第26話 碧翠楼(5月1日)

阿蘇谷を流れる川を黒川という。南郷谷を流れる川を白川という。
この二つの清き流れはそれぞれの谷の低いところをゆるりと流れ、立野で合わさって白川となり、それからは勢いを増して大津へ落ち、以後のんびりと旅を続け有明海に注がれる。
熊本が誇る一級河川・白川である。
私はそれを調べるつもりではなかったが、それに沿う古道を調べるために黒川と白川の合わさる場所、立野戸下へ足を運んだ。
現在の阿蘇へゆくメインルートは国道57号線であり、南郷へゆくためには阿蘇大橋のところまで一気に上り、数鹿流の滝を左に見ながら橋を渡る。それから斜面を切り開いてつくった立派な道(国道325号)をゆくのであるが、昭和45年までは阿蘇大橋がない。
人々は阿蘇大橋のずっと下、谷底の岩壁に寄り添うかたちで歩き、小さな石橋で黒川を渡った。
昔の道というものは元からある地形に最小限の手しか加えないというのが大前提で、現在のようにトンネルを掘ったり、長い橋を架けたり、山を切り開くという事はしていない。むろん、土木技術が今日のように成熟していなかった事がその要因であるが、それ以上に文明的な道を人間が欲しておらず、更には山や川に手を付けるなどは田舎の文化圏から見れば神に背く恐れ多き事だったろうと思われる。
が・・・、文明というものは鉄臭くて近寄り難いが、食べるとこの上なく甘い。人はその味に酔った。まず鉄道に酔った。続いて車に酔った。大きな道が走った。高嶺の花だった車が徐々に庶民の目線へ落ちてきた。
文明の重みは日に日に増し、大きな橋ができ、立派な道ができた。立派な道ができる事で車というものの文明的価値は上がり、多くの人がそれを欲し、その事で更なる道ができるという短サイクル循環が始まった。
今、道路特定財源の一般財源化が叫ばれているが、道路特定財源こそ、このサイクルの担い手である。その中にあって、地元の代表と称している一部の利権団体の代表が、
「田舎にはまだまだ道路整備がいるんです、地方は強くそれを望んでおります」
そう叫んでいるようだが片腹痛い。
まず観光地でない田舎において、それを望んでいるのは道路整備の記念碑を建てたがっている政治家とその取り巻きぐらいであろう。その他、善良な村民においては何のメリットもなく、建設後の利用状況においては、道路中央で昼寝ができるほど閑散としており、目で見る無駄として田舎の近代道路ほど確かな事例はない。
「これにあれだけの金ば使うなら年金に回してもらえると良かったとこれ」
記念碑の前で茶飲み話をする老人を私はよく見かける。
で・・・、阿蘇においてはどうか。
混むのは休日だけである。平日においては不相応の大きな道を間違いなく持て余している。地元の代表と称す人間が、週末だけを見て「四車線だ、バイパスだ」と叫ぶのは構わないが、地元の渇望とだけは言って欲しくない。休日のための道路整備という点、地方のためというよりも休日に押し寄せてくる都会人のためと言った方が適当で、古くから住む地元の人間にとっては人の流れと景色が変わるだけで、混乱あっても利は少ない。
そもそも車の数が増し、財源は増える中で道路しか使えないとなってしまえば、新設される道は田舎ばかりになってしまう。むろん、ふんだんに土地があるからで、集落のはずれを通ってしまえば特に反対する人もおらず、知らぬ間に地元が望んでいるという大義名分を立てられやすく、更には老人が多い事も手伝って「病院へ行くための道をつくる」という弱者保護の理屈までが勝手に飛び出す。その結果、年金が払える払えないでもめている国会を尻目に不可侵の予算で道が作られ、古い道は捨てられていく。そもそも道ができても年金取られちゃ病院へ行けないという重大な事実を偉い人は分かっているのだろうか。
俗にいう田舎という場所は歴史的にも耐え忍んだそれが長く、政治の事は触れず気にせず成るようになると構える人が多いのだが、それだけに政治の捌け口を一方的に向けられている気がし、悲しくならざるを得ないのである。
ちなみに箱物においては更にひどい事態となっており、山林の至るところが文明と失政のゴミ捨て場になっている。書くと長くなるので別の機会に書くが、この点も目に見える現状を大いに踏まえ、そして考えるべき時期にあるんじゃないかと娘のつぶやきを聞きながら思ったりした。
「やま、なきよるばい、かわいそうに」
娘は汚された山に向かってそう言った。何とも素朴な一言であるが、人は元々素朴なのだ。山や川には血が宿り、それそのものが神であるという文化的発想を誰もが持ち、万物を擬人化して敬う。日本という国における文化形成の根源はそれであり、私は今、文化採掘に燃えている。文化を掘り起こす事が社会の硬い手触りを幾ばくか軟らかくしてくれるのではないかと期待しているのである。
話がちょんちょん逸れて申し訳ないが、私は建前の世界を除いたところにおいて最も一般財源化を明日のために期待しているのは役人の次には建設業界だと思って(期待して)いて、この業界ほど政治の不条理、馬鹿馬鹿しさに振り回されている人たちはいないと思っている。一般的な業界において管理職しか触れないでいい政治臭をこの業界は末端までリアルに触れねばならない。
「今日は目立たない公園で昼寝しといて」
「え、なぜですか?」
「ゴチャゴチャ言わずに寝とけばいいの」
「だったら家に帰ります」
「それじゃ駄目なの分かるでしょう、君は馬鹿か?」
私は学生時代にバイト先でこういったやり取りをした事があるが、あれから十年以上経った今も腑に落ちず、嫌な思いが残っている。「徐行」の看板持ちをやった友人に至っては、
「この寒い中、手に看板を持つのは無駄だと思います。看板は立てればいいでしょう。体を動かす仕事にかえてください。看板立てるのは私がやりますから」
そう進言したところ、翌日クビになった。政治の不条理その一例であり、この業界においては今も昔もこういう事が続いている。だからこそ期末に無駄な作業で無駄な人が無駄な時間を過ごさざる得なくなり、その内部にあっては人によって憤りも一入だろうと想像するのである。
