第30話 釈迦、キリスト、そして道子(6月27日)

「私は何も考えない」
嫁・道子は常々自分の事をそう言っている。そんな事はあるまいと常日頃から旺盛な興味を持ち、じっくり嫁を眺めているが、恐ろしい事に本当に何も考えてない風向きがある。
ある古老はこう言った。
「死ぬ間際になって世ん中んこつがちぃった分かってきた。ばってん一つだけ最初から最後まで分からんこつのある。そりゃウチの婆さん、つまりゃぁ女心たい」
それを聞いた婆さん、横でケラケラ笑いつつ、
「男は女にからかわれて一生ば終えるったい。男は馬鹿正直ばってん、女は生まれた時から嘘泣きばしぃ、そん裏じゃ舌ば出して笑いよる」
金歯光らせそう言ったが、なるほどウチの嫁も私を馬鹿にする事この上ない。傍目には立てるように敬うように見せかけて、真実はそこらの犬っころと同じく、
「餌さえやっときゃ死なんでしょ」
そういう扱いが随所に見られる。悲しいが、これこそ夫婦円満の秘訣らしく、一つだけ注文するなら私が気付かぬよう上手に転がして頂きたい。
結婚して早九年が経つ。嫁の株はこれ以上ないほど上がっており、とどまるところを知らない。どこへ行っても、
「あたん嫁はよか!」
嫁を見た事がない人まで太鼓判を押す。それは四度の引越しを短期に行い、それに嫁が文句を言いながらも付いてきた事、そして私の挙動が亭主関白気味である事、更に私の性格が勝手気ままである事に因るかもしれない。それらを受けて人様の想像は遥か昔にいたニッポンの我慢強い女性を描き、「よかねぇ」と、しみじみ言わせてしまうのかもしれないが、それは的を得ていない。
嫁は超近代的で、勝手気ままという点においては私を遥かに凌駕する。ただ嫁自身が宣言するように、これといった思想がない。何も考えていない。この点は凄い。こんな特技を持つ女、いや人間は、私の人生において見た事がないし、今後も現れる事はないだろう。自我を捨てるという事は宗教家においては究極の目的であり、それだけに極めて難しい。自我は幼児期に自覚され、青年期に確立するというが、こと嫁に至っては自覚こそあっても確立しなかったのではないか。
私と嫁は頻繁に喧嘩をする。三日に一度はやっているが、大抵は言い争ってプンッ、その後、数時間経ち、お互い忘れて仲直りというパターンである。が・・・、たまには芯から怒る事もある。明らかに嫁に非があると確信していて、これを放置しては今後の夫婦仲に亀裂の生じる恐れがある時で、そういう時は理系の常で物事の顛末を整理し、順を追って述べ、一つ一つ嫁の思いと私の思いを照合する。この作業において、私は必死である。どう考えても非は嫁にあると確信している案件であり、嫁は私が持っている合否判定の基準を意に介さぬどころか、平気で踏んずけたわけである。
「ここはキチッとお互いの方向性を合わせとかんと家庭が成り立たんぞっ!」
熱を持って説明し、
「さあ、どうだ?」
嫁に意見を求めた。するとビックリ熟睡中であった。当然、焦り呆れて激しく起こし、次いで眠った真意を問うた。するとこれまたビックリ、見事な回答を得た。
「議論が始まると眠ってしまう体質なんだよー」
嫁においては全てが他人事に感じられ、段々とその世界が遠くなってゆくらしい。また嫁によると議論中に寝た経験は一度だけではなく、過去に何度かあるらしい。それ以来、論じねばならないような環境を毛嫌いするようになったらしく、嫁はインテリっぽい人が来ると我先に逃げる。とにかく物事を理屈で考えようとすると眠くなるというのが嫁の出した結論で、以後、私は言いたい事を文章で示すようにしているが、それも読んでるようで眠っていて、さり気なく捨てている。
