第十四話 サラリーマン適性(10月20日更新)

第十三話を書いてから約三ヶ月が過ぎてしまった。その間に退職、独立、引越しと様々な事が続き、実に慌しい日々を送ってしまったが、その日々を振り返るに、私はこういう状態が嫌いではないという事にぼんやり気付いた。むしろ好んでその方向へ進んでいる様を見るとそういう状態を愛しているのではないかとも思える。
嫁子供はそれに巻き込まれるかたちなのでちょっぴり可哀想ではあるが、いずれ慣れ、次第にその慌しさがなくては何か物足らないと思い始めるだろう。
思想、嗜好、行動、それらが時間に煉られて何となく似てくる。それが家族、延いては血というものではなかろうか。
で…、
「退職、独立に至るまでの経緯と理由を説明して」
この数ヶ月、何度もその問いを受けたが、それらに対し、私は経緯こそ語れど理由は一切語れなかった。なぜなら、私自身よく分かっていないし、考えた事もない。ただ、ぼんやり、
(そろそろかな)
そう思っただけである。従って、人様に理由を聞かれた事で、
(はて? なぜ独立したのか?)
その事を考えるに至った。そして辿りついた超強引な結論が血に因るものではないかという事である。
私の父方は全て技術屋であるが、祖父の代から誰一人としてサラリーマンをやり遂げた人間がおらず、その全てが脱サラし、自営業を営んでいる。母方は全て女性なのでよく分からぬが、そちらの祖父も自営業である。つまり、私が見てきた血の繋がった男性にサラリーマンが皆無なのである。
しかしながら自営業だろうがサラリーマンだろうが責任もって働く姿は何も変わらないので、そういうものが思想化するとは思えず、ましてや遺伝するものとも思えず、偶然か、単にワガママが多かっただけかと鼻で笑っていたのだが、嫁の一言で、
「これか!」
思わず柏手を打った。
私がサラリーマンを引退すると嫁に告げた時の一言である。
「これから福ちゃん(私の事)が毎日家にいると思うと頭が痛いよぉ。うちはサラリーマン家系だから、父親が家にいるのに慣れてないんだよぉ」
言い換えれば子供から見たサラリーマンと自営業の大きな違いは、仕事が家庭から見えるか見えないか、仕事をしている親父を知ってるか知らないかという事、つまり仕事と家庭の密着度だろう。
幼少の私には親の仕事が見えた。そして知っていた。自宅の下が店舗で親の仕事というものがクッキリ見えた。しかし、義父は埼玉県春日部市から東京都心まで通うサラリーマンだったため、家庭からすれば仕事の事は知らぬ存ぜぬだったに違いない。
また、サラリーマンの場合、家庭の方針・規律は夫婦が決めるだろうが、会社の方針・規律はそこで決められたものに従わなければならず、色々なところで切り離しや割り切りが必要なのであろう。が…、自営業は違う。家の方針と規律が仕事のそれであって、そこに線引きはなく、あっても薄い。
嫁が発した「ウィークデイも夫と過ごす事に慣れてない」という言い方は、こちらからすれば「俺は家庭から離れる事に慣れてない」という事になるわけである。
思えば私のサラリーマン生活はちょっと浮いていた。学校を卒業し、北九州に本社を置く大手電機メーカーに就職したが、完全に変わり者扱いを受けていた気がする。作った設備や冶工具に彼女や家族の名を付けて現場へ送り込んでいたが、それを変だと言った上司に私は不思議な違和感を覚え、そして上司もその感想を持った。また、「今日は無礼講、何をしても文句は言わん」と言った上司にカンチョーをした際、端っこに呼ばれ、減給をほのめかす厳重注意を受けた事もそれら線引きの有無に因るものかもしれない。
しかし、幸か不幸か分からぬが、私のバリアフリーな思想を受け入れてくれる人も確かにいた。
「俺も昔はそうだった。しかし、いずれ変わるよ」
実に優しい目で私のヤンチャを見守ってくれた諸先輩により、私は五年三ヶ月もサラリーマンとして生かされ、実に充実した日々を過ごした。
その後、趣味で書いていたエッセイで賞を取った事と、有名脚本家が発した「お前の文章はイケる」という台詞に乗せられ思い切って脱サラしたが思うような生活水準が確保できず、今度は阿蘇の大手メーカーで働き始めた。
しかし、一社目よりも縦割り思想が確立している中で思想のギャップは拭いようがなく、
「技術があってもその考え方では良いサラリーマンになれん! 悔い改めよ!」
飲みの席でそう叫ばれてしまった。
平等に与えられた加齢の具合だけは止めようがない。順調に歳はとっていくし、とればとるほど根本的な思想のギャップは見た目に際立ってくる。
この二社目において、「独立」という一文字が私の視野へ据わった気がする。
二社目には一年三ヶ月いた。期間は短かったが、この時期が、この土地が私や家族に与えた影響は大きく、阿蘇を離れる時、
(必ずこの土地に戻る!)