話を戻す。南阿蘇の入口、道の話であるが、阿蘇大橋ができる前、道は川に近い場所を通っていた。熊本方面から行くと立野駅から先は岩壁に寄り添う格好で白川沿いの道があり、それが黒川との合流地点まで続く。黒川とぶつかったところで今度は黒川沿いに少しだけ進み、最も川幅の狭いところで石橋を渡る。橋を渡ってすぐのところに広い河原があり、そこに一段上ったかたちで戸下温泉・碧翠楼があったと思われる。碧翠楼から先は七曲と呼ばれる断崖に沿った道を上り、そこから先は栃木という次の温泉地になる。
阿蘇大橋や長陽大橋を使えば一瞬で渡ってしまう道程であるが、昭和40年代までは多くの人や馬車、それに車がこの道を通り、川向こうに見える北向山原始林を今よりもずっと間近に、もっとゆっくり眺めたはずである。
あたかも肉声が聞こえるような生温かい古道は今、人の通過を許していない。落石の危険があるという事で頑丈に封鎖されており、原付バイクで現地へ向かったが、入る隙間は見当たらなかった。が・・・、人間一人は辛うじて通れそうだったので、バイクを置いて徒歩にて進入した。
道は落石を危惧しているだけあって、切り立った崖に沿うかたちであり、アスファルト製の道には幾つもの大きな石が転がっていた。沿道の木は手入れされていないのだろう。伸びるだけ伸びたという感じで昼なのに暗かった。七曲と呼ばれる栃木から下るところは桜の名所だったらしいが、その桜も様々な植物とゴッチャになっていて、あるにはあるが、ものの本に書いてある通りの見事な並木とはいかないようだ。七曲を下りきったところに広い河原があった。上の説明で、
「戸下温泉・碧翠楼があったと思われる」
そう書いたが、何もないのでそう書くより他はなく、写真と風景をつき合わせ、たぶんそうだと認識するに至っている。河原からは南阿蘇鉄道の第一白川橋梁を谷底から見上げる事ができ、一昔前までは鉄道マニアがここに集い、写真を撮りまくっていたという一文にも納得ができた。
戸下温泉であるが、大正15年に書かれた阿蘇郡誌によると「明治15年16年の頃、赤峯氏等の尽力によりて栃木温泉の泉場を引いて浴場を創め、故長野一誠翁の努力によりて暫時発達し来たるが、大正7年より全戸下一円、長野眞一氏によりて経営する事となり、近時著しく面目を改め浴室旅館とも最新の設備を施し、年を追ふて繁栄に向かひつつあり」とあり、源泉は谷上にある栃木温泉のようで、歴史も古くはないらしい。碧翠楼はそこにある唯一無二の宿で、風光明媚とアクセスの良さをウリにしていたようだ。上と同じ阿蘇郡誌の言葉を借りる。
「戸下温泉は黒川白川の合流せる渓谷内にあり。翠巒(緑山の事)四周を囲繞し、両川の清流に臨み、南には北向山高く聳立して夏は碧翠滴るが如く秋は紅葉錦を彩り水容山色風光実に絶佳の土地なり」
「宮地線立野駅より宮崎県道を東十八町、自動車・馬車の便あり。旅館は碧翠楼一軒にして設備最も完備し、浴室は特等湯、普通湯、家族湯の三個あり、間敷(部屋の事)併せて五十を有し、収容人員約三百人、宿料旅籠一円五十銭より五円位、自炊一日八十銭以上、一ヵ年の浴客延人員約三万をこえ、夏季及び観楓期(秋の事)は遊客殊に多し」
更に当時着工したばかりの南阿蘇鉄道についても触れてある。
「近く南郷鉄道開通せば白川峡谷の大鉄橋はこの温泉場より眺められて実に天下の偉観と思はる」
郡誌であるから地元贔屓な感じはするが、大正15年の予想通り、この温泉は煌びやかな昭和初期を辿っている。阿蘇の玄関口という立地も良かったし、初めて見る文明の象徴・鉄道を見上げながら湯に浸かるのは何ともいえぬ心地良さであったに違いない。
ちょうど資料を集めている最中だったので、昭和5年、昭和35年の阿蘇観光ガイドも手元にある。それにも戸下温泉が載っている。大正15年と重複しないところだけを抜粋する。
昭和3年「交通便利なるが故に、日帰りによし、宿泊更に可なり。玉突台(ビリヤードの事)等の設備あり、秋の紅葉、春の桜、恐くは当温泉場の独占と云ふも過褒ではあるまい」「電話各地に通じ、入浴しつつ御用便が出来ます。団体のお方へは五百人迄の設備あり、予め御一報あれば立野駅へ自動車で御出迎へ致します」
昭和35年「おおいかぶさるように繁る原始林をながめながら、河原の温泉プールでの一泳ぎは爽快だ。黒川を眼下に見ながら蛇行する山道、七曲の難コースには桜並木が続き、春の花見から秋の紅葉狩りと行楽には最適」
また、この35年のガイドに広告が載っているが、それによると「完璧の設備を誇る碧翠楼」とあり、小さな字で「夢の竜宮風呂と情緒豊かな五岳風呂」と書いてある。更には新館ができたばかりらしく、「別館三代ホテル(デラックス新館)」と太字で書いてある。何となく賑やかな雰囲気があり、当時の活気が伝わってくる。また昭和3年と35年の設備を比較するにビリヤード台から温泉プールへと大幅な進化を遂げており、業績は順調だったのだろう。
で、これから先は資料がないので想像であるが、昭和45年に阿蘇大橋ができてからは大幅に客が減ったのではなかろうか。人の流れが碧翠楼のある谷底を通らず、遥か上空の赤い橋を流れ始めた。
南郷観光地化の切り札として自動車用に用意された阿蘇大橋は多くの車を南郷へ呼び込んだが、その穴が立派であればあるほど、前にあった小さな穴は一瞬で枯れ果てたのではないか。来客数のデータ等あれば是非見てみたいが、昭和44年と46年で比較すれば雲泥の差があったに違いない。
更にこの阿蘇大橋、その高さにおいて近辺では他の追随を許さないために自殺のメッカになった。地元の消防団に言わせると、かなりの頻度で出動していたらしく、「このおかげで土左衛門を見飽きた」という話まで聞いた。
碧翠楼はこの阿蘇大橋より数百メートル下流になる。上の話からすれば、湯に浸かっていて何気なく川を見たら潰れた人が流れているなんて光景があったりしたのではなかろうか。