また日頃の作業に関し、繰り返しのルーチンワークは苦にならないそうな。掃除、洗濯、子育てと、家事をソツなくやっている嫁であるが、そのルーチンから外れる仕事や飛び込みの仕事は全くやらない。言ってもやらない。怒るとやる。
嫁が言うに「頭を使いそうな行動全てが嫌」らしく、ルーチンワークは何も考えずにできるから苦にならない、リズムこそ仕事の骨頂らしい。
私などはルーチンワークを極度に嫌う癖があり、その点、夫婦のバランスが取れているのかもしれぬが、全くもって理解に苦しむ。その事を言うと、嫁は「血の問題だ、諦めろ」と私を突き放した。
嫁の言う血とは母、つまりは義母の事を言っている。確かに義母は嫁と似ている。凄いタイミングで寝る。こんな事があった。
釣り馬鹿日誌がテレビでやっており、私と義母、それに嫁、長女でそれを見ていた。義母は釣り馬鹿日誌が好きらしい。その事を聞き、
「いやぁ、僕も好きなんですよ。浜ちゃん、いいっすよねぇ」
そう言って義母を見たら机に突っ伏し眠っていた。その間、凡そ三秒。手には煎餅が握られていた。
こんな事もある。義母は雨上がりの滝のように水道全開で皿を洗う。仕事は早いが終わった後は服がビッショリ濡れており、床も濡れている。異様な光景だったので、その事を指摘すると、
「ジャーッとしないと洗った気がしないだわ」
そういう回答を得た。また、義母の早朝における作業順序も決まっていて、それが実に荒々しい。雨戸をバーンと開け、ハタキでそこらじゅうをバンバン叩き、何か恨みでもあるかのように掃除機をガンガン壁にぶち当てて掃除をする。初めて嫁の実家に泊まった日、あまりの騒動に布団を飛び出し、嫁にその驚きを伝えたが、嫁にとっては単なる朝の風物である。特に気にするはずもなく、必然、嫁もその流れを受け継いだ。
この二人を考察するに、二人は擬音語の作業を愛している。上の例でいくと、ジャーッ、バーン、バンバン、ガンガン、つまり勢いでこなす仕事が好きで、確かにこの視点からいくと、私が求めている仕事というのは流れを阻害する。
嫁はどうあっても今の自分を「血の影響」で片付けたいらしい。嫁の希望により、更に共通点を模索する。
嫁は言う。
「私、決断する事が大っ嫌い」
で、それは義母も言ってた。人が決めた事をアーダコーダ言うのは好きだが、「お前が決めろ」と言われたら裸足で逃げ出すらしく、娘の名付けに関しても二人は案を出さないくせに、私の案をケチョンケチョンにけなし、結局最後は私の出した膨大な案から二人が選んだ。
「物事は自分で決めんと面白くなかろう?」
そう問うたところ、決めるには頭を使わねばならないし責任が伴う。それが嫌らしく、人が決めた事に茶々を入れる作業は感覚でモノが言え、更に責任を伴わないところが魅力らしい。
何とも無気力な論ではあるが、論理でなく感覚に重点を置き、全てを他人事、つまりは客観視するところに「私の生き様がある」と言われては何も言い返せない。こちら論理派としては話し合おうにも話し合えないから、勝手気ままに突き進み、進んだ後に茶々を入れられる以外、歩みようがないではないか。事実、そのカタチは「ウチのカタチ」として定着してきた。
私はこれを書きながら釈迦やキリストが達した無我の境地と嫁が胸を張る「考えない境地」の違いを考えてみた。無我の境地に達するまで偉大な先人はありとあらゆる事を考え、結論としてその域に達している。嫁は何も考えず、ただ考える事が面倒臭くて偶然その域に達してしまった。前者も後者も自我を捨てるという点、結論は同じであるが、その経過が全く違い、嫁は経過がないだけにその中身は無が広がるばかりで人様に説明ができない。ゆえ、その思想は広がりようがなく、「私は何も考えない」を宣言するばかりになってしまう。
