむ…、そう言われましても…」
どうした事か後れをとってしまい、
「君はどう思う? 僕はこう思うんだ。 違うかい? ん?」
重圧で優しい声音、それにまろやかな「ん?」が相まって、
「僕の負けですぅ」
やられてしまう事がある。
そんな時、私は心の反省会をするようにしている。
彼らに共通しているのは、
「超自然」
その事で、反省会といってもその要因を考えるのが常であるが、初対面なのに超余裕、超フレンドリー、それでいて偉ぶらず、今からでも飲みにいけそうな雰囲気を彼らは持っている。
むろん、発言に知的な匂いと経験、それなりのテンポは必要であるが、それらが多少欠落していようとも、前述の要素があるだけで何となく圧倒されるものだ。
ちなみに私は歴史好きなので、大物と出会った時、その人がどんな大名に属すのか考えてみる事にしている。やはり恐ろしいのは家康タイプで、ああいうのと出会った瞬間、負けを認めている自分に気付く。何を言っても駄々っ子パンチをしているようにしか思えず、空虚感に苛まれ、次第に意気消沈し、疲れたところでキツイ一発を貰うのが常である。
そうそう、柳川で北原白秋とウナギの次に有名なのが立花宗茂であるが、この人も凄い。実に男気のある馬鹿正直な人で、戦況不利でも義理のある側に付き(戦国大名は男気のある世界のように思えるが実は風見鶏ばかり)、関ヶ原の後、領地没収となったのであるが、数年後に舞い戻った。
徳川家が領地を没収し、徳川家が舞い戻したわけであるが、狡猾な家康は宗茂にこう言ったそうな。
「なんか分からんけど、あやつは憎めん」
いる、いる、そういう奴いる。
宗茂が鼻ほじりながら、
「ありがと、徳ちゃん、うれしいよー」
そう言ったかどうかは知らぬが、そう言ってくれたと期待したい。
(得な人柄になりたい)
それは万人共通の願いである。
人柄キング・長嶋茂雄に乾杯。


第二話 学ぶといふ事 *社内新聞五月号掲載

柳川に越してき、五ヶ月が経った。
蚊が多い事と水の不味さには辟易するものがあるが、こと「学び」というものに関しては、
(他の土地の追随を許さないのではないか?)
柳川に関し、そういう感想を抱いている。図書館の充実ぶり、講習会の多さ、古文書館の設置などなど。暇そうな役人の「学」へのばら撒きぶりに柳川という町の力点が見てとれた。