とにかく阿蘇大橋の建設は、こと碧翠楼にとってみれば良い事は一つも生まなかったに違いない。
この碧翠楼が姿を消したのは昭和59年である。立野ダム建設の話が本決まりしたらしく、その事で碧翠楼は水の中に沈む運びとなり、立野ダム損失補償交渉妥結調印後、跡形もなく消え失せた。
私は何か少しでも片鱗が残っている事を期待し、封鎖域に突入したわけであるが、本当に何一つ残っていなかった。それは碧翠楼が喜び勇んで立ち去った名残なのかもしれないし、ダム建設というものの几帳面さなのかもしれない。
立野ダムであるが、今も税金を使いながら草葉の陰で運動を進めている。このダムは下流に水を送るためのダムではなく、洪水対策用のダムらしいが、地元住民を始め様々なところから反対運動が上がったために進めたくとも進められない状況にあるようだ。このダム計画のお陰で前述の道は封鎖され、その代わり長陽大橋という煌びやかなまでに立派な橋が黒川を渡っている。橋は皮肉にも周辺を眺めるには格好の場所になってしまい、その事で、
「この景観を壊すなんて、そんな馬鹿な事があるものか!」
地元反対の声に観光客の声までも呼び込むかたちとなった。今現在、工事現場は立野駅の下の方に移っているらしく、白川を渡る格好で簡易的な橋が架けられ、北向山原始林に道が作られている。橋のところには看板があり、「ダム工事に際し、自然を壊さぬよう様々な事に留意している」と書かれ、「切り開いた後にはそこにある植物で緑化を試みる」とか、「ガードレールに緑の布をかけて鳥を刺激しないようにする」とか、よくもまぁ、こんな事を書くねと担当者を褒め称えたくなる事が長々と列記されている。
北向山原始林は原始林であるがゆえ、一切の開発を許さないはずであり、地元の人も足を踏み入れる事がない。言うなればこの森はモノノケ姫に出てくるような神秘的、且つ近寄りがたい森であり、だからこそ国も保護している。保護しているという事は一般庶民が斧を入れようものなら一発で捕まってしまうという事で、我々は遠目に眺めるしか森との接しようがないのであるが、よく見ると国から送り込まれたダム建設集団はその森を切り開き、道をつくっているではないか。
たぶん、地元でこの山を崇拝されていた方は怒り狂われた事だろう。そしてここに駆けつけ、看板を見、唖然としたはずである。
「自然を壊さないようにあんな事やこんな事をやってるから許してね♪」
「うそぉぉぉ!」
踏み入ることすら許されない神々しい森に道をつくっといて、鳥さんに気を使ってますとか言われても、地元の人はズッコケルしかなかったに違いない。目の前で切り開かれているのが現実であり、それを保護すべき人たちが堂々と森林伐採をやっているのだから、地元の崇拝者は泣くに泣けなかったであろう。
とにかく、わけのわからぬ計画のために古いものが次々と死に瀕している。私は古き道を歩きながら、辛うじて石橋が残っている事に安堵し、そこに寝転がったりしたわけであるが、詰めてゆけばそれが文明であった。使い捨てこそ文明の真骨頂であり、大量生産の服を着、パソコンを使い、車に乗ったりするわけだから、ものの大小はあれ、文明の最前線で活動している人々を否定する権限を私は持ち合わせておらず、やれるとすれば方向性の提言ぐらいのものであろう。もし、これらを完全否定できる人間がいるとすれば、山深くで自給自足する仙人のような人だけである。
起き上がった私は川向こうまでゆっくり歩き、そして引き返した。南阿蘇鉄道の橋梁では補修工事がやっており、この道の一部は工事現場の休憩場所になっていた。工事の人たちは命綱もつけずに鉄橋の補修をやっていた。その事を褒め称えると、「綱をつけると腕が鈍る」という切れ味抜群の回答を得た。目も眩むような高さで仕事をしているというのが彼らの誇りであり、命綱をつけてしまえばそこらにいる人と何も変わらないと言うのだろう。
俺しかできない独自性、それこそが職人のエネルギーであり、そういう人間の集まりが維新前の日本におけるモノづくりであった。全てを均し、効率を追い、こういう世の中を確立してしまったが、果たしてそれは良いものかどうなのか。つくり続けねばならない仕組みがあるがゆえ、捨て続けなければならず、この道も聖なる森も消えつつある。
「イノベーションの方向性は果たして?」
そのような事を考えながら、ぼんやり歩いていた私であったが、この直後、肝を冷やす瞬間に出くわした。たぶん、こういう経験をした人はそういないであろう。
背後に轟音が聞こえたと思ったら大量の水が押し寄せてきた。
インディージョーンズなどアドベンチャーものの映画ではよく見るが、日常ではまずありえないだろう。それも渓流歩きをしてて鉄砲水に出くわしたとかなら分かるが、封鎖された道とはいえ舗装されている道を歩いている瞬間の出来事である。
道の上から轟音と共に大量の水が私の方へ駆け下ってくる。私のいる状況を確認すると、片方は聳え立つ崖、もう片方は川へ落ちる崖、逃げ場はない。瞬時に私が考えたのは、何かに掴まらなければ死んでしまうという事であった。俊敏な動きで木へ寄り添い、ダッコちゃん人形のような姿勢でしがみついた。
その瞬間、水は来た。膝から下を一気に濡らした。濁流は私を追い越し、道の先へ駆け進んでゆく。心臓は大太鼓を鳴らすが如く、重低音の乱れ打ちである。
死を覚悟した。が・・・、水量が私を流すほどに増えなかった。長い時間、木にしがみついていたが、水が止まる気配はなく、増す気配もなかったため、木を離れて水に逆らう格好で道を上ってみた。すると崖の上から流れ落ちる水、滝が見えた。水は川の臭いがした。察するに崖の上に小川があり、定期的に放流しているのではあるまいか。上で流す人も下は封鎖されている道という事で安心して流したのかもしれないが、時刻は午後四時、これに流され土左衛門になってしまっては、観光客に醜態を晒す運びとなり、笑うに笑えないところであった。
