第103話 冷水峠のオオネジ様(2014年12月)

2014年はホント赤字が凄かった。特に後半は要らん事ばかりしてて、その極め付けがメーカーフェアというモノづくりの祭典に向けられた。
「これ要る?要らんなぁ、作ったとして、これをどこに置くのだろう?」
自問自答を繰り返し、分かっているのに名刺交換マシーンの製作に着手した。
できた。設計通りデカかった。想定通りくだらなかった。想定外もあった。一枚ずつ払い出すはずが、十中八九、複数枚払い出した。
「ゴメン、ボク、ヘタクソ」
マシンをネガティブロボに仕上げた。ヘタクソが可愛かった。作って分かる想定外が楽しかった。30分ぐらい笑い転げ、ふと我に返った。
「何やってるの、俺?」
ある日、ネット世界の「いいね!」に夢中の若者と会った。面白かった。「いいね!」のカウント数をやたら気にしていた。彼は真顔でこう言った。
「数字は嘘をつきません!数字はリアル!現実です!」
なるほど、リアル世界の「いいね!」もあったら面白いに違いない。何でもかんでもカウントし、数値化し、すぐに採点・表示する。オヤジギャグが世の中から消えてしまうに違いない。
「でも、それ、ホントに要るの?要らんでしょ!誰が使うの?ムダ!ムダ!ムダ!」
心の声は打ち捨てて、気が付いたら図面が出来ていた。材料費は中古部品を売って捻出した。「リアルいいねマシーン」と名付けた。リアルだから「いいね!」に対する「だめね!」スイッチも付けた。子供と一緒に百回ぐらい遊んだ。みんな「だめね!」しか押してくれなかった。悲しくなった。作業場の隅に放置された。
これらを持参し、初めての東京出展に臨んだ。(出展物の詳細はこちらをご覧下さい)
メーカーフェア東京は入場料千円が必要だった。熊本県民感覚で言うとカネのかかる展示会に誰が行くだろう。誰も来ない事を予想し、色んな人に案内状を出した。が、それは杞憂だった。恐ろしいほど人が来た。明らかに変わり者が多かった。
出展者も多種多様で、色んなタイプの変態が最新技術で遊んでいた。私以外、全員天才に見えた。変態と天才に囲まれた凡人が一人作業着で昔の技術と戯れた。何だか恥ずかしくなった。凡人の作るものはデカい。ムダにデカい。そんなブースはやはりどこか浮いていて、色んな人から「ローテクですね」と笑われた。ローテクは褒めてない。四捨五入すれば「バカ」と同義語で、出来る事ならコッソリやんわり言って欲しかった。が、みんな変わり者ゆえ、叫ぶ人が多かった。中でもマンガみたいなカイゼル髭のおじさんが一番困った。
「時代はローテク!今こそローテク!君は時代を先駆けてる!」
バカの先駆けは辛い。私は逃げ惑うようになった。このおじさんはナントカ大学の偉い先生らしいが、色んな人を連れて来ては同じ事を叫んだ。外国人も連れて来た。英語で説明していたから何と言っているのか分からなかったが「クレイジーエンジニア」その部分だけは分かった。落ちるところまで落ちた。
ちなみに私のブースにはやたらと子供が多かった。他のブースを見て回る余裕がなかったけれど、ふと周りを見渡すと成人の方が多かった。メーカーフェアは子供が多いという印象を勝手に持ってしまったが、それは間違いで、私の作るものが見た目に分かりやすく、ザッとしていて壊れそうにないから、たまたま子供の吹き溜まりになっていたらしい。現に、この壮大な遊び(赤字なのに数十万円の旅費をかけ出展した)の余波は理系初等教育から問い合わせ数件、お笑い系メディアの取材数件、それのみで、悲しいほど成人の嗜好に届かなかった。
さて、そんな阿蘇カラクリ研究所も今年で八年目に突入した。気付けば子供が三人いて、一番上は中学生、遊んでばかりいられない状況になった。
「末広がりの八年目こそ、マジメな仕事を頑張ろう」
メーカーフェアの反省もあって、本気で色々考えているところに北九州出張が入った。早朝から現地入りし、半分マジメな仕事を一つ二つ午前中に終えた。ここで通例通りにゆけば夜の約束を入れる。昼から呑んで街で待機し、夜は接待、泊まって帰るところだが、マジメを誓ったその日ゆえ、とんぼ返りで家路についた。
北九州から自宅までは高速でピューッと走って二時間半。懐事情が赤でなければ今回もそうしたはずだと思われるが、ちょっと厳しい事情ゆえ下道のんびり四時間コースを選んだ。
下道は少しだけルートが違う。高速は海側を通るけれど、下道は飯塚経由で冷水峠を越え、筑紫野で三号線に合流する。
のんびり走り、冷水峠に差し掛かった。過去何度もこの峠を越えていた。越えると言ってもトンネルがあるからピューッと突っ切るだけで、今回もそうなるはずであった。が、たまたま前を走るトラックが旧道の峠越えを選んだ。私は何も考えず前の車の尻を追っていた。ちょうど全力で尾崎豊を熱唱している最中だった。