先日、柳川市の広報を何気なく眺めていたところ古文書講座なるものを発見した。昔の崩し字が読めるようになるための講座らしく、無料と書いてあった。歴史好きにとって古文書は情報の源、それと直に触れ合えるならばという事で、すぐさま応募葉書を投函した。
古文書講座は四月から始まり月一回のペースで日曜に開講される。コースは入門、初級、応用と別れていて、早い人なら各コース一年、計三年で読めるようになるらしい。
久しぶりの学校、踊る気持ちを抑えに抑えてカブにまたがり、意気揚々と第一回講座に乗り込んだ。大きな挙動でドアを開け、大きく一歩を踏み出した。そして、
「のっ!」
我目を疑った。
(ここは老人ホームですか?)
その事であった。
四十人くらいの講座なのであるが、その半数は七十を超えているように思え、また残りの九割は六十を超えているように思われた。部屋には何とも言えない昭和のかほりが漂っていて、思わず平成という年号を忘れてしまいそうになった。
講座の時間は一時間。たった一時間であったが、どの老人も特徴的で、私は全く講座に集中できなかった。
どうやら人間というものは円熟期を迎えると、その人生が垂れ流しに表へ出てくるものらしい。立派な着物を着ておられ、物腰に異様な風格をお持ちの方もおれば、アル中にしか見えない挙動不審な方もいる。また、窓際に目をやると、寝ているのか起きているのか、はたまた死んでいるのか分からない、置物のような爺様もいる。
強烈に新鮮な世界であった。
ただ、その歳での学びであるから皆に熱意はある。異様な熱に包まれたまま、実りある時間はあっという間に過ぎていった。
はっきり言って、私は昭和人の熱に圧倒された。圧倒されながらも、
(平成には昭和熱が足りない。昭和には平成のクールさが足りない)
そのような事を思ったりした。
感動もした。
足腰が弱りきった老人の事である。老人は一人で立つ事もままならない。プルプルと震える手で原稿用紙に崩し字を書き写している。たぶん、崩し字を書く気がなくとも、この老人であれば崩し字になってしまうであろう。受講コースは入門コース。卒業までには早くとも三年かかる。こう言っちゃ何だが、老人はその頃生きていまい。
(なぜ?)
私の好奇心が火を噴いた。
受講後、我慢できず老人のもとへ行き、歩行に手を差し伸べつつ聞いてみた。
「失礼ですが、お幾つですか?」
老人は私の知りたい事などお見通しなのだろう。
ニヤリ笑い、静かにこう言った。
「幾つになっても勉強が好きとです、ただ、それだけです」
久々に震えた。
学びというものの原点に触れた気がした。学びとは、まさにそういう事だろう。人間、それが尽きた時、生きながらにして死んでいる、学ぶ姿勢こそ、生きる姿勢ではなかろうか。
その点、老人は強く生きていた。
心が亡いと書いて忙しい、その忙しいが口癖の現代人はこの老人をどう見たらいいのか。
私は老人を抱きしめたいと思った。だが、抱きしめてしまえば骨と皮だけの細い体は粉々に壊れてしまうだろう。
別れ際、老人の残した言葉が今でも忘れられない。
「幾つになっても楽しかねぇ」
生きるも一秒、死ぬも一秒、
(私も死ぬまで学びたい)
老人の細い背中に有意義な一生が滲み出ていた。


第一話 水郷の人〜田中吉政〜 *社内新聞四月号掲載

(どこかに似ている…)
そう思った。柳川の風景である。
家に帰り、旅日記の紐を解き、撮り溜めた写真に目を通すと、それは近江八幡の風景であった。

二年前の夏の事だが、ふと思い立ち熊本城から江戸城まで歩いた。
加藤家や細川家の参勤交代ルートに倣い豊後街道で大分までゆき、鶴崎港から神戸までは海路をゆく。本来なら姫路辺りで海路を外れるはずだが、現在のフェリー航路が神戸ゆえしょうがない。神戸からは大阪経由で京へ上り、賤ヶ岳、岐阜と回り道し、名古屋からは東海道を歩いた。
「いい歳して恥ずかしい!」
友人だけでなく、親族にまで笑われたものだが、歴史小説を書く身の上にあって、飛行機や車を秤にした現代の感覚では昔のそれがどうもとらえにくい。
(ならば…)
という事で、周りの反対を押し切り旅に出た。
ペースは昔の人と同等、日に十里(40キロ)、約一ヶ月の旅である。
体力的には問題ない。私は太ってこそいるが体力勝負の長旅が好きなタチで、過去には自転車による日本縦断、ホッピングによる九州横断など、隔年のイベントとして体力旅行に挑戦しているからだ。
つまり、旅というものに小慣れしているわけだが、今回の「歩き」は体感的に別格であった。まず、スピードが自転車の五分の一ゆえ、風景が五倍ゆっくり流れる。見落としがちな野辺に咲きたる小さな花も見えるし、山などはいつまでもそこにある。これが車や電車となれば十倍二十倍、まさに違う景色を見ているようで、
(時代に目線を合わせるというのはこういう事か!)
そう思ったし、実際に小谷山城や賤ヶ岳、それに関ヶ原などを歩いてみて、平面だった歴史が急に立体的になったように思え、まさに目から鱗の連続であった。
ちなみに遅いという点では前述したホッピングが歩きよりも格段に遅い。遅いがこちらは激しい縦揺れの影響で体がそれどころではない危険な状態に陥る。私はこの時の話を文芸賞に投稿し、小さな賞を頂いたが、受賞の理由は、
「クレイジー」
ただ、その一言で、病院代のほうが高くついてしまった。
詳細は私のホームページを見てもらったほうが手っ取り早いので、ここにアドレスを書いておく。
http://www.geocities.jp/fukuyamahironori/