足元を駆け抜ける水は道を下ってゆき、幾度かのカーブを経て、石橋の脇から黒川に放出されている。私はびしょ濡れの下半身を引きずりながら水と共に歩き、石橋のところへ出た。
石橋には消えそうな文字で「くろかわばし」と刻まれている。明治33年につくられた黒川橋は多くの人を渡しながら碧翠楼の百年を見守ったであろう。
人の手によりつくられた彼は、人の手により静かな日常を強制されている。道をゆく人はなく、ゆくのは私を濡らした水のみである。上空には長陽大橋と阿蘇大橋、彼や碧翠楼をこういった境遇に持っていった張本人が気を張りながら車を渡している。
雑踏や騒音は遠い。彼は鳥のさえずりや川のせせらぎを聞きながら今後も静かな暮らしを営むであろう。そして近い将来、ダムに飲まれるか黒川の増水に飲まれるか、それは分からぬが水の中へ消えてゆくに違いない。
碧翠楼はそこにない。
黒川橋はそこにある。
人の心はどこへゆくのか、それは神のみぞ知る。


第25話 政治について(4月16日)

集団の中に身を置くならば多かれ少なかれ政治というものに触れざるを得ない。
永田町の政治は遠いところでやっているけれども必ず身近なところに落ちてくるし、近所の密室でやってるそれも必ず我身に降ってくる。しかしこれらは知らんふりさえしていれば一部の人を太らせて、我身へ多少の害を及ぼして、更には後世へ致命的な打撃を与えるだけで、気が大きい人ならどうにでもなる。
この点、私は気が大きい人を装って寡黙を貫くようにしており、そうしていれば表向きは波風が立たない。しかし集団と接している以上、絶対に避けては通れない小振りな政治が世の中にはゴロゴロと転がっている。
私は平凡なメカトロエンジニアで、どこの組織にも属していない。ゆえ、経営・営業・購買を一人でしなければならないのであるが、持ってるものが平凡だと、それらに根回し・調整・愛想笑いなどなど、政治的力量が必要になってくる。個人的な思いを言えば、それらを全く使わずに飯が食えれば良いのであるが、世の中の仕組が何千年も前から政治主体で成り立っているため、それが叶うのは極々一部の天才のみになってしまう。
そもそも経営者と呼ばれる人種には政治という私に言わせれば何とも厄介な建前主動の世界を愛している人たちが多く、その根回しに至っては談合の巧妙な仕組みを見てもらえば分かるように、ほぼ全ての業界において「暗黙の了解化」されている。従って新参者の私が何かやろうと試みた場合、まずはこの暗黙の了解を理解・納得する事から始めなければならず、この点、根っからの政治嫌いには頭が痛い。そもそも大人の常識とされる「愛想笑い」ですら私には遠い存在なのである。
「どうですか、景気は?」
経営者が発する第一声は十中八九これである。この後、経済新聞やテレビニュースから抜粋したであろう棒読みの話が幾つかあり、それをする事で「挨拶を交わした」という政治的業務が終了する。これらを定期的にやってないと、
「ご無沙汰ですなぁ」
そう言われてしまい、政治的距離が生まれてしまうらしい。「ご無沙汰」なんていう言葉は熟年夫婦専用語と思っていたが、どうもそうではないようで、この世界では古くから乱用されている今尚ナウい言葉のようだ。
で・・・、私はこの政治的挨拶すら無難に乗り越えられていない。景気を聞かれ、どっちつかずの返答を返すまではいいのだが、その後の棒読みトークになったところで眠くなり、話を経済新聞からスポーツ新聞へ持っていきたくなってしまう。更にこの挨拶は一定の時間を費やすことで政治的業務と成り得るのだが、どうしてもダラダラしてしまうため、性格上、途中で打ち切らざるを得ないのである。
同席した諸先輩に、
「あれじゃ先方の話が面白くないって言ってるようなもんで印象が悪いよ」
そう突っ込まれてしまったが、事実面白くなく、こちらとしても明るい話題を何度も場に提供したが、その都度、先が見えない景気の話に戻されてしまったので仕方なく打ち切ったという流れである。
私の短い経験において、その政治臭が最も強くなったのは補助金がらみの仕事をやった時である。
この仕事の大半は建前で出来ていて、減るのはやる気と名刺と紙ばかりで、モノの出来栄えは二の次とは言わぬまでもそう重視されない。経験が多いわけではないので全てがそうではないのだろうが、気が滅入るばかりで楽しめず、今後はやるにしても政治から遠く離れた場所で「ものづくりマシーン」として使ってもらう事に決めている。
とにかく創業して半年が経過した。半年を振り返りながら上のように政治に向かない自分を思い返しているが、私は自分の事を政治的センスに欠けているとは思っていない。むしろ過敏であり、先方の感情を余計に把握してしまうがために、あえて鈍感であろうとしている風向きがある。「風向き」と書いたが、
「私に政治的能力を一切期待しないでください」
複数の客先にそう宣言しているあたり、政治に鈍感な自分を渇望しているのだろう。
冒頭で書いた通り、永田町をはじめとする税金座談会から落ちてくる政治は社会をつくっていく。それに対し、私は未来の事を憂えてはいるが持論を展開する暇も熱も持ち合わせておらず、人任せで申し訳ないが英雄の登場に期待している。
しかし前述した小さな政治となればそうはいかない。私が目の前のそれとどう向き合ったかで家族のゆく末や自分自身のゆく末が決まってゆく。どうありたいか、どうあるべきか、そして食えるかを懸命に考えた結果、今の結論に至ったのだとすれば大したもんだと自分を褒めてあげたいが、正直、後者が置き去りにされている感は拭えない。
人間は政治を切り離すと素っ裸になってしまう。建前の及ばぬところには実力以外の何ものも存在せず、逃げ場はない。だから政治から離れたところで生きられるのは天才か変人のみで、そこに名を連ねるのは山下清や永井荷風、その他もろもろ一握りの特殊な人物になってしまう。
(果たして政治を嫌って生きていけるもんだろうか?)
