第22話 雨の高野山(3月27日)

ここ数ヶ月、ひどく忙しかった。
仕事ばかりをしていたと言えば嘘になるが、連続的にモノづくりの予定が入っており、休んで何かをしたという日が皆無であった。
「どこかへ行きたい」
ふと漏らしたのが3月18日で、その翌日3月19日には船に乗った。
大阪行きの船で隣には次女がいる。三歳七ヶ月になるこの娘については、悲喜爛々44「八恵」において、今に至るまでの紆余曲折を書いたが、今は素晴らしく元気で、四月からは保育園に通い始める。
娘との二人旅はこれが二回目で、前回は長女と二人旅をしている。これに関しては悲喜爛々45「奈良から想う」に書いており、正倉院展へ出かけている。
この初めて二人旅に出た時、長女の年齢が三歳七ヶ月で、
「この時期の父子二人旅を恒例行事にしよう!」
と、いうのが旅の口実であった。
で…、行くと決めた後に目的地を探した。
「大型のフェリーに乗りたい」というのは娘の希望であり、且つ旅費も抑えられる事から関西方面というのは決定している。関西方面で最初にピンときたのが高野山であった。
言わずとも知れた空海の本拠地で、真言宗の総本山・金剛峰寺があり、世界遺産に登録されている。
空海に関しては日本中に様々な伝説が転がっており、どこもかしこも弘法大師のナニガシという謳い文句が付いているが、やはり高野山に行かずして空海は語れないように思われ、伝説通り高野山で今も空海が生きているとすれば、空海、そして弘法大師という日本が生んだ密教界の巨人を知るに当たり、これ以上の場所はない。
そういう事で高野山へゆく事を決めた。
当たり前の話だが、高野山が子供に楽しいはずはない。娘と相談し、丸二日関西へ滞在するという事に決め、一日を父の日、一日を娘の日とした。
船は予定通り20日の午前6時30分に大阪南港へ着いた。
船旅は順調であったが天気は大荒れで、大阪は土砂降りの雨が降っていた。予定では極楽橋という駅まで電車で行き、そこからは古い登山道を歩く予定であったが、空を見るにどうも止みそうにない。
コンビニでビニール傘を買い求めた。が…、極楽橋駅に着いた時、空模様は極端な豪雨であった。
「歩けるや?」
「やだ、あるけん! それにさぶい!」
私としては猛烈に歩きたかったが確かに凄い雨で、更に寒かった。高野山の標高は約1000メートルで、この極楽橋駅も標高538メートル。阿蘇にいるのと同じような感覚で、雨に濡れてしまえば風邪をひいてしまうだろう。
仕方がないので、極楽橋駅から出ている高野山ケーブルカーに乗った。
山頂までは五分もかからなかっただろう。アッという間に500メートルを登り切り、改札を出たわけであるが、そこは別世界であった。とにかく風が強くて寒い。雨に至っては冷たいを通り越し痛くなってしまっている。致命的なのは二人とも薄着であった。
「さぶいー! やだー! かえるー!」
標高1000メートルにもなれば地上より8度は寒い。日陰には雪も残っており、娘は大いに暴れてくれた。それを飴やお菓子であやしつつ何とかバスに乗り込んだ。
(こりゃ大変だ。見るとこだけサッと見て、サッと帰ろう)
暴れる娘を隣に座らせ、真っ直ぐ奥の院(空海が眠っているところ)へ向かった。
ちなみに高野山のある町は高野町という。ホームページを見てみると「宗教環境都市」というキャッチフレーズが付いており、町の要素の大半を高野山が占めている状況のようだ。