が、ひるがえって考えるに釈迦やキリストの領域に達すのは一兆人に一人くらいではなかろうか。その点、様々な知識人がもがき苦しみ、結局はその頂に届かず無念の死を遂げている。あるいは少々の財を築き、子孫を混乱させ、地球を汚し消えている。であれば思想をかなぐり捨て、自我の確立を放棄し、良縁と時代の流れに身を任せるのも悪くないと思ったりするが、自我の確立を放棄するのは容易ではない。普通に生きれば「俺が」「私が」どうしても言いたくなるのは人の世の常ではないか。
この点、私は幸運であった。私自身、自我の色、気ままの色が濃いだけに両手両足二人分の失恋をした。その挙句、万人に一人いるかいないか、無自我の伴侶を得た。
「私は何も考えない、それが私」
この宣言、私にとって意味不明だったが、それによって自由と責任を得た。以後、嫁の株は寛容という事で上がり、私の株は気ままという事で下がり続けた。この傾向が今後も続く事に疑いの余地はなく、もし仮に私が何か大きな事を成したとしても、それは嫁の手柄となるだろう。
嫁は今日もヨダレを垂らして座椅子で寝ている。何度も「風邪をひくから布団で寝ろ」と言っているが聞きゃしない。そもそも聞く気がなく、私の存在自体を小馬鹿にしているから、右から左へ受け流している。
仕事も全く手伝わない。次女が保育園に行き始め、日中そこそこ暇になったらしい。やる仕事はタップリある。経理に加工、購買に営業、
「暇なら手伝ってくれよ」
何度も言うが、
「それはそれ、これはこれ」
意味が分からない。嫁の考えないポリシーからすれば、頭を使いそうな作業は触れたくない寄りたくない見たくもないという事だろう。現に、
「今は美菜ちゃん(三女)がいるから奥様会って逃げ道があるけど、これが保育園に行きだしたら逃げ場がないよぉー! ああ、やだよー! 私はパートに出て、のんびり時間使って、社内旅行とか行って、勝手気ままにやるつもりだったのにー!」
そのような事を言っており、手伝う気は微塵もない。
「考える事はアンタに任せた、後はアンタのやる事に茶々入れるから私に仕事を振るんじゃない!」
そういう事だろうが、さすが我嫁、そこらへんが徹底している。
嫁は今日も奥様会、私は一人勝手なモノづくり。夫婦のカタチは色々だが、こういうカタチもある。
ちなみに考えないポリシーの最もたる恩恵はポジティブなところにある。年収が減り、生活に窮しても笑顔でいる。考えないから何も知らない。知っても考えない。
世の中それでじゅうぶん回る。ネガティブでなければ大抵は生きられるという事だろう。
嫁は無に帰すという点においてのみ、先天的であるぶん釈迦やキリストを何となく超えている。この並びでいけば悟りを開いた一人とも言え、今後の展開が予想できない恐ろしさがある。
古老が言った「嫁は分からん」、その言葉、今の私には限りなく重い。


第29話 陰と陽(6月23日)

私のいる場所を河陽という。明治12年まで河陽村という一つの行政区だったが、長野村、下野村と合併し、長陽村になり、その後、南阿蘇村になった。河陽は南郷谷の西側になる。白川を境に河陽村、河陰村と分けられている。中国地方と同じく、日照時間の関係からそのように分けられていると思うが真相はよく分からない。陰陽五行説や陰陽説との関係も疑わしい。古い時代に流行し、今また風水や占いとして流行の兆しがあるそれは陰と陽の関係にうるさい。これらも加味すれば、陰は女性的、陽は男性的であり、様々な仮説をそこから展開する事はできる。が、こじつけになってしまう感は否めない。よって日照時間による区分けと決めつける。現に河陰は外輪山によって日光が遮断され、早い時間から日陰になる。中国地方の山陰、山陽においても日照時間の差は歴然である。
陰と陽、どちらがどうだという事はない。ないが、時間の経過を遠目に見るだけで、その傾向は否応なしに見えてくる。