私は凡人ゆえ、その不安は強くある。しかし人生は一度っきりでもある。
「右も左も茨の道なら真っ直ぐ歩いてみようじゃないか」
踏み出した先に何があるかは誰も知らぬが、なぜか足取りだけは溌剌としている。


第24話 阿蘇下田の話(4月7日)

私が暮らしている南阿蘇村は2005年に生まれた。御多分に漏れず平成の大合併により産声を上げた村で、その身は長陽村、白水村、久木野村から成る。
村民は約12000人。意外に多いというのが私の感想だが、村の面積を見れば、
(まぁ、このくらいはいて当然か・・・)
そういう感想を持たないでもない。
村のつくりは基本的に田園である。
阿蘇五岳の南側、通称・南郷谷に村民の大半が暮らしており、右を向いても左を向いても山が見える。その山が近い。盆地の中央を一級河川の白川が流れており、平らなところはその近辺のみであり、白川に寄り添うかたちで集落が点在している。
阿蘇を牽引してきた北側から見ると、この狭い盆地は何とも頼りなく、ほんの数十年前までは文明から打ち捨てられていた感さえある。
歴史的にも南は北に従う事で生きてきた。北には肥後一の宮である阿蘇神社がある。この神社の宮司は単なる宮司でなく大宮司と呼ばれ、豪族の長も兼ねる。南阿蘇にはその阿蘇家に仕える家臣団の小城がちょろちょろあり、それを中心に集落を成した。南の集落にとって山一つ越えたところにある政治の世界は無縁であった。しかし切実でもあった。彼らを生かすため、淡々と生産を続けねばならず、南郷谷としての存在意義はそれだけに終始した。
北には西巌殿寺もある。坊中と呼ばれるその場所に阿蘇五岳を修行の場とする山岳宗教が興った。阿蘇五岳を母体とする以上、もう一方の登り口である南郷にも人が寄って然るべきであったが、それは阿蘇神社により制された。登り口は坊中よりの一箇所とされ、そこに番所が設けられた。登山者はそこで草鞋を買うよう義務付けられ、別口から登りたる者は山伏より追い返された。
南郷は歴史に黙殺され、ただ生産する事のみ求められた。北を支える裏方として長い時間を単調に過ごさざる得なかったのではないか。
政治に振り回されるのは人の世の常であるが、南郷の人々においても顕著である。
戦国時代、九州は大いに揺れた。南郷を統括する阿蘇家は豊後の大友家と同盟を結び、その結果、薩摩の島津家に食われた。肥後においては菊池、阿蘇、相良と歴史ある豪族がひしめいたものの、地理的に中央に位置するがゆえ、南からは島津、東からは大友、北からは竜造寺、この三強の顔色を見ているうちにアレヨアレヨと切り取られた感がある。阿蘇家においては際立った内紛も多く、内紛を繰り返しながら弱体化し、食べられるべくして食べられたともいえる。
とにかく阿蘇家に振り回された南郷の人々は迷惑至極であったろう。
私が住む場所を下田という。冒頭に書いたように白川沿いの小さな集落の一つで、阿蘇家に仕える下田という人物の城を取り囲むかたちで集落が形成されている。この下田城も薩摩に食われた。
今、その下田城跡を見るに、それこそ爪楊枝でタコヤキをつまむような気安さで落城したのではあるまいか。自然のものか人工的なものか、それは分からぬが白川沿いの斜面にペタンとした岡があり、その上に下田城があったらしい。が・・・、地形的に見て要害と呼ぶには遥かに遠い。集落総出で守ったとしても、たかが知れていただろう。そもそも下田城は戦うための城ではなく、停滞なく農業生産を続けるための拠点であり、その点、目的外の使用といえた。
阿蘇家にとって島津は南から来る。南に位置する南郷谷はこの時はじめて生産者として以外の目的を持ったのではなかろうか。
戦国以降、南郷谷の主人は阿蘇家から島津に、島津から豊臣になった。豊臣は二人の主人を送り込んだ。佐々成政と加藤清正であるが、佐々はサッサといなくなった。駄洒落であるが、その言葉通り、肥後を政情不安にさせたという事でサッサと切腹させられた。
加藤家の後、南郷の主人は細川家になり、そのまま明治維新に至っている。この期間、南郷においては再び生産者として静かな時間が流れている。人目に触れず騒がれず、南郷という小さな箱を覗こうとする人は極々稀であったろうと思われる。ただし一瞬だけ、歴史が南郷を通過した。
西南戦争である。
この日本最後の内戦は、またもや薩摩を起点に起こった。明治政府は熊本城で防戦し、その後、阿蘇や田原坂をはじめとする熊本の至るところでドンパチやった後に、宮崎から鹿児島に追い詰め、ついには西郷、桐野らが果てる事で収束した。この戦場の一つとして南郷があるために、ちょっとだけ歴史に登場した。が…、南郷の生活は何も変わっていない。
南郷の蓋を本格的にこじ開けたのは鉄道の開通であろう。
大正の頃には北へしか延びていなかった線路が昭和三年には立野から分岐し、高森へ延びた。その事で南郷が人の目に触れ始めた。
阿蘇の起こりはタケイワタツノミコトが立野の壁を蹴破って湖の水を抜いたところから始まると言われているが、蹴破られた後、その南側は放置され、忘れ去られた。南は北を支える事によって生き、そして文明から遠いところに身を置いた。明治、大正にかけ文明は驚異的な速度で存在感を増し、大正七年には北阿蘇の中心・宮地にまで鉄道が伸びた。それから遅れる事十年、文明の象徴である鉄道が南郷の殻を蹴破った。