また、ケーブルカーの中で案内放送として流れていたが、金剛峰寺を中心とした界隈には坊さんだけで1000人が暮らしているらしい。町の人口を調べてみると約4500人で、なんと1/4が坊さんという恐るべき宗教都市である。また、高野山の流れをみると空海が開き、金剛峰寺があり、真言宗以外の人は絶対に受け付けないという感じであるが、意外にも雑多な宗派や人々が修行に来るらしく、
「宗派に関して細かく言わんよ。山岳宗教と弘法大師に興味があるなら一度はおいで」
そういった大衆迎合の観光地となっており、どうも町ぐるみで近畿地方の癒しスポットを目指している風向きがある。(集めた情報から得た印象による)
昔々の高野山といえば高野聖を全国に散らばらせ思想の押し売りをしていた印象があるが、それに比べると実にスマートで懐の深い、理に適った広報戦略ではないか。
そもそも私はこういった裾野を広く持つスタンスが嫌いでない。むしろ好きだ。日本人にピッタリだと思っている。
大半の日本人が持っている思想に関する雑多な点、こだわらぬ点、これが素晴らしいと思っており、凝り固まっていないぶん何でも食いつき何でもやる、それは素晴らしい思想形態ではないか。ご利益があれば仏様も祈り、神様も祈り、楽しければクリスマスもやる。
「いいとこ取りでいいんじゃない?」
その感じが素晴らしく好きで、その反面、宗教闘争や思想的勧誘、その他それに類する場面を極端に嫌う傾向がある。この点、高野山という一大思想拠点が他宗派も受け入れるというのは私好みであった。
さて…。
バスは奥の院前に着いた。
奥の院は空海が眠っているところで、伝説では今もそこに空海が生きているそうだが、
「やあ、福山君、待ってたよぉ。ぼく空海」
その肉声はむろん聞けない。そこに空海がいるつもりでバスを降り、約1キロ、ありがたい気持ちで歩かねばならない。
冷たい雨は未だ続いている。入口で子供用の傘を借り、二つの傘はトボトボと奥の院を目指した。
周囲は墓と杉が乱立する異様な景色で、どちらも異様に立派である。
杉はいい。空海没後1200年の歴史が感じられ、何となく聖地に来た感じがする。
が…、墓はどうか。個人の墓も多いが沿道には企業の墓が多く、その自由な作風は墓というよりもモニュメントで、知ってるキャラクターが山ほどあるものだから、テーマパークへ来た錯覚を覚える。
更にひどいのは大名の墓が至るところにあるのだが、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗、上杉謙信、ほぼ全ての聞いた事ある戦国大名がそこへ眠っているという事になっているが、それはあるまい。分骨して持って来たとも考え辛いし、彼ら全てが高野山へ傾倒していたわけがない。信長に至っては大の宗教嫌いである。日本人は全て空海が好きだという想像のもと、古い高野山の方々が勝手に供養したのであろうか。何かの記念碑であろうか。よく分からない。
とにかく、この世界遺産に指定されている墓と杉に囲まれた道は一瞬たりとも私を飽きさせなかった。
「うそだろー」
「ほんとかよー」
疑いながら驚きながら歩いていたら、アッという間に奥の院へ着いた。
御廟橋という小さな橋を渡れば、そこから先は霊域で、写真や私語はご法度らしく、至るところに「弘法大師様が眠っておられます、お静かに」の看板がある。
奥の院ではちょうど三回忌の法要らしきものがあっており、凄まじい数の灯篭がぶら下がっている院内には低いお経の声が満ちているところであった。