そう思い、二年以内に舞い戻った。
三社目は福岡県柳川市にある社員25名ほどの企業であるが、入った理由は面接による。面接を受ける段階で大手の会社から幾つか内定を貰っており、正直そう乗り気ではなかった。しかし、
「営業で採用するが何を営業させるか分からん。何か事業を見付けて軌道に乗せて。とにかくお金を稼いで」
壮大、且つダイナミックなお願いだったため快く受けた。そして実際入ったら話が違うというのはよくある話だが、実際も話の通りで全てを任された。個室を与えられ、
「勝手にやって」
そう言われた時、社長に私と同じタイプの奔放な匂いを感じた。この社長も脱サラした口であるが、サラリーマン時代に私と同じような違和感を感じていたのかもしれない。でなければ面接時、「いずれ独立する」と言い放った私を採用するはずがないし、過ぎるほどの任せっぷりを見せるはずがない。
この会社に入った事は社にとってどうだったか知らぬが、私にとっては本当に財産となった。
何でもやった。やらせてもらった。経営の補助、役人へのプレゼン、広報、営業、開発、設計、組立、調整、一人だから誰に頼るわけにもいかない。
手探りで、ゴソゴソと、勝手に色々やった。
で、2007年8月末日、一年七ヶ月働いた会社を退職するわけだが、その理由を問われても返答に苦しむ。前二社とは退職の質が全く違う。
退職前の変化として開発費の減少はあった。しかし、それは一因になりうるとも要因にはなり得ず、他に理由があるかといえばそうでもない。
「社長、開発費も減りそうですし好きな時期に切って下さい。切られた後に独立しますので」
「じゃ、来月末にしよう」
「ぬおっ! 早いっすね!」
端的に書いているが、そういう感じのやり取りで退職が決まり、その延長戦で独立が決まったという感じである。
退職後はバタバタと独立準備に追われた。予定では九月に中山道(京都〜江戸)をゆるりと歩き、それから準備に入る予定であったが、
「子供が三人もいるのに馬鹿な事を言わんでよー! アホー!」
嫁に散々罵られ、「十月に創業しろ」という運びになった。
ちょうど十月から入居可能な熊本県が募集している格安起業家応援施設もあったので、応募・プレゼンしたら見事合格。
続いて住むところも探そうと賃貸のつもりで物件巡りをしていたところ、格安の中古物件があり、うっかり購入。車も二台なければ仕事ができないので軽を購入。
九月中に土台と借金が固まった。
「そうと決まりゃ、すぐに動くぞ、引越しだ!」
私の常で決まった後は爪先立ちになっているわけだが、
「せめて春ちゃん(長女)の運動会は出してあげてよ!」
「おっとー馬鹿ー、一人で熊本行けー!」
嫁と娘の嘆願により約半月後、10月15日の引越しとなった。