人間の質にも陰と陽は影響するらしい。陽は楽天家を育て上げ、陰は厭世家を育てるそうな。
明治維新という悲壮な革命を支えたのは陰によるところが大きい。吉田松陰は「陰」の字を好んで付けているが、つまりはそういう人が陰を愛し、ああいう人が陽を愛すのだろう。どちらもいる。
阿蘇における河陰と河陽についても陽が栄えた。鉄道は陽を通り、道も陽を通った。だが近年、俵山トンネルが開通し、河陰も賑わいを見せ始めた。何もなかった河陰に洒落た飲食店が出没し、地価は飛ぶ鳥を落とす勢いで跳ね上がり、ついには河陽を抜きそうな感じである。この傾向は今後も続くと思われ、山中は別荘地、道沿いは商業地になり、河陰の風景は一変するだろうと思われる。
陰と陽、つまりはコントラストである。陽の存在を認識するために陰があり、陰そのものも陽あってこそ目に触れる機会を持つ。
阿蘇谷と南郷谷も同じようなコントラストを持つ。古くから阿蘇谷は陽、南郷谷は陰であった。南郷谷は阿蘇谷に従いながら生きてきた歴史があり、その点、何も変わる事はなかったが、近年、南郷谷の観光地としての価値は上がる一方で、それのみにおいては阿蘇谷を超えそうな感がある。
地元の古老や民俗学者に言わせると阿蘇谷の景色は男性的らしい。雄大だが優しさに欠けるところがあるそうで、南郷谷は盆地こそ狭いが、その牧歌的風景には優しさが見られるそうな。
私は阿蘇谷から見た根子岳の具合に惚れ込んでいる。それを会社のロゴにしているくらいなので、男性的な荒々しい景色が好きなのだろうが、最近になって夜峰山のペロンとした具合も愛着が湧いてきた。つまり私は見れば見るほど好きになるタイプで、単に惚れっぽいのかもしれない。
陰と陽について何となく考えている。
人間はモノの価値を把握するために必ず対照物を置く必要があるようだ。「これが良い」と言ったところで比較するモノがなければその良さを量る事はできない。価値の把握ができなければ人様に紹介する事ができないし、ましてや売る事はできない。
河陰と河陽、山陰と山陽、何を考えたのか知らぬが、そういった人間的意図もあったのではないか。
世の中にある、ありとあらゆるモノに対し人間は比較、検討、評価を繰り返す。モノだけじゃなく、人間に対しても自らの知る平均と比較し、一定の評価をしてしまう。
つい先日、私は一風変わった人物と会った。歳は私の一つ上で、同じ部落に住んでいるのだが、一匹狼で農業をされている。福岡出身で大学は東京に出、慶応を卒業したらしい。卒業後、色々なところをフラフラし、「地に足がつく商売をしたい」と南阿蘇へ越してきたそうな。
軽く経歴を聞くだけでも、その変わりっぷりは半端じゃない。ある歴史散策会へ出席した時、その人の話を聞き、会いたいと思ったが、会って話を聞くと、なるほど変わっていた。まず農家というものは農協を通して物販を行うのが普通であるが、彼はそのルートを全く利用していない。契約してくれた人へ野菜の詰め合わせを定期的に送るのだそうな。
生産に関するポリシーも固い。少量多品種栽培がモットーだそうで、一種類をたくさん作ってしまうと土が泣いてしまうらしい。その理屈は野菜が吸い上げる養分というのは決まっていて、色々植えてさえいれば偏りなく適度な養分を吸い上げるから土のバランスが崩れず、土に与える肥料も鶏糞などの「当たり前のもの」で済むらしい。当たり前じゃない肥料が化学肥料で、それを必要とする土には養分の偏りがあるのだそうな。
彼の食生活も凄い。月の食費が調味料込み三千円。肉は全く買わないらしく、完全無欠のベジタリアン。そのボディーは、いかにもそういう生活をしている人らしく、脂肪のカケラもない。先日ウチに来てもらったが、子供たちが付けた名前は「キンニクマン」であった。