文化は長い時間をかけ、じっくり熟成させて起こるために他人には理解し難いものがある。が・・・、文明とは普遍性の塊である。理屈の積み重ねをまとめたものであるため非常に分かりやすい。南郷は文明に驚き、そして迎合した。その驚きは浦賀に蒸気船を迎えた日本という国のようなものであって、恐れおののきつつも様々なものを取り入れざる得なかった。
文明は車を生み、車は道を欲した。南郷には今の国道に沿ったかたちで南郷往還という古道があったが、文明によって細切れにされ、人々に捨てられた。
明治維新以降、文明に酔い痴れた日本人は文明により隆盛し、文明により没落した。第二次世界大戦である。文明に触れたばかりである南郷にも赤紙は届き、根付いていた文化にも歪んだかたちで手が加えられてゆく。
日本という国において文化の象徴は氏神様であった。八百万の神がつくったという日本において、自治体の線引きを超えたところに八百万の文化というものがあり、それは土地土地の神社として高見の位置に鎮座している。氏神様を中心に祭りを行い、それをもって己が文化を確認するというのが日本の風習であり、伝統であった。
私の住む下田において、その氏神は西野宮神社である。かつて阿蘇家の一大イベントであった下野巻狩の拠点となったところで、その歴史は古い。境内には巨木が連なり、夏と秋には祭りも催される。現代においても下田という集落の文化を辛うじて支え続けてくれている神社といえるが、その最前面、鳥居の隣にロケット型のモニュメントが立っている。戦時中、氏子が奉納したものであろうが、文化の象徴に文明が切先を入れた典型的な絵のようにも思え、何とも痛々しい。
文明を飲み込んだ後の南郷は、その文明社会から見れば実に華やかなその後を辿っている。
「九州の軽井沢」
昭和初期、北阿蘇も含めてそう呼ばれ、南郷は様々な人の目に触れ始めた。手付かずの牧歌的風景は文明に疲れた人々の心を癒し、その人々によって文明が持ち込まれた。木こりしかいなかったような場所に居住区が次々と生まれ、ここぞとばかりに道が整備された。
道は集落を通るかたちでなるべく古道に沿うというのが基本であり、それが初期の技術であった。その事が沿線の集落に繁栄を与え、反省も与えた。
遠かった南郷は文明の受容に伴い、年々その感覚的距離を縮めていった。昭和も中期を超えると、下田に至っては市が立つほどの賑わいを呈し、遊郭染みたものまで登場した。
文明の産物である技術革新は日進月歩で進んでいく。進むにつれ目的地へゆくための道は郊外を真っ直ぐ抜けるようになった。その事で下田という集落は落ち着きを取り戻した代わりに文明的繁栄を手放した。
今、これを書いている時期というのは平成二十年四月七日である。
南郷という、ほんの一世紀前には人の目に触れる事すら叶わなかった田園地帯が今、九州有数の観光地になりつつある。旧態依然の白川沿いにある集落は下田も含め静けさを増している中にあって、利便性だけは飛躍的な向上を続けている。下田から熊本空港までは車で三十分もかからない。江戸時代に二日かかった熊本城までも約一時間で着いてしまう。一ヶ月をかけ、徒歩と船を駆使して向かったお江戸日本橋も飛行機を使えば三時間で着いちゃう時代である。
文明の流入は止めようがない。
昔からの集落を見下ろすように山の斜面には別荘地が興り、ペンションが建ち、硬い道が登ってゆく。菩提樹として植えられた一本の桜が人気を集め、予想外の観光客で賑わいを見せ始める事態となり、ついには公園化されてしまった。かつて憩いの場として賑わった湧水地はポリ容器を持った遠方の人々により再び賑わいを見せ、これまた硬いアスファルトで整備される運びとなった。
人々の姿かたちは変わらぬが、その営みは短期間で大きな変貌を遂げた。
文明は刻一刻と南郷を変えてゆく。その裏手にありながら、薄れゆく文化の象徴である氏神様は夏の祭りが恋しや恋しと、巨木が生い茂る中で一人静かな時間を刻んでおられる。
「氏子よ、氏子、どこへゆく?」
それは氏子も分からない。それが南郷の、いや文明社会の現実であった。


第23話 次女と母、そして家族(4月1日)

前話に引き続き次女との二人旅について書こうとしている。
長女と次女の三歳七ヶ月に至るまでの大きな違いは、母親との密着度にある。
次女はヒルシュスプルング病という厄介な病気を持って生まれたために生後一年間は入退院を繰り返した。嫁は付き添い入院というかたちで病院に泊り込むものだから必然的に長女と私は二人で過ごす時間が長くなり、嫁と長女は適度な距離を持つに至った。そのため長女においては母親と離れる事に慣れており、且つ私と二人でどこかへ行くというのは決して珍しいものではなく、
「二人旅に出るぞ!」
そう誘った時、ノリノリで付いてきた。
が…、次女は違う。前述のように入退院を繰り返しながら母親とベッタリだったし、その後、健康体になってからも母親と離れた経験が少ない。更に長女は早生まれ(三月)であるため三歳七ヶ月の時点で幼稚園生だったが、次女は八月生まれであり、三歳七ヶ月という時点で三年保育の入園規定に達していない。
つまり、この旅行というのは次女において初めての本格的な母離れであった。
(泣くかな?)