独立を決めた直後、様々な方に勇気を褒め称えるお言葉を頂いたり、心配のお言葉を頂いたり、アドバイスを頂いたりした。冒頭に書いた独立理由を問う質問も多く受けた。受けたのでコレを書いたわけだが、ここまで読んでもらえば分かるように特にコレといった理由がない。
強いて言うなら血、そしてこの道より他に私の生きる道がなかったと言うべきか。
ありがたい事に前の会社や前の会社でお付き合いしていたところが早速仕事を出してくれている。前社に至ってはホームページのトップに私の会社のバナーを載せてくれている。
今、起業家応援施設で事業計画に対するアドバイス等を頂いているが、その中で、
「普通は勤めていた会社とは縁遠くなるはずですがね。あなたは稀なタイプですよ」
そう言われ、幾人かの顔がハッキリと浮かんだ。
私にはサラリーマン適性がない。その幾人が私をどういう目で見、そして、どういう思いで仕事を出してくれているのか分からぬが、私には私にできる仕事を私っぽくやるだけである。
ふと、やってる本人は超楽しいが家族は不安だろうと思い、嫁にその旨を尋ねた。
「ぜんぜん不安じゃない。むしろ今までより稼いでくれそう」
笑顔で応える嫁に胃が痛くなる阿蘇の朝であった。


第十三話 一人の日(7月28日更新)

約二週間、嫁と子供が埼玉に帰省している。
人科最強の寂しがり屋である私は、一人っきりにならぬよう綿密な計画を立てたわけだが、誰も捕まらなかった日が一日だけできてしまった。
7月27日である。
仕事が終わって真っ暗の家に帰る。この時点で気が滅入るのに、溜まった洗濯物まで目に入ってきた。
結婚して一度も洗濯をした事がないだけに、まずは洗濯機の使い方を勉強しなくてはならない。パソコンで調べた。が…、洗濯機の仕様は載っていても使い方は載っていない。洗濯を諦めた。
次に皿洗いをしようと台所に立った。洗剤をスポンジにつけ皿を持った。しかし、それから先へいく勇気が湧かず、これも続行を諦めた。
せめて敷きっぱなしの布団を上げようと布団に手をかけた。しかし、触った瞬間に寝転がりたくなり、数分後には寝てしまった。
夜、あまりの暑さに目覚めた。
時計を見ると午前二時、部屋を見渡すと荒れすさんでいる。
「これではいかん」と気合を入れ、掃除を試みた。
落ちているものを片付けようと手を伸ばした先に鏡があった。見ると微妙ではあるが鼻毛が出ている。しばし鼻毛と格闘した。
戦いの後は腹が減る。
嫁が買いためてった冷凍ピラフをレンジへ投げ入れ、次いでカップラーメンを食うべく湯を沸かそうと試みた。しかし、ガスの元栓が狭いところにあって手が届かない。湯を沸かす事を諦めた。
冷凍ピラフのみを食い、時計を見ると午前3時。
私は今、焼酎を飲みながらこれを書いている。
こんなものを書く暇があれば洗濯すればいいのにと思わないでもないが、体が猛烈な拒否反応を示している。
(寂しい…、暇だ…、何しよう・・・?)