私は車中の尾崎豊が好きだった。誰にもジャマされず、思いっきり好きなだけ、少し歪んだ自由と解放を叫ぶ、この瞬間がたまらなく好きだった。
気付いた時にはトンネルの分岐を過ぎ、旧道の坂道に入っていた。
何度も言いたい。言わせてくれ。尾崎はいい。それが間違いだったとしても意味不明な問いかけと無駄なシャウトで吹き飛ばし、全てが正しいと思わせてくれる。
「自由って一体何だい、ワオッ!僕が僕でありたいよ、シャッ!マネーなんてクソ食らえ、ギャッ!今を夢中で生きるのさ、ヤオッ!」
尾崎を叫んだ瞬間に最早全てが必然。この道をゆく事も、次に起こる出来事も全てが自由と解放のカケラ、尾崎を叫べば叫ぶほど日本語がヘンになり宗教っぽくなるのが尾崎豊の特徴であった。
思えば学生時分より尾崎に毒され興奮し、調子に乗り過ぎ何度も痛い目を見た。が、この興奮に取って代われるアーティストはその後一人も現れなかった。そう、この車中でも震える声で卒業を歌い、この世界からの卒業と解放をシャウトした。と、その時、右手に白い看板が見えた。「大根地神社」と書いてあった。(下部の写真参照)私はこれを「オオネジ」と読んだ。
数百メートル越えた先で車を停め、
「オオネジ?モノづくりの神様を素通りするわけにはいかん!必然ワオッ!」
一人ごち、看板に向かって歩き始めた。
手元の時計は午後3時。チョイと寄るにはいい時間。鳥居をくぐり、石段を登った。道に突き当たった。社殿はなかった。そこにあると思っていたが、まだまだ先にあるらしい。小さな看板があって社殿は右と告げていた。
杉林の暗い道を1キロほど歩いた。また鳥居が見えた。鳥居の脇に説明板があって、この道が長崎街道の旧道だと告げていた。旧街道は真っ直ぐ進み、次の宿場へ下るけれど、社殿は左、更に登れと書いてあった。
それにしても社殿までの距離記載がないのは怪しい。こういう案内に過去何度も泣かされた経験があって「山城スグソコ」と書いてあるのに実は5キロも先で、日が落ち、野犬に追われた事があった。今回「スグソコ」とは書いてなかった。「大根地神社」と書かれた小さな看板が矢印付きでポツポツあって、とりあえず悪意は感じなかった。
登ってみる事にした。長崎街道を離れ、登山道に入った。
進むほど傾斜がキツくなってきた。道は舗装されてないけれど車が通るに十分な広さがあった。参道、兼林道らしく、寒いこの時期は林道の活用が多いようで丸太を積んだトラックと何度かすれ違った。
途中、旧参道の名残らしき小さな分岐があった。そちらを行こうと覗いてみたが現代林業は旧道に思いを馳せる余裕などない。植林、伐採の過程で打ち捨てられているようであった。
全く人に会わなかった。会えば情報を得、その上で引き返す事もできるだろう。誰かに会いたい。心底そう思っていたら作業着のオッサンが休憩中であった。地元の人に違いない。社殿までどのくらいかかるか聞いてみた。
「そうのぉ、15分くらいかのぉ」
オッサンはそう言って鼻毛を抜いた。山の男らしい黒々とした立派な鼻毛で、その穴は黒一点、地肌が見えぬ見事な黒点であった。
更に歩いた。15分以上歩いた。辿り着く気配が全くなかった。
想像するに、オッサンの言う「15分」というのは「車で」という意味ではないか。
「傾斜がキツいから石畳があるよ」
オッサンそうも言っていたので古道っぽい風景があると予想していたけれど、目の前に見えてきたのは車の滑り止め舗装。拳大の自然石がコンクリートに埋め込まれた風景(下部の写真参照)で、オッサンはコレを石畳と呼んだのではないか。よくよく考えると私の服装は作業着。登山者、参拝者と思えず林業関係者と勘違いし、全て車移動の感覚で発言したのではないか。
たぶん、この想像は当たっているだろう。道は次第に凄い傾斜になり、併せて舗装路になった。人が歩く登山道なら急傾斜路を舗装したりはしない。が、車のための道ならば至極真っ当な選択で、キツいほど舗装し、オッサンが言う「石畳」を施す必要がある。
石畳カーブの超疲れるポイントで看板を発見した。この時点で初めて悪意を感じた。社殿までの距離は書いてないのに街道分岐からの距離は書いてあった。(下部の写真参照)
「あんた、これだけ歩いたんだから引き返さずに歩きなさい」
そういう事だろう。めげるポイントを熟知した見事な看板配置であった。