その事を心配したが、すぐさま泣いた。
「バイバイ八恵ちゃん、元気でね」
「やだー、さみしいよー」
「元気がなくなったらポッケに元気玉を入れてるから、それを舐めなさい」
「ふえーん、やだよー、行きたくないよー」
家を出る時からこういった感じであり、長女の時とは出だしから違っていた。
ちなみに嫁が発した「元気玉」とは単なる飴の事であり、この前後、嫁の次女に対する優しさが尋常ではなかった。やはり嫁においても、初めて離れると思うと、いつもは叫び蹴飛ばし泣かせている次女でも可愛く思えて仕方がないのだろう。
「ままー、やだよー」
「八恵ちゃーん」
名残を惜しむ二人を引き離すべく、私は車を出した。
楽しいところに連れて行くというのに悪人のような扱いを受けて心外ではあったが、いつも喧嘩ばかりしている二人がこうしたやり取りをするのは何か良い気持ちで、たまには離れる事も必要だと思ったりした。
ちょっと脱線するが、嫁について触れたい。
私の嫁は妙に冷めているところがある。
感動する映画を見ても普通に寝るし、変なところで笑うし、基本的に怒った時を除いて熱くなるという事がないようだ。(怒る時は凄まじい。瞬間湯沸かし器といえる)
若い時分においても熱くなる典型であるスポーツを全くしておらず、小集団による活動といえば唯一吹奏楽部に属したらしいが、話を聞くに燃えた形跡がない。つまり嫁を形作る段階においての温度が低い。
私の知る嫁は22歳からである。
その頃の私は熱い絶頂であったが、嫁はこの頃から何となく冷めていた感がある。
情感豊かな付き合いたての頃、丸一週間会えぬ別れ際にあっても嫁はモジモジしたり振り返ったりもせず、普通にスタスタ歩き去り、何度も振り返った私が草葉の陰で泣いた事、一度や二度ではない。更に出会いや別れの演出という点において、私は様々な事を試みているが、鼻で笑われた、もしくは「何それ?」と言われてしまった事、これも一度や二度ではない。ブレーキランプを五回点滅させた後、
「何してるの? 早く行けば」
そう言われた時、私は仏門に身を投じる事さえ考えた。
あれから約八年、嫁の体温は下がる一方で、飄々とした感じに磨きがかかりつつある。長期に私と離れても心配ご無用だし、久々の再会を果たしても、
「あら、おかえり」
全く普通で、情感というか感情の起伏というか、そういったものが感じられない。
(こと子供においてはどうか?)
その点、夫に比べれば多少の熱は感じられるが、それとて私のイメージには遠い。何か目の前の生活を均している感じがあり、感動屋の私からすれば、
(もうちょっと何かこうさー、盛り上がれよー!)
そう思っているのであるが、それは感動屋の目線であって、人様から見れば「普通の情感を持った人」という分類に入るのかもしれない。
が…。
やはりその嫁においても一日と離れたことがない次女と丸三日も離れる事は何か考えるところがあるらしく、「ポッケに入っているのは寂しい時に舐める元気玉だよ」という演出を施したようだ。
ちなみにこの元気玉、
「さみしいよー、おっとー、がまんできんよー」
阿蘇を出る前に封印が解かれ、すぐさま次女の口に入った。嫁もその事を想定していたのかどうか、計五個用意していたが、それらは初日の船の中で全て消費されてしまった。
その後の次女であるが、船に乗ってからは特に「寂しい」を発する事なく、至ってお利口さんであった。が、大阪に着き、高野山へ入った頃から暴れ始め、その具合については前の話で書いた。
その後、伯母の家に泊まり、甘いものをモリモリご馳走になり、伯母と一緒に風呂へ入り、バタンキューで眠るというベストな流れを見せ付けてくれたが、その翌日、反動がきた。
前の話でも書いたが、翌日はジンベイザメがいる海遊館へ出かけた。予定だとユニバーサルスタジオジャパンへ行く予定であったが、パンフレットを見せても興味を示さず、更には「こわい」と言い出したため水族館に変更した。
個人的にはこういったところは好きでなく、せっかく大阪まで来たのだから山崎の天王山周辺を散策したり、楠木正成が守りぬいた千早城に行きたかったのであるが、多少は娘の事を考え、今日という日を娘の目線に合わせた。
それにしてもこの日は憎たらしいほどの晴天、空が眩しい。
この空なのに、嗚呼、この空なのにあえて室内の水族館へ入らねばならいというだけでも腹が立つのに、入った瞬間、更にギャフンとなった。
「やだー、さかなきらいー、かえるー」
二千円のチケットを買い、水族館に入り、「さあ、楽しむぞ」という段階で魚が嫌いと暴れ始めた。水族館で魚が嫌いと言われては、東京でコンクリートが嫌いと言っているようなもので逃げ場がない。
「ラッコもいるぞ、ペンギンもいるぞ、クラゲもいるぞ、魚じゃないぞー」
凄まじい人ごみの中、ビューポイントを確保し、娘をそこへ押し込むかたちで見せてやるのだが、
「おもしろくないー、おっかーしんぱいだよー、おなかすいたー」
暴れるばかりで楽しもうとしない。仕方がないので休憩場所でお菓子を食わせた。腹さえ満たしてやれば良い方向へ向かうと思ったが、その後も泣き続けるばかりで水槽を見ようともしない。
「何がお前は気に食わんとや?」
「しんぱいとよー、しんぱいとよー、おっかーがしんぱいとよー」
聞けば母親が自分の事を心配している、その事がたまらなく寂しいらしい。
「じゃあ、電話してオッカーと話したら水族館を楽しむや?」
「うん、だいじょうぶ」
母親の声を聞けば元気が出ると言うので電話をかけた。すると、
「さみしいよー、うん、うん、やだー、かえるよー、やだよー」
何やら寂しさに拍車がかかったらしく、電話を切った後は七転八倒転げ回る始末であった。
この翌日、嫁から話を聞くに、
「泣いてる八恵ちゃん、とっても可愛かった、うん、あの電話の八恵ちゃん、とっても可愛かった、うんうん」
しみじみそんな事を言っていたが、こちらはそれどころではない。春休みの人が多い水族館でゴロゴロ転げ回りながら「さびしいよー」を連発するのである。
そこにジンベイザメがいようが、エイがいようが、イルカがいようが、カップルがいようがお構いなし。暴れまくってどうしようもないので逃げるように水族館を後にした。で、その後、お隣のサントリーミュージアムで世界最大のスクリーンによる飛び出す映画がやっているという事だったので、
(映画なら静かに見るだろう)
その思いで、映画を見に行った。恐竜の話と海洋生物の話、その二本が別会場でやっており、恐竜は怖くて泣く危険性があったので海洋生物の話を見に行った。亀とかクラゲとか鯨とか、とにかく海で生きる生物たちのドキュメンタリーで怖い要素のカケラもない。
(これなら大丈夫!)