そんな私が手にしたものはビリーズブートキャンプのDVDだったが、3分後にはまた違う事をしているのであった。
今日は夜が長い。


第十二話 そっけんがら(7月17日更新)

「そっけんがら」
この文字列が何を意味しているか…、分かる人はまずいまい。熊本出身の私でさえ、その漁師言葉に首を傾げた。
この言葉、「だから」を意味する柳川地方の漁師言葉である。
使用法はこうだ。
「明日は台風がくってったい。そっけんがら、遊びたくても遊ばれんばい」
上の例は多分に熊本弁が混じっているため、地元の人から「違う」と突っ込まれる事は間違いないが、とにかくこういった感じで「だから」という使い方をする。
私が住んでいる柳川市田脇というところは、会社のある柳川市間から徒歩5分のところにある。同じ「昭代」という校区に属し、地元の人に言わせると柳川の文教地区、そしてベットタウンらしい。両方とも酒の席で聞いた話だから勝手に創作された可能性は高いが、とにかく地元の人に言わせると知的で閑静な場所らしい。
歴史は古い。
市の古文書館で調べてみると、条理遺跡というのがこの辺にあり、中世の遺構が残っている。想像するに古い古い時代からの、まじで古い漁師町が、この昭代という地域ではなかろうか。
ちなみにこの近辺、世の混乱に無縁だったかというとそういうわけではない。戦国期、すぐそばで合戦が行われている。蒲池という豪族と、田尻という豪族が近くにおり、それら豪族は九州御多分に洩れず切り取り合戦の餌食となっている。
この時期、九州三強といえば島津家、大友家、龍造寺家であるが、蒲池家も田尻家もこれらに付いたり離れたりしながら徐々に消えていったようだ。
よって、根っからの漁師町といえども多少の政治的曲折はあったはずだ。
が…、昭代という場所は、それら合戦の場所から適度な距離をもっている。たぶん町の方針としても、この適度な距離を活かし、政治的曲折に巻き込まれないよう政治的な努力を重ねたのではなかろうか。
彼らは頭を下げるのがうまい漁師を外交官に任命し、したたかに集落を守るべく智恵を持ち寄ったであろう。それでどうにかなると思われ、現にどうにかなった。言い換えれば、政治的に魅力のある場所でもなく、あくまでも魚を取るための集落だったのではないかと思われる。
九州は戦国以降平穏ではない。
前述の三強が争っているところに、山口を拠点とする毛利家がちょっかい出してきたり、終いには島津家が九州を平定しかけたところで豊臣勢が乗り込んでくる。
漁師町を取り巻く環境は荒れに荒れているが、そんなものどこ吹く風で、
「トヨトミ? おら、しらねぇ。ワラスボのほうが好きだ」
徹底的に無関心を装ったに違いない。
彼らを束ねるべき領主も勢力争いに沿って変わっていく。豊臣の命により立花家が領主となり、関ヶ原の後には田中家が領主となる。田中吉政は熱心な土木家で柳川城を固めたり、久留米へゆく道を作ったり、有明海の堤防を作ったりしたが、この漁師町に大きな変化があったとは想像し辛い。
役人から求められれば人や魚は出したかもしれぬが、この漁師町にとって、そう劇的な変化はなかっただろう。
江戸時代、中心部の柳川城下は急速に栄えていく。
漁師町から城下へ行く人は多かったかもしれないが、城下から漁師町に行く人は極めて少なかったであろうし、村を通る大きな道もない。
つまり、この集落には超閉鎖的な時間が流れていたのではないか。
時代が近代になると村同士の水争いが激化したと郷土史に書いてある。たぶん古代から続いている事だろうと思うが、瀬高、久留米、柳川、皆で水の取り合いをし、多数の死者が出ている。水の問題は何も筑後だけでなく、穀倉地帯はどこも同じ歴史を持っているが、昭代はどうだったであろうか。
今でこそ干拓地が整理され、米と麦の二毛作が営まれているが、当時は農家というものがそう多くなかったのではないか。そう仮定すると、この漁師町は近代まで近隣の争いとは関わらず、のんびり平和な時代を悠々自適に過ごしてきた事になる。
これら背景を踏まえ、超強引に、
「そっけんがら」
この言葉に対する解釈を考えたい。
