第130話 その日〜四十路の嫁が妊娠した日〜(2017年7月)

ここ数日、嫁は常に気だるかった。何を言っても反応は鈍く、家事は手を抜き、来客の予定を伝えると露骨に嫌がった。
「はぁストレス、はぁ春日部(実家)帰りたい」
何度もその声が聞こえ、聞こえる度に私は憂鬱になった。

私は古い。女性の権利が云々と、集団ヒステリーを起こす団体からすぐ怒られるが、円満な家庭を営む老人には至って好評で、平等はチームに向かないと思っている。役割が明確な方がチームにとっては具合がよく、その点うちは絵に描いたような亭主関白。理想のかたちがハッキリあり、それを伝えて結婚した。
「嫁は家にいて銃後の守りに努めて欲しい、世の荒波など我関せず花鳥風月と戯れ、のんびりのほほん暮らして欲しい、そういう嫁さんじゃなきゃ家に帰ってただいまって気になれない」
異論反論あるかもしれぬがそういう信念で結婚18年を凡そ円満に迎えた。むろん途中心変わりもあった。忙しくなり仕事を手伝わせた事もあった。が、「のんびりのほほん出来ない」と言うのでやめた。経営が厳しい時「バイトに出ようか?」と言う嫁を拝み倒して出さなかった事もあった。嫁が何億稼ごうとも稼ぐ役は俺だと信じていて、今も真剣にそれだけは変えていない。嫁は鼻歌まじりで掃除をし、昼寝して、明るい顔でおかえりって言わなきゃいけない。言って欲しい。信念とはそういうもので、男の主成分は面倒臭い信念である。

そういうわけでのんびりのほほんをかなぐり捨て、溜息まじりで「実家に帰りたい」と言う嫁が気になった。
横目で観察を続けていると私にだけ言ってるわけじゃなかった。娘にキレた時も同じ事を言ってた。片付けの手が長時間止まった時も同じ事を言ってた。よく分からんのでストレートに聞いた。
「お前のストレス、その原因は何だ?」
「ストレス?分かんない」
原因は分からぬが、最近の自分が露骨にやる気ないのはよく分かってるらしい。
「お前が分からんなら俺も分からん、とにかくこのままウダウダされても俺が困る、心底困る、チケット買うけん実家に帰れ、すぐ帰れ」
有無を言わさずチケットとバカンス代三万円を渡した。



嫁は言わない。何も言わない。黙って受け取り、急過ぎるバカンスの扱いを私に尋ねた。
「実家に何て言う?向こうに予定あるかも?」
「よし!」
名案が浮かんだ。即向こうの実家に電話した。
「義母さん、土曜夜の時間指定で御中元を送りました、モノが生モノで、その日その時間に受け取ってくれないと腐っちゃいます、いらっしゃいますか?」
いるという事だった。嘘はなかった。嫁は生モノ。義母さんも喜んでくれるだろう。この作戦は嫁も喜んだ。
「私が御中元って事だね!ドキドキする!」
娘には直前まで言わぬ事に決めた。言えば「私も行く」とゴネるのは明白で、子連れじゃバカンスにならなかった。
これにて嫁のバカンスが決まった。三泊四日の小帰省だが、これでも父として夫として精一杯の背伸び。父子四人暮らしを想像するに、これが限界と思い極めた三泊四日だった。
「何が何でもストレス抜いて、いつものお前で帰ってこいよ」
嫁はウンと言わなかった。浮かない顔でハイと言った。

その翌々日、帰省二日前、私は高校野球が好物で、その日は熊本予選準々決勝、優勝候補大本命の秀岳館がノーマークの国府に先制された。
「こりゃ面白い!」
仕事をほっぽりだしテレビに噛り付いた。が、結局秀岳館が引っくり返し、大差で勝った。
私は寝転んだ。「あーあ」て言いながら昼前の時計を見、「今日の昼飯は何?」そういう事を聞いた気がする。
気が付くと嫁は真顔で座っていた。
「話があります」
姿勢を改め何かを出した。
「これを見て下さい」
白い棒に赤線二本、妊娠検査薬の陽性スティックだった。
「は?」
嫁はモノを突き出し時間を止めた。たっぷり溜めて、あふれる寸前、堰を切った。
「この漏らしバカ野郎ー!」
嫁は泣いた。泣いて叫んで、そして暴れた。
「美菜(三女)が何歳だと思ってんだ!干支が一緒だバカ野郎!ふぇーん」
涙で声が潰れ、息も荒かった。
「まぁ落ちつけ」
「落ちつけ?私を何歳だと思ってんだバカ野郎!四十、四十、四十イチだ!ふぇーん」
笑っていいのか泣いていいのかよく分からなかった。とりあえず体を起こして検査薬をも一度見た。
「これは当たるのか?」
「当たるも何も私が一番よく分かる!ふぇーん」
「産みたくないのか?」
「分かんない!ふぇーん」
「お前が分からんじゃ俺も分からん」
「漏らしバカ野郎ー!恥ずかしいよー!四十イチで産むの恥ずかしいよー!ふぇーん」
嫁はひと月ほど前に体の異変を感じたらしい。熱っぽいし昼に殺人的な眠気が連日襲ってきたそう。が、それはないと言い聞かせ、やり過ごそうとした。が、私に異変を気付かれた。嫁もやり過ごせなくなった。密かに検査薬を買い、密かに試した。
「陽性」
血の気が引いた嫁は密かにおろそうと思った。おろしてしまえ。そして墓場まで持っていく。誰も気付かず誰も騒がず時は流れる。が、色んなストーリーが駆け巡った。
「カラクリ屋の嫁って私の事みんな知ってる!絶対バレる!バレたら大変!それやだ最悪!ふぇーん」
そういう流れで泣く泣く今を迎えたそう。
辛い思いをさせて悪いと思った。急に無気力になった裏にはそういう事情があって、実家に帰りたいという嘆きも埼玉なら誰もカラクリ屋を知らないと思ったらしい。
「悪い」
心労を与えた夫は確かに悪い。が、一つだけ反論の余地があった。嫁は漏らしバカ野郎が100%悪いと言った。が、思い当たる僅かな出来事を繋ぎ合せるに漏らしバカ野郎の悪い率は60%ぐらいじゃないか。
「バカー!90%はあんたが悪いー!ふぇーん」
10%は認めてくれた。まぁそれはいい。それはいいとしてお急ぎ現状把握に努める必要があった。
「やりかけの仕事はキャンセルだ!俺はこういう時のために自営業をしている!」
パソコンを落とした。携帯の電源を切った。
「さあ行くぞ!」
「どこへ?」
「どこへって産婦人科だ!事実を確認した後、産む産まんはお前が決めろ!」
ちなみにその日は小学校の終業式だった。一番盛り上がってる時に三女が帰ってきた。
「子供に言うのは結果が出るのを待ってからにしよう」
嫁が言うので私は口にチャックでウロウロした。
ここでハッキリ言いたい。私は秘密が苦手だ。隠し事は健康に悪い。ガスを抜くべく一つだけ三女に質問した。
「弟、妹、犬、猫、今お前が一番欲しいものは何?」
「弟!あ、犬かな?やっぱり弟!」
ドヤ顔で嫁を見た。凄い顔で睨んでた。