私と娘は濡れた靴を置き、法要に出席している人たちの隣に何食わぬ顔で並び、黙って儀式を見ていたのだが、さすが密教、見た事ない道具のオンパレードで、法要終了後、道具の詳細を若い坊さんに尋ねたのであるが「分からない」という事で、謎が謎を呼ぶばかりであった。
それにしても娘が隣にいると史跡散策は進まない。
法具の事が気になり、絶対に調べてやろうと気持ちは意気込んでいるのだが、
「さぶいー、かえろー、くさいー」
香が臭いと叫ぶ始末で、これには参った。寺で香が臭いと言われてしまっては居場所がない。しょうがないので院の裏手にある空海が眠っているというところへ行ったのだが、人が多い上に院の中よりも香がきつい。
「かえろー、さぶいー、くさいよー」
「ここまで来たけん一つぐらいお願いばしろ! そこに空海さんがおるはずだけん叶えてくれる!」
「やだー」
「しろ、しろ、叶うけん!」
「じゃ、飴が食べたいよー、ジュースが飲みたいよー」
その娘が発した願いは1時間後に叶い、さすが空海さんという具合になるのであるが、私からすれば歴史散策どころではなくなった。
奥の院を後にした。
冷たい雨は降り続く。
奥の院から有名な一の橋までは約2キロある。私の中では娘の状態を見ながらアレを諦めコレを諦め、大幅な計画修正をやっているわけだが、それでも娘には辛いらしく、やはり濡れた足元が特に辛いらしい。傘も三歳の小さな手には重いらしく、
「つかれたー、おっとー、かえろーよー」
娘は数十メートル毎にそれを繰り返す。
「ほら、傘ば持ってやるけん頑張れ」
「やだー、だっこー」
「ダッコできるわけにゃーどが! 傘もリュックもオットーが持っとる!」
「じゃあ、さぶいー」
たった2キロ、世界遺産の墓と杉の道が長く長く感じられるのであった。
一の橋を出るとバス停があった。バスに乗り、メインの金剛峰寺へ行き、その後、大門を見て終了という極めて簡素な計画に修正したのであるがバスが20分待ちであった。雨に濡れて待つわけにはいかないので、近くの宿坊で雨宿りをしながらバスを待った。
高野山には観光客が泊まるための宿坊(寺が経営している宿)が多い。ホームページでその数を調べてみると53もあり、高野山宿坊組合なる組織もある。普通の旅館があるのかと調べてみたがユースホテルのみが設立を許されているようで、他は全て宿坊である。
雨宿りはこの宿坊の軒先を借りた。軒先で娘にジュースを飲ませていると坊さんが出てき、
「お泊りですか? ご休憩ですか?」
ホテルの看板みたいな質問を投げてきた。
「雨宿りです」
そう返すと、
「そうですか、ほな」
そう言って引き返したが、この対応はその後二件の雨宿りにおいても同じであった。
私が小さい頃、寺は長い説教をする嫌なオッサンがいる印象が強く、捕まったら長いこと離れられないイメージがあった。現に寺で遊んでいる時、「麦茶をあげる」と住職が言ったのでご馳走になったところ、仏の話を延々と聞かされ逃げられなかった。これは神社においても同じ事で、こういった類の人たちに捕まると話が長いという固定概念が年少の頃に擦り込まれている。
それだけに話しかけられた時、ビクリと身構えてしまった。が…、仏のホの字もなく去っていかれると拍子抜けした感じで、何か違う印象を受けてしまった。
バスは定刻に来た。
定刻に来たので、「急げ、急げ」と娘を急かし、目の前のバス停に走ろうとしたのだが、娘は靴を脱いでおり、まごまごしているうちにバスは行ってしまった。
(しまった!)