漁民は争いが嫌いであった。農村も、政治も、商人も、生きとし生ける全ての人が争わずには生きられない、そんな仕組の中で、
「海のみと戦いたい」
彼らは心底そう思った。
集落には武運長久を祈るわけでもない、鎮護国家を祈るわけでもない、水難を避けるための水天宮が置かれ、それこそが彼らの生活、そして望みであった。
俗世とは関わりたくなかった。しかし、生きるため、集落を守るために他と交じわらざるを得なかった。俗世は時の勢力を語り、その結末として、どちらに付くか決断しなければならない。
漁師町の代表としてこの談議に参加した者にも決断は迫られた。
「さあ、お前んとこはどっちだ?」
どこぞの村長が脂ぎった顔を近付け、唾を飛ばしながらそう叫んだに違いない。
迷う漁師、口ごもる漁師、この発言如何で集落の明日が決まると思うとやりきれない思いに駆られた。彼は逃げたかったはずだ。どっちでもいい、勝手にしろ、そう思っていたはずだ。そして、ついに彼は重い口を開いた。
「そっけんがら」
漁師は突然、隠語を発した。
「は?」
戸惑う質問者。その隙に男は違う話を展開した、相手が元の話に戻そうとしても、
「そっけんがら、そっけんがら…」
何度も話の腰を折ったに違いない。
次第に彼らはこの村と話す事を諦め、漁師町は変な勝利を得た。
漁師町ではこれら隠語の事を「京都風ちっご弁」と呼び、最後の手段としたに違いない。
京都では権力がコロコロ変わる。そのためどっち付かずの言葉が多く存在する。それらと同じように、気を逸らわすための呪文として、どっち付かずの呪文として、「そるけん」という地方語に「がら」を付けて隠語にし、相手を惑わそうとしたのではないか…。
以上、無駄な空想をしてみた。
この空想の発端は、つい先日、焼き鳥屋でいじめられた事による。
近隣の漁師四人にいじめられた。
「なんか、お前の喋り方は? 熊本か?」
「はい」
「アクセントのおかしかて思たぞ」
「はぁー熊本かー、そっけんがら、なまっとっと」
「わっはっはっはー」
この漁師達は私に言わせると完璧になまっていた。そう、非の打ちどころがないほど完璧になまっていた。
が…、指摘するには多勢に無勢であった。
「ぼ、僕は、なまってなんかいないんだぞっ!」
続いて「あなた達がなまっている!」そう言いたかったが、それらの言葉を飲み込まざるを得ない雰囲気と腕っぷしが彼らにあった。
漁師の性格はいい。性格はカラリとしており、裏表の感じられない真っ黒に日焼けしたオジサマの目は少年のそれである。声も太くてよく通る。
「ほうら飲め飲め、大漁じゃー!」
「はーい、飲みます、大漁じゃー!」
「若者飲め飲め、大漁じゃー!」
何やら祭りの神輿に乗せられた感じで大いに盛り上がってしまった。(初対面なのに)
楽しかった。しかし、悔しくもあった。
「おお、熊本君、なまっとるねぇー、むふふふ」
節目節目で笑われる屈辱。何度も言うが、彼らの方が格段になまっていたのである。
悔しさを押し殺しつつ反論の機会を窺ったが、結局その機会を得られず、次第にどうでも良くなった。(アルコールのせいで)
今、これを書き始める数分前、パートさんと会話をした。
「そっけんがら」
その言葉と共にあの晩の悔しさを思い出し、猛烈な勢いでこれを書いた。
これを書けば溜飲が下がるだろうと思った。
しかし、彼らに対する空想を続け、勝手な仮説を立ていると、
「海のみと戦うなんてカッコよ過ぎる…」
笑うつもりが英雄っぽくなってしまい、どうも始末が悪くなった。
「がら」を付ける事で隠語になってしまった「そっけんがら」に関しても、よくよく考えれば熊本では「そるけんたい」という。つまり「がら」か「たい」、どっちを付けるかの違いで五十歩百歩である。
ある晩、地元の漁師が例の焼き鳥屋で酒を奢ってくれた。
「本当にいいんですか?」
恐縮する私に漁師はこう言った。
「気にせんでよか。落ちてた金で奢るんだけん」
「落ちてた?」
「そう、神社に落ちてた」
「人はそれを賽銭泥棒というのでは…?」
「そうとうも言う」
「・・・」
「ま、気にするな。近所の神様には手を付けとらんけん」
「なぜですか?」