確信を持って飛び出すメガネを装着したが、それでも泣いた。
まず、予告編で例の恐竜が出た。それで泣いた。画面が大きい。更に恐竜。極めつけは初めての3Dメガネによる飛び出す映像に仰け反るように驚いた。凄まじく泣いた。以降、泣き続け、そのまま寝た。
(何をしに大阪まで来たのか?)
まさにその事で、雨で高野山が楽しめず、せめて子供にだけには楽しんでもらおうと海遊館まで来たのにこの調子。疲労だけが蓄積され、虚しくなった。
映画館を出ると天気は更にいい感じになっており、このまま寝てる娘を抱いて歴史散策に出ようという気になってきた。
(せめて俺だけでも楽しまねば!)
その事であったが、出たところの広場で大道芸がやっており、その音で次女が目覚めた。
大道芸の内容はジャグリングであったが、目覚めた次女はそれに食いついた。長い時間座り込み、二人目のパフォーマンスも見続けた。
「おっとー、これ、たのしいねぇ、むふふ」
毎日一緒にいるようで娘のツボを全く心得ていない自分を恥じたものの、何となく救われた気がした。
帰りの船に乗るまでには約四時間を消費しなければならない。いつもは時間がなくてアタフタしているが、こうなると時間の消費というのは難しいもので、飯を食い、酒を飲み、子供を遊ばせ、それでも二時間しか経っていないという感じで、大いに持て余した。
帰りの船も大変であった。
春休みの入りっぱなという事もあって、二等席は満席であり、更に子供の席はなく端っこで寄り添うようにして寝た。娘に害が及ばぬよう娘を壁側にし、私は娘を守るべく毛深いオッサンの隣で寝たが、そのオッサン、モゾモゾ動きながら私に引っ付いてくる。これには閉口した。が…、オッサンにしてもギュウギュウで逃げ場がなく、結局は引っ付いて寝ざるを得なかった。
九州に着いてからも娘は何か機嫌が悪かった。
「おっかー、しんぱいしよるよー」
その聞き飽きた譫言を繰り返すばかりで、どうも調子が出ない。更に大阪でお好み焼きを食った際、鉄板をモロに触って火傷したのであるが、それがここへ来て熱を帯びてきたらしく、たまらなく痛いらしい。
どうにかしてやりたがどうしようもない。次女は本当によく泣いてくれた。
家に帰り着いた時、嫁は三女と二人で庭にいた。
私たちの車を見付けるや、
「八恵ちゃーん!」
嫁は駆け寄ってきたが、次女はどうも恥ずかしいらしく、何やらモジモジしている。今の今まで「しんぱいだよー」と泣いていたくせに、実物を見るとどうしたらいいのか分からなくなってしまったらしい。こういうのをハニカミというのだろう。
「やっぱ、久しぶりだと可愛いー!」
嫁はそう言っていたが、その三十分後には、
「お前なんて帰ってこんでいいっ! 泣くなっ! 出て行け!」
オヤツ欲しさに泣く次女に、そう怒鳴っていた。
また長女は私たちが帰った時、保育園にある。保育園から帰ってくるや否や、
「八恵ちゃーん!」
三日ぶりの再会を喜び抱きついたそうだが、その十分後にはオモチャを取った取られたで殴り合いの喧嘩を始めている。
いつもそこにあるものが、ふとなくなると妙な寂しさを覚える。その事は旅行中の次女において顕著であったし、長女や嫁においても相当なものがあったであろう。
そのなくなったものがいつもの場所に戻り、安堵し、そして喜ぶ瞬間がどれだけ続き、その後にどういう影響を与えるか、私は興味を持って眺めた。
喜びはほんの一瞬であった。ほんの一瞬、弾けるような瞬間を皆が見せ、そしてすぐ日常に戻った。
そんなものである。
そんなものであるが、その前段、皆で感じた三日間が発見であり、家族を感じる貴重な時間ではなかったか。
いつもいる次女がいない、その事で次女を含めた家族全員が違和感を感じた。その事がありふれた日常を知るキッカケであり、その日常のありがたさである。
次に三女が三歳七ヶ月を迎えるまでには二年弱の時間がある。嫁から徐々に離しておかねば次も大変だと今から思っているが、三女に関してはまだ乳離れもできていない。
「そうそう、オットーがおらんで寂しかったろ?」
オマケのようにその事を問うてみたところ長女は大きな声で「寂しかった」と言ってくれた。嫁に至っては大きな背中をクルリと見せ、急ぎ足で立ち去っていった。
(さてはハニカんでいるな?)
前向きにそう捉えたが…。さて、どうだろう…。
これを書いている今、嫁子供が里帰りしていて家はシーンと静まり返っている。
「お前たち、ちょっと静かにせいっ! テレビが聞こえん!」
叫ぶ日常であるが、今日は小さな音でもハッキリ聞こえる。
家族とはそう、かえがたいものである。