舌打ちしつつバスの時刻表を見ると次は30分後になっている。30分も寺の軒先でジッとしていられほど私は人間が練れていないので金剛峰寺まで歩く事にした。が…、距離は約1キロ。雨も降り続いており、車の通りも多い。既に3キロも雨中を歩き、立腹中の娘が更に暴れる事は目に見えている。
仕方がないので、遠目に見えた食堂で昼飯を食う事にした。南山料理と書いてあり、その言葉の意味を聞くと大阪(上方)に対し高野山が南山にあたるからだという事で、その詳細は高野豆腐を始めとする精進料理にあるらしい。
私と娘は話を聞くだけ聞いて親子丼とチャンポンを頼んだ。
ちなみに食堂のお父さん、私たち一行を一発で他所者だと見破った。そして「どこの村から来た?」というのを流暢な関西弁で問うてきた。「どこから来た?」なら話は分かるが「どこの村」とはどういう事かとムッとしたが、よくよく考えるに確かに南阿蘇村であった。
「南阿蘇村」と応えると「行きたいですわぁ、憧れの場所ですわぁ」と褒め称えてきたために怒りを忘れてしまったが、村民になったという事を意外なかたちで認識するに至った。
さて、それからであるが金剛峰寺まで歩いた。風も強く、傘を持った小さな娘は吹き飛ばされそうであったが、
「さすが頑張り屋の八恵ちゃんは他の娘っ子とは違うねぇ!」
褒めて調子に乗らせていると、結局は歩いてくれた。お調子者、その血を感じた瞬間であった。
金剛峰寺に着いた頃は私も娘も足元がベチャベチャで気持ち悪く、どこか上着もしっとりしていた。背負っているリュックに至ってはズブ濡れになっており、中に入れている本や資料も全て全滅であった。
本来ならばタップリと時間を使い、持ってきた資料と照らし合わせながら金剛峰寺を骨の髄まで楽しむ予定であったが、気候も娘もそういう状況ゆえ、思うようにはならなかった。
外観を大雑把に見た後、中へも入らず金剛峰寺を後にした。
続いて高野山の正門である大門へゆくべくバスの時刻表を見た。またも時間が空いており、娘を見ると寒さや退屈を通り越し、ボーッと一点を見つめている。唇も青い。
その事で帰る事を決意した。
登山道も登らず、大門も見ず、壇上伽藍も多宝塔も味わっていないというのは、
(何をしに遠い高野山まで来たのだろう?)
その事であったが、「また出直して来い」という空海のお告げであったかもしれない。
後ろ髪を引かれながら帰りのバスに乗った。
暖かい車窓のバスから女人堂が見えた。
高野山へ登る古道は七本あり、昔はそれぞれに女人堂があったらしい。明治維新より前、高野山は女人禁制で、女性の参詣者はこの女人堂より先に入る事は許されなかった。女性はこれより数キロ先にある奥の院に思いを馳せながら、この女人堂で何事かを念じたはずだ。
そこへ行けない。それは分かっているが、それでも登らねばならなかった女性の願はきっと重く切ないものだったに違いない。
今は高野山の女人堂は車窓に映る一箇所しか残っていない。途中下車して見るのもいいが、これらを本当に見るには麓から古の道を歩き、その足跡を多少なりとも知った上でなければ見るに見れないのではないか。
私と娘は滞在ほんの4時間程度で高野山を後にしようとしている。
娘はケーブルカーに乗るやビショビショになった靴下を脱ぎ、
「さぶかったねぇ、おっとー」
白い歯を見せ、やっと一息ついているが、私は未だに後ろ髪を引かれている。
ケーブルカーは七本ある古道のうち不動坂口に沿って下ってゆく。下りきったところの駅、極楽橋駅は古道に架かっていた橋の名前であろう。極楽橋駅から先、南海電鉄は紀伊神谷、紀伊細川、上古沢、下古沢、高野下、九度山と古道に沿って下っていく。車窓から見える小さな集落はどれも味があり、歩きたい心に拍車がかかるばかりであった。
そうそう、九度山といえば真田幸村が隠棲していたところであるが、九度山という地名は知っていても高野山の登り口だとは全く知らなかった。真田幸村は冬の陣、夏の陣と豊臣方で凄まじい活躍を見せるが、この九度山隠棲中に何やら力強い味方を得た形跡がある。それが高野山と関係あるのかどうかは分からぬが、神がかり的な活躍と聞けば、何か因縁を感じないでもない。