さて…。
冒頭の風景であるが、今年の頭に柳川へ越してき、例の癖で街中をぶらり散策している時に徒歩旅行の風景を思い出した。それが滋賀の近江八幡だったわけだが、中心部も然る事ながら郊外(例えば昭代地区)のつくりも実によく似ている。
(これは何かある!)
そう思ったら居ても立ってもいられないタチで、すぐさま柳川古文書館に走り、柳川の成り立ちを調べてみた。
「ほうほう、なるほど!」
嫁には「小一時間出る」と言って飛び出したわけだが、どっぷり閉館まで柳川市史を読み込んでしまった。私を惹きつけたのは柳川に縁の深い立花家ではない。田中吉政という大名で、約九年間、柳川の藩主だった人物である。
田中吉政は秀吉の甥、秀次の家臣として出世街道を突き進み、秀次の領地であった近江八幡の統治を任せられていたようである。近江八幡といえば八幡堀が有名で、郊外にも無数の水路があり、柳川同様、水郷を謳っている街である。むろん、考える事は同じで利用価値のなくなった水路や堀を観光資源として活かそうと水路には多くの小船が走っている。
これだけ書いても柳川との共通点を感じてしまうが、実際に行くと、更に郊外へ出ると、雰囲気の妙な一致に違和感を覚える事は間違いない。体操の池谷兄弟を見ているような、あの変な感じで、これらの基礎を田中吉政が築いている。
田中吉政は近江八幡を出た後、家康の後釜で岡崎城の城主になり、こちらでも矢作川の治水工事を行っている。
よほど水のある風景が好きなのか、土木工事が好きなのか、はたまた変わり者なのか、よく分からぬが水をどうこうする事に命をかけている人物のようだ。
この田中吉政が柳川に来るキッカケとなったのが石田光成である。関ヶ原の合戦後、逃げ惑う石田光成を顔馴染みの田中吉政が捕らえた。石田光成にしてみれば完璧に変装したつもりであろうが、出身地が同じ田中吉政の目は誤魔化せなかったらしい。
この褒美として田中吉政に筑後一国が与えられ、田中吉政は柳川をその拠点と定め、支城を久留米、福島、赤司としたそうな。
田中吉政が没した後、田中家の統治は三代目まで続かず改易となってしまうが、田中吉政のやった事は立花家に負けず劣らず現代に色濃く残っている。柳川が水郷と呼ばれる礎を築いたのもそうだし、久留米まで続く県道、その前身をつくったのもそう、有明海の干拓堤防を結んだのも田中吉政である。明治まで柳川を統治した立花家は田中家のやった事を維持し、色付けするだけで良かったはずだ。
この点、肥後も同じようなもので加藤家が土木治水の礎を築いた後、短期間で改易になり、細川家が後を継いでいる。
(お隣さんで、なぜこうも似るのか?)
よく分からぬが、それが歴史の面白さであり、不思議さであろう。
ただ、現代の風評は熊本と柳川で全く違う。熊本の庶民は細川家の事を馬鹿殿と呼ぶきらいがあり、はっきり言って不人気である。それに比べ加藤清正は今でも「せいしょこさん」と呼ばれ、大半の県民に愛されている。すっかり有名になってしまった平山温泉などは、
「せいしょこさんが汗疹ば治しなはった湯ですたい」
一昔前まで、謳い文句はそれであった。(今は有名になり過ぎて何がキャッチか分からない)
それが柳川ではどうだろう。田中吉政の偉業を知る人は少なく、立花家は今でもスター、あちこちで立花ブランドが幅を利かせている。
肥後出身の私としてはそれがどうも解せない。確かに立花宗茂も素晴らしいが、田中吉政も素晴らしいのだ。
蚊の多い柳川、その紐をたどっていくと田中吉政に辿り着く。
原点を創った男の墓は杉森女子高そばの真勝寺、その床下にある。