で、その変わっている彼に私は衝撃的な指摘を受けた。
「福山さん、ほんっとに、変わっとりますな」
人間はモノの価値を判断するため、モノの変化に気付くため、自らが作り上げた陰と陽と中間点を持っている。自分を陰とするか陽とするかは人の勝手だが、大抵は自分をその中間とし、物事を陰と陽に分類する。彼はその中間点をどこに据えているのか。
「変わってる」という認識の後、彼の心の裁判所において、私という人間が陰に分類されたのか、陽に分類されたのか、それを知る術はないが、とにかく彼の中間値から大きく外れてしまった事は間違いない。冷静に考えれば、私も彼の事を「変わった人物」だと思っており、中間値が合うはずもなく、彼の指摘は私の指摘でもある。
南阿蘇へ来て思ったのだが、本当に変わっている人が多い。特に芸術家と呼ばれる人は余人の常識を凌駕するのが仕事であって、変人である事は必須項目である。で、それを職業とされている方は、なるほど変人である。
文明の大半を占めている組織活動において変人は無用の長物とされる。この組織という厄介な代物においてはコントラストを固定しておく必要がある。中間値は元より陰と陽の方向性も示す必要があり、それよって得る結末も権力、もしくは俸給としてハッキリ示す必要がある。
「普通って何だ、俺は俺!」
声高に言い、自らの道を模索し、組織を離れ行動している人が阿蘇には何と多い事か。ただ、淘汰される人が多い事も事実である。文明から離れた場所に憧れを抱き、文明から逃げてきた人は間違いなく文明に戻される。
文明から離れた場所でそれなりの人生を送るためには「好き」に勝るものはない。それも並大抵の好きではなく、邪念のない愛へ昇華する必要がある。文化というものは入口で動機を問い、その後、多くの熱量を吸い上げる事で成り立っている。極めて厄介ではあるが人生の伴侶と同じようなもので、それなしでは生きてゆけなくなる。
文明、つまりはカネであるが、これを完全に切り離すのは不可能に近い。これから離れるという事は、電気、通信、流通、全てから隔離される事に他ならない。もしもそういう人がいるのなら是非とも会いたいと思っているが、そういう人は孤独を愛し、山から下りて来ないだろう。また、話したとしても根本のズレは如何ともし難く、「あなたの知らない世界」を見るだけで、得るところなく終わってしまうに違いない。つまり感性というモノの形状は球体をしていて、ズレていれば見えるが、裏側は見えない。そういうものだろう。
陰陽の考察は地名から心を辿り、今に達した。
先人は太陽に憧れた。無邪気に太陽に憧れ、その地名に陰と陽を付けた。人々も太陽に憧れ、陰と陽はそれぞれの個性を持って、それぞれにそれぞれの道を辿った。どっちがいい、どっちが悪いは誰も知らぬ。それは人それぞれが判断すべきであって、人を見るべきではない。
近所の彼が私の事を「変わってる」と言った。私も彼を「変わってる」と思った。あそこも、あそこも変わってると思い、それぞれが勝手な方向に突き進めば、それぞれの価値観で幸せな一生を送れるはずだ。人を見るから人の陰陽を真似るから、「比べて不幸」という不幸の連鎖に陥ってしまう。
大衆の陰陽は時代に合わせて引っくり返る。しかし、それに合わせていては短い人生楽しめまい。
人生の要諦は好きな事を本気でやる、人を見ない、邪魔しない、後世を汚さない、これに尽きる。
ゆき過ぎる風のように颯爽と生き、朽ちては土を肥やしたい。
陰陽繰り返し消えてゆく身を次代の子が見ている。


第28話 道について(5月28日)

手元に明治35年の地図がある。地元の教育委員会に頂いたもので、縮尺は1/50000、阿蘇南郷谷の地図である。