九度山を過ぎると学文路という駅に着く。学文路と書いてカムロと読むのだが、高野山へ続く古道沿いにこの名前、
「うっわー、実際に歩いて現場を調べちゃー」
強い衝動に駆られたが、娘の唇はまだ青い。
ちなみに南海電鉄の高野山行きは橋本という駅から分岐するかたちで、紀伊清水、学文路と続く。車窓から察するに橋本辺りから歩き始め、高野山をグルリ一周し、違う道で下りたら楽しかろうとヨダレが出る思いで次の計画を夢想した。
南海電鉄は大阪へ向かって走っている。
隣に座っている娘は寝ない。
「さあ、眠ってくれ! 頼む! 今こそ眠ってくれ!」
そう叫ぶが、こういう時こそ寝ないのが子供というものであろう。
明日は娘の日、次の話では大阪海遊館(水族館)へゆく。


第21話 見とれる爺様(3月18日)

庭の最も目立つところにひどく年老いた梅の木がある。
引っ越した当初、夫婦揃って枯れ木と思い、地元の人に切ってもらおうとしたところ、
「こん木は生きとりますばい。それにカタチんよか。もったいなかですよ」
そう言われ、ほっといたら花が咲いた。
咲き誇るという感じではないが、ちょろちょろと咲いたまだらな感じが遠目で見ていて実に絵になる。
「切らんで良かった」
「ほんとにねぇ」
夫婦で我身の短慮を嘆いていたところであったが、つい先日こんな事があった。
朝起きて新聞を取ろうと外に出てみると雪が積もっていた。寝る前に天気予報を見たが、それによると終日曇りになっており、予想外の景色に「おお!」と声を荒げてしまった。
その声を受けて、老梅にとまっていたウグイスが飛んでいってしまったらしい。
「らしい」と書いたという事は、誰かにその事を聞いたという運びになるのだが、老梅の前にいた近所の爺様に聞いた。面識のある爺様ではなかったが、早朝に散歩をしているのだから近所の爺様であろう。
挨拶を交わすと爺様はゆっくり頷き、
「よか梅じゃ!」
一言そう言い、続けて現在の状況を説明し始めた。
爺様はこんもりと綿雪が乗った老梅に見とれていたらしい。すると小さなウグイスがやってきたそうな。ウグイスは「ホーホケキョ」と鳴りきらぬ不器用な「ホケホケ、ホケキョ」を何度も発したらしく、
「ちっちゃかウグイスの可愛かこと可愛かこと、そりゃ良かったですばい」
いとおしげに眺めていたという。
私は爺様至福の瞬間を奪ってしまった事に深い反省を覚え、「すんませんねぇ」と頭を下げたわけだが、
「いやいや、そっじゃなか」
爺様はウグイスの事が言いたいのじゃないという事を色々な言葉を使って長々と説明し、
「春ん鳥は木ば選ぶとですたい、だけん、こん梅は素晴らしか」
それが言いたいのだと強く言い、
「それだけですたい」
有無を言わせぬスピードで背中を見せ、スタコラサッサと去っていった。
爺様とのやり取りはそれだけだったが、爺様の言葉はひどく私の中で尾を引いた。
「見とれとった」と爺様は言ったが、そもそも「見とれる」という感覚を私は的確に捉えられていない。思春期に才色兼備の同級生をボーッと眺めてしまうあの感じであろうか、我子の晴れ舞台を眺めるあの感じであろうか。
いや、それは違う。きっと違うだろう。
もっと穏やかで、もっとふんわりとした感じで爺様は老梅の中に溶け込んでいたのではなかろうか。
「見とれる」とは角膜を通して見るそれではなく、その先にあるもっと鋭敏な部分でのみ捉えられる極めて透明度の高い感覚ではなかろうか。
爺様は老梅を見、そして触れた瞬間、中空へ舞ったはずだ。
「かさかさになったお前さんは今にもなくなってしまいそうだけれども、小さくて可憐な花が今年も咲いた。お前さんは冷たい雪にも耐え忍び、今日は何やらキラキラしよる。孫みたいなウグイスが片言の言葉で何か言いよるが、お前さんにとっちゃぁどうでもいい話…。ふふふ、春ですのぉ…」
そこにある老梅は確かに老梅だけれども、それは「季節の繰り返しで老いてゆく」という人生そのものであって、万物の象徴のように何か透けて見えたりしているのではないか。
(見とれるという感覚、それは何だ?)