近くの産婦人科に飛び込みで行った。
田舎の産婦人科だから少ないと思っていたら意外と繁盛していて二時間待ちと言われた。こういうところは本来男子禁制の場所で私は入っちゃいけない。が、
「恥ずかしい!恥ずかしいよぉ!」
嫁が延々言い続けるので受付まで付いて行った。
「先生に酒でも渡して挨拶しよか?」
「それはやめて、ああ嫌だ、恥ずかしいよぉ」
私が喋れば喋るほど嫁は気難しい人になった。

しばらく待った。私は待つのが苦手だ。17年前の初産、長女の時も待つのが嫌でパチンコ屋に行った。
「思い出すなぁ」
しみじみしてたら「一緒に待たなくていい」と嫁が言った。「どこへでも行け」と言うので真っ直ぐパチンコ屋に行った。二千円勝った。

三時間ほど待って診察結果が出た。
エコー写真を見た。九週目だそう。



ぶどうみたいに丸いのがちょこんと引っ付いてて何だか懐かしい写真だった。嫁曰く小さな心臓がトクトク動いていたらしい。
「これ見ちゃうと何とも言えないね」
「うん」
「福ちゃん(夫の呼び名)は産んでほしいんだよね」
「お前が嫌々産むなら産まんでいい、お前が産みたいなら産めばいい」
「どうしよ?」
産む産まぬの判断は夜の家族会議に持ち越された。

その日の晩飯はうなぎにした。
「絶対うなぎだ!うなぎがいい!」
私がスーパーのカゴにむりやり押し込んだ。
うなぎなんて何年ぶりだろう。子も驚いた。
「え!うなぎ!何事?」
「今日はお祝いだけん」
「何のお祝い?」
「みんな揃って発表する」
三女が水泳教室に行って不在だったので発表は先送りにした。
「赤ちゃんできたと?」
長女が当てずっぽうに言った。女の直感恐ろしやと思ったが、後で聞いたら本当に何も考えずテキトーに言ったらしい。

全員揃った。嫁は私に発表せよと言った。私は嫁が言うべきだと返した。嫁が主役だ。この後、嫁は重大な決断をしなきゃならない。長女も次女もスマホに夢中で全く興味なさげだった。
嫁はエコー写真を出した。
「見て」
三女はそれを見るなり親族のエコー写真と勘違いした。近々親族に赤子が産まれる予定でその写真と思ったそう。「へぇ」とか言ってる三女の手元を次女が覗いた。
「ん?これ今日夕方の写真だ!」
「え!」
「まじ?」
長女がスマホを放り投げ写真をもぎ取った。
「嘘!信じらんない!」
嫁がわんわん泣き始めた。
「赤ちゃんできちゃったの、ふぇーん」
それを見て三姉妹も一斉にわんわん泣き始めた。
「私四十よ、四十イチよ、産めると思う?産んで欲しい?」
典型的末っ子の三女は嫁に抱き付きこう泣いた。
「嬉しいよー産んで欲しいよー」
ヤンキー次女は座椅子に突っ伏し枯れんばかりによく泣いた。
「夢みたいだよー」
長女は「バイトするけん絶対産んで」と泣き喚き、嫁を拝み倒した。
「お願いだけん産んで下さい!産んで下さい!」
「産んで」「産んで」産んでのこだまが涙と共に響き合う茶の間の端に私はいた。
「プライスレス!」
「幸せだ!」
「生きてて良かった!」
言いたい事は色々あるけど一切言葉にならなかった。
嫁は「産む」と言った。
一生忘れられない最高の夜になった。




三女の落書き。ちなみに4ヶ月ではない。9週目。

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