「近所に手ば出すと海が荒れる」
今年、海の日が荒れに荒れた。
この漁師の仕業ではないと思うが、そうではないと言い切れないところに恐ろしさがある。
「そっけんがら大丈夫! なんかあったら神様に文句ば言うてやる! ほら、飲め、飲め、大漁じゃー!」
世に悪人多かれど、気持ちの良い悪人というのは確かにいる。
悔しいが、この文章で溜飲を下げる事は困難であった。


第十一話 顔の話(5月24日更新)

私は顔がでかいらしい。
頭ではない。その下にある顔である。
頭もでかい方だが嫁に測ってもらったところ59センチでギリギリ大台に乗っていなかった。が・・・、顔は鼻も含めれば大台に乗ってしまいそうで測る事が憚られた。
普通の人は上(頭)から下(顎)にかけて小さくなるタイプ、いわゆるラッキョ型が多いらしい。私はその事をメガネ屋で知った。
「ラグビーボール型ですね、こら珍しかですよ」
メガネ屋は私に十数本目のメガネを手渡し、うんざりした顔でそう言った。もう、五年も前の話である。
レンズとフレーム込み込み五千円のメガネを買いに行ったのだが、どれを試着してもフレームが耳に届かない。ラグビーボール型ゆえ、耳の前部分、つまり頬骨が顔幅の頂点となり、耳は頬骨の奥に隠れてしまう。それが普通のメガネを寄せ付けないのだ。
「困ったですねぇ」
かなりの試着を終えた後、メガネ屋は何が何でも私に合うメガネを探さねばと頭を抱えた。
と、その時、
「そうだ!」
メガネ屋に一筋の光明が見えたらしい。
「樹脂製のよく曲がるフレームがありますよ!」
そう言ってメガネ屋が持ってきたのは本当にグニュグニュのフレームで、何と直角まで曲げても復元するという代物であった。「エアリスト」という品名で、激しいスポーツをやる人たちに愛されているメガネらしい。
見た目はオモチャみたいで安っぽかったが、レンズやフレームのサイズが細かく選べ、どんな顔にもピッタリ合う、そして極めて軽いというのがポイントだそうな。
五千円のメガネを買いに来た身で何か騙された気がしないでもないが、背に腹は変えられないので試しにかけてみると今までにない気持ちよさでフィットした。
柔らかいフレームが優しく頬骨を伝い、そのまま耳へ巻きつく。
「こりゃよかねぇー」
「これしかなかですよー、絶対これですよー、頼んますよー」
当然の事ながら、こういったメガネが五千円であるはずがなく、その七倍近い金をメガネ屋へ払った。そして、価格が価格である事からメガネチェンジが許されず、現在もそれを愛用するに至っている。
そういう事で、私は顔がでかい。
なぜ、急にこれを書いたかというと、小説家は巨頭が多いというエッセイを読んだからだ。浅田次郎は頭囲が62センチもあり、合う帽子がなく、必ず切り込みを入れてかぶっていたそうな。
そういえば六本木の脚本家養成学校へ行っていた時、先生は巨頭が多かった。友人で猛烈な文才を持った男もアダ名は「漬物石」で、可哀想なくらいにでかかった。
(顔が大きいのはどうなんだろう?)
ふと、その事を思い、この話を書いた。
ちなみに私の三女は一歳の物取り儀式でペンを掴んだ。その顔や頭のサイズは二人の姉を凌いでおり、何となく文豪の香りがしないでもない。
そんな事を考えながら工場を歩いていると、会社のパートさんが話しかけてきた。
「唐突で申し訳ないんですけど、福山さんは何頭身ですか?」
心臓を串刺しにしかねない手厳しい質問に思わず生唾を飲んだ。そして、ゆっくりと、
「六頭身です」
そう返した。
返してしまった後、本当は六頭身以下である事を告白すべきかどうか迷った。同時に、
(なぜその質問をするのか?)
その事が気になった。
今…。
有明海の干拓地では麦が実り、こんじきのうねりが先の先まで続いている。(この辺は二毛作で、麦を刈り取った後に米を植える)
窓辺に立つ私はそれを眺めながら一つ軽い溜息をつく。
知的に見えるかもしれない。ウットリ「素敵」と思っている婦女子がいるかもしれない。しかし存外、人間の頭の中とはこういうもので、大した事は考えていない。
暑くなってきた。
太り身には辛い時期の到来である。