心を鎮め、ウグイスの声に耳を澄ましてみた。
聴こえた。
そして風の音が遮った。
続いて嫁の声が聞こえてきた。
「泣いてばかりいるんじゃないよっ! あんたは倉庫に行きなさいっ!」
「ぶえーん! ばかー!」
バチーン! ガラガラ! ガッシャーン!
花の色も鳥の声も風の囁きも全ては騒音の中にある。
爺様の域にはまだまだ遠い。


第二十話 歌う爺様(2月14日)

氷点下8度、凍てつく寒さの中、「えいや」と布団を飛び出し、いつものように家族五人で食卓を囲み、それから温泉へ向かった。
最近は仕事前に温泉へ行くのがマイブームで、いつもは次女が付いてくる。
しかし今日は保育園で交通教室なるものがあるらしく、女衆は全員揃って保育園に行くという。
テレビではバレンタインの事をヤンヤヤンヤと騒ぎ立てているが、一人っきりの自営業にバレンタインはない。いつもの気分でいつものように起き、いつものように温泉へ出かけた。
ところで福山家が愛してやまない近所の温泉であるが、一番風呂はとてもぬるい。
湯を入れ替え、それから循環加熱するからであって、地元の人が適温というまでには約二時間かかる。番頭の親父が開店一時間前に準備に入っても適温には間に合わないらしく、番頭もそのリズムを改める気はないので、開店九時、適温十時というのは地元の常識になっている。
従って一番風呂はいつもガラガラ。私と次女は気兼ねする事なく歌ったり泳いだりしているのであるが、その日は一人だけ爺様がいた。
(お…、珍しい…)
そう思い、挨拶を交わしたのであるが、その爺様、目をつぶって熱唱している。けっこう大きな声で挨拶をし、ドアも手荒く開けたのだが全く気付いていない。
(入り込んでるな)
そう思い、掛け湯をしようと湯船に手を伸ばした時、
「うにゃっ!」
爺様、仰け反るかたちで私に気付いた。
「あた、なんかい! そーっと入らんでくれ、たまげたぁー!」
爺様はそう言いながら顔をザブザブ洗うと、また歌い始めた。
曲目は「兄弟舟」であった。
「波の〜♪ 谷間に〜♪」
爺様の歌はお世辞にも上手いとは言えない。しかし声量だけは抜群で、私にとっては強烈な雑音であった。珍しく一人で来た事もあって、心底ゆるりとしたかったのであるが、これじゃどうしようもない。
先に体を洗い、爺様が出るのを待った。しかし爺様、一向に上がる気配を見せない。更に曲目が「兄弟舟」オンリーなので耳から離れなくなってきた。某ホームセンターに長時間いた気分である。
たまらず嫌味を言ってみた。
「お上手ですね」
これがいけなかった。
「そぎゃんね、うれしかぁ、実は明日カラオケ大会があるとたい、ちょっと聞きよってくれんね」
爺様の兄弟舟は更に大きな波に乗り、体まで動かし始め、大きく湯船を揺らし始めた。
「俺と〜♪ 兄貴のぉよ〜♪ 夢のぉ揺りかごさぁ〜♪」
(揺りかごはどうでもいいけん、バチャバチャ暴れんでくれー!)