今、私のマイブームはこれに載っている古道を探す事で、現在の地図とこの地図を照らし合わせ、事前に検討を重ねた上で現地を走っている。走る手段はカブ50である。道路交通法に引っかかるかもしれないが、スピードメーターのところにバインダーを括り付け、地図を見ながら走り、地蔵や石碑、神社仏閣、風景などを書き込みながら超低速にて田舎道を疾駆している。首にはカメラをぶら下げて格好はジャージ、怪しい事は自ら分かっているが、地元の人から見ても怪しいらしく、すっかり痛い目線に慣れてしまった。昨日は清水峠という外輪山を越える峠を走ったのだが、その途中の山寺で、
「誰じゃっ! 動くなっ! 何もんだっ!」
棒を持った爺様に怒鳴られてしまった。それぐらい怪しく目立つらしい。
私が道に惹かれ始めたのは嫁と付き合い始めた頃だから約十年前である。当時、埼玉は入間というところに住んでおり、そこを中心に飯能秩父方面、狭山湖周辺をよく攻めた。その頃から「道の味」というものを考え始め、何となく旅のコースに古道を選ぶようになった。
旅は十八の頃から始めている。高校三年の時、熊本から大阪まで自転車の旅に出た。それから旅にハマり、九州一周、四国一周、日本縦断をした。いずれも自転車であるが、一般国道は危ない・汚れる・気分が悪い、おまけに思い出が残らないという事に気付き、何となくコースとして裏道を選び始めた。裏道には歴史が点在する。そうなると歴史に興味を持ち始めた。歴史に興味を持ち始めると古道を歩きたくなる。そういう運びで次女が生まれる時、肥後から江戸まで参勤交代の道を歩いた。以後、その嗜好を保ったまま今日に至り、冒頭のような事を趣味でやっている。
昨日、人通りが全くない清水峠の頂上で、
(なぜ、こんな事をしてるのか? 何が楽しいのか?)
その事を考えてみた。やらねばならない仕事もあり、翌日の出張、その準備もしなければならない。が、ムズムズし、何となく飛び出した。長い時間考えた。が、よく分からない。
「何となく」
その一言に尽きた。写真家であれば自然の変調を敏感に捉え、すぐさま山に登る。近所にプロの写真家が多いため、思わぬ場所で近所の人と出くわした事が何度かある。阿蘇には生物学者も多く、植物や鳥を見付けるために出て来られた方ともよく会う。林業や農業の方も目的を持って山を登られる。皆、人が寄らないそこへゆくためには何か目的を持っており、私だけが漠然としていた。
「古い道が好きで調べてます」
目的を問われそう応えたが、果たしてそれが本当の目的だろうか。
登山家は山へ登る理由を「そこに山があるから」と言う。更なる高見を目指す事が冒険家には必須らしいが、私にその匂いは薄い。現にバイクで登っており、基本的に辛い事が嫌いである。この証拠として、学生時代ホッピングによる九州横断を試みたが三日目で断念し、それからホッピングに触れていない。
(はて、なぜだろう?)
よく分からないうちに下山し、峠道は市下という神社へ出た。この辺りを南阿蘇村両併という。鳥居の中央・神額には「八面社」と書かれており、神社名(市下)と違う。地元の呼称と神社名が違うのはよくある事で、八面社とは地元の呼び名であろうが根子岳好きの私としては何となく気になる。
根子岳の別名は七面山で、どこから見ても同じに見えるというのがその由来で、この神社から根子岳はバッチリ見える。が、七面山という割には姿かたちを変えるのが根子岳であって、阿蘇谷の人と南郷谷の人が「どっちから見た根子岳がカッコいい」その事で喧嘩しているところを私は何度も見た。
で、この市下神社は周りに何もない。水田がこの神社を取り囲んでおり、四方八方どこからも良く見え、こんもりとした具合が何とも言えずカッコいい。その事を受け、「どこから見ても本当にカッコいい神社」という事で七面に一を足し、八面社と呼んだのではなかろうか。
そのような