見事と言えば鳥居の配置も見事であった。鳥居がある事でスグソコに社殿があると勝手に思い込んでしまう。が、何度鳥居に会おうとも、そこに社殿はなかった。開けても開けても人形が出てくるマトリョーシカを想わせる見事な焦らしっぷりで、そう、ここは焦らしのテーマパーク、ジラシックパークであった。
歩き出しから90分。やっと社殿に着いた。
着いた頃には焦らしの波状攻撃で全身びしょ濡れ、放心状態であった。すぐにでも横になりたかった。休憩したかった。が、この状態で体の動きを止めてしまうと風邪をひいてしまう。止まらず社へ走り、モノづくりの神・オオネジ様に参った。
「モノづくり屋としてマジメに食っていけますように」
八年目に祈る内容ではないけれど、ホント初めてお願いし、何となく清々しい気持ちになった。オオネジ様はきっと私を良い方向へ導いて下さるだろう。
神前を辞し、朽ちた食堂跡を眺めつつ(下部の写真参照)、昔は栄えてたんだろうとか、元は修験道場に違いないとか、色んな想像を膨らまし、一度境内を離れた。が、すぐに舞い戻った。
社殿の下に説明板がある事を遠くから見て知っていた。知ってはいたが、神社の縁起など宜保愛子の霊能力並に怪しい。歴史の勝者が書いた「後付け物語」など知って何になろう。知らない方がいい。モノづくりの神様が遠くなるに違いない。読んじゃダメ。でも気になる。凄く気になる。なぜ、この神社はここまで焦らし、社殿へ誘うのだろう。知りたがりの血が騒いだ。この神社の栄枯盛衰を知りたい。今も辛うじて維持されている、その正体が知りたい。
見なくていい。見たい。見なくていい。やっぱり見たい。花占いの乙女のように太り身の中年は引き返し、看板を見てしまった。そして、やっぱり乙女の如く、
「見なきゃよかった」
涙を拭いた。
看板にはモノづくりのカケラもなかった。そもそも読みが間違っていて「オオネジ」ではなく「オオネチ」らしい。ただし、色んな神様が合祀されていて、何にでも利く万能の神であった。万能は助かる。一つ所で何でも済み、本当に便利。神様は本来そうあるべきかもしれぬが、やはり総合は弱く、専門的雰囲気が欲しかった。
社殿を離れ空を見上げるとやや暗くなり始めたところであった。急ぎ下山する必要があった。が、バカと煙は一番上に登りたい性分であった。
またも小さな看板を発見した。大根地山の山頂を指していて、小さな字で「眺望よし」と書いてあった。うまい。絶妙にうまい。派手過ぎず、勧め過ぎず、
「山頂はコッチ!少しだけ眺めがいいよ!」
やはりこの山、色々うまい。うまかった。チョイとそこまで踏み込んで、じっとり濡れた作業着野郎、そのまま上へ突っ走り、山頂着くや踵を返し、暗い下山の途についた。
大根地山は昭和18年、陸軍の無線中継所が置かれた。昭和34年に中継所が廃され、今は電波の反射塔が一人静かに佇んでいる。
この山の入口、冷水峠を抱える旧長崎街道は九州で最も人通りの多い街道で、その後を継いだ国道200号線も大いに賑わっていたらしい。が、福岡市の拡大と、薩摩街道(国道三号線)、高速道路の充実で人の流れが大きく変わった。最近では有料トンネルが開通し、大根地山は気付かれない山になった。
修験者、軍人、旅人で賑わった霊山も今は登山客と林業従事者がチラホラ。信仰の薫りも薄くなってしまった。が、暗い山道を一気に駆け下る中年は木のざわめきと獣の遠吠えを間近に感じ、確かに霊山を感じた。怖い。夜の山道は意味なく猛烈に怖い。昨今のスピリチュアルブームで一部の人が霊的色々に大興奮だけれど、それをホントに感じたくば闇夜の霊山が最高。夜風が異様に滑らかでヘンな汗が止まらなかった。風の音が「おいで」と聞こえ「だめよ、だめだめ」限界超えてダッシュした。
「ここはどこ?冷水峠?いいえ冷汗峠」
登りは焦らしの汗をかき、下りは恐怖の汗をかく。日は完全に落ちた。道が見えなくなった。車が遠かった。迫ってくるのは霊山に次ぐ霊山。後ろが見れない。振り返ってはいけない。ひたすらダッシュ。ダッシュあるのみ。
「宜保愛子様、バカにしてごめんなさい!神社の縁起も最高!後付け物語大好き!作り話大好き!天孫降臨!キツネ様!神通力にパワースポット!何でも信じる!バカにせん!だから、お願い無事下らせて!」
2014年はそうして暮れた。全速力で下りきった。
2015年は少しだけ登りたい。登れたらいいな。オオネジ様にお願いしよう。
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すぐそこに社殿がありそうな感じのズルい看板。




車用石畳だそう。確かに凄い傾斜。




先を告げないズルい看板。




朽ち果てた売店、もしくは食堂。




結局登った大根地山頂。




と記載の所から大根地山頂まで歩いた。作業着。