終わらない歌に苛立ちは募るばかり。終いには感想を求められたため、
「もうちょっとコブシを強くされた方が…」
苦し紛れにそう返すと、爺様はもがき苦しむ断末魔の形相で更に暴れながら歌い始めた。
ぬるい湯も長時間入れば温まってくる。今これを書きながらも頭の中では兄弟舟が回っているが、約一時間も兄弟舟を聞き続け、頭の中まで熱を帯びてしまった。
上がる際も、
「なんじゃ、もう上がるとかい? 歌ん聞き苦しかったとか?」
そう問われ、「はい」という言葉を出しては戻し、そして飲み込み、
「明日のカラオケ大会、きっと大盛り上がりですよ」
ニコリ笑い、手はグーのまま湯を後にした。
壁一枚隔てた脱衣所にも爺様の兄弟舟は容赦なく運ばれてくる。壁二枚隔てた廊下にも兄弟舟が薄っすら届いている。
「凄い声量…、爺様とは思えん…」
それだけは感心しながら徒歩四分の家に戻り、「さあ、仕事にかかろう」とパソコンに向かったが、威力爆発、ここにも記憶を通して兄弟舟が運ばれてくる。
「型はぁ古いがぁ〜♪ しけにはぁ強い〜♪」
(むむっ、確かに型は古いが何かが強い…)
「熱いぃこの血はよぉ〜♪ 親父ゆずりだぜぇ〜♪」
(頼むから受け継がないで! 爺様で終わらせて下さい!)
「ああっ! 仕事にならないっ!」
それはまさに強大船。焦れば焦るほど私の思考を占拠するのであった。


第十九話 年始に考えるべき事(2月8日)

ぼんやりと事業計画について考えている。
私は「管理」という言葉は嫌いだが、「計画」は好きである。
どれくらい好きかというと、豆腐一つを買いに行くにしても緻密なタイムスケジュールを立てる。それくらい好きである。
計画というものは小説を書く上での構成に似ている。
長い物語がアッチへ飛んだり、コッチへ飛んだりしないように大筋の流れを走り書きした上で執筆に入る。が…、私の場合、構成通りに進んだ事は一度もない。全て書きながら別の方向へ突っ走り、別の道から走り書きの結論へ達するのが常である。
計画もまさに同じ事で、計画通りに運ばれる事はまずない。ズレて修正して、そのうちに全く違う事を始めてしまうのであるが、計画のおかげで行きたい場所だけは見えている。
(だったら目標だけ立てれば良いではないか…)
そう思ったが、どうもそうではないようだ。プロセスまで書き加える計画の方がより身近で現実感がある。そして何よりも計画通りにならない現実を確かなかたちで認識でき、いい刺激を受ける。
計画を立てていなければ何気なく過ぎてしまう一現象も、計画を立てていれば、
「ありゃ、狂ってしまった」
と、アクシデントになりうる。
それが心地いいから、守る可能性が極めて低い計画を貴重な時間を使って立てるのではないかと邪推している。
で…。
阿蘇カラクリ研究所を立ち上げる前、お役所に提出した事業計画書が手元にある。
当時は「夢挑戦プラザ」という県の補助機関に数年はお世話になるつもりだったので、綿密な計画を立て、事業可能性評価委員会という公の場所でプレゼンもした。
その計画によると事業名は「一人貫徹型設計製作事業」となっている。
内容は大手の設計事務所が面倒臭くて手を出さない小規模な領域にメカトロ技術で踏み込んでいこうというもので、今読み返すとなかなか気の利いた事を書いている。
ものづくりを依頼する場合、普通は製作仕様書というのを客先が書くのであるが、個人の発明家や町工場は大抵それらを書いた事がない。それで大手の設計事務所は「こりゃ手がかかる」と引いてしまうのだが、「そこにビジネスチャンスがある」と手元の事業計画書は言っている。そこに一人ならではの小回りで食い込み、一つ一つ問題を解決していく。そうしていく事で永続的に事業が営め、且つ小幅な拡大が見込めると…。
「うーん」
自分で書いたものに感心してしまうのも何だが、言い得て妙だと思っている。更に、この計画を事業可能性評価委員会という経営のスペシャリストが審査する場でプレゼンしたところB評価をもらった。B評価というものは「事業可能性あり」という位置付けで、すぐさま金を貸してもいいというA評価ではないから大した事はないのであるが、優れた特許もないのに製造業でBを貰ったのは稀らしい。
更にプレゼンの最中、保証組合の人が、
「私を訪ねて来なさい、すぐにでも貸してあげるから」
こう発したのであるが、それは前例がなく、歴史的快挙らしい。(お役所の談)
しかしながら私の頭の中を公の場で発表し、それを評価してもらうというのは人生初の経験だっただけに、送られてきた通知表は心底勉強になった。
評価項目は新規性、実現性、市場性、成長性、人物・理念の五項目であるが、成長性と市場性が低く、人物・理念、新規性が高い。それは予想していた通りだったが、その通知表に添付されていた「評価委員コメント一覧」は腹が痛くなるほど笑い、そして胸に沁みた。
幾つか傑作を抜粋する。
 ・計画はともかくとして、個人的に相談したい人である。
 ・福山氏が個人でできる範囲の規模に終わる可能性が高く、成長性は見込めない。
 ・若いながら冷静さと遊び心を兼ね備えた楽しみな人物。しかし、経営力は決定的に不足している。
 ・こんなにもロマン溢れるプレゼンは初めて。
 ・便利屋として上手く利用されてしまう可能性があるので、事業の核を確立する必要がある。
 ・小説家になりたいと言っておられたが、本委員会の主旨と異なる。
ちなみにこの委員会でプレゼンする人たちの主たる目的は金を借りる事である。従って私のように金を借りる必要がない人間が出てしまうと場違いな感じになってしまうが、なかなかどうして痛いところをついてこられる。
で…、今…、これらを見ながら計画と実績の確認をしているところであるが、売上ベースでいけば計画通り、赤字にならず黒字にならずの線である。しかし、やっている事が事業計画通りかというと、そうではない。
計画は「ものづくり事業」と「クリエイティブ事業」、その二本柱から成っており、ものづくり事業の規模をある程度まで高めたらそこで維持停滞させ、そこから徐々にクリエイティブ事業のウェイトを上げる。将来的にはものづくりとクリエイティブの比率を半々にもっていきたいというのが長期計画であり理想である。
そのためにも「二ヶ月に一本は小説を書く」という計画を立てているし、ポスターや簡易動画も事業の一つとして掲げている。しかし、注文を受けたものづくりを中途半端にやるわけにはいかんので、そちらに情熱を傾けていると多くの時間がそれに流れてしまう。そして、四ヶ月を総括すれば小説が一本も書けておらず、ものづくりとクリエイティブの事業比は160:1という結果になってしまっている。(計画では25:1)
(さて…、今後どうしようか…?)
冒頭で書いたように計画はアクシデントを認識するためにある。早速、両天秤の難しさを認識するに至ったのだが、理想なくては時間が死ぬし、ものづくり一本では集中力が持続しない。それは目に見えている。
(むーん、ちょいとクリエイティブの躍進を遅らせてコッチの方を頑張るか、いや、そうすると目標達成四十歳、それは辛い、この時期には子供も金がいるだろうし、しかし飽きて挫折よりは…、ねぇ…)
事業計画はそのまま私の人生設計であり、家族の計画にも繋がる。
「それなりの収入を持ってきてよ!」(嫁の圧力)
「おっとーの輝く姿が一番です!」(子供の欲するところ)
「人生、飽きなくて面白いのが一番!」(夫の思い)
頭を抱えながら、半年に一度は計画の修正を試みる。
計画を立てねば、それは惰性の人生であり、成り行き任せの一生になってしまうであろう。
(さて、どうするか?)
無駄かもしれぬが大いなる成り行きに逆らいながら計画を修正する。
(ええい! こういう目標を立ててやる! どうだ、こんちくしょー!)
鼻息荒いこの時期こそ、計画好き至福の瞬間である。
気付けば年明けて四十日が過ぎている。
時間の早さ一つを取っても「生きる」とは予想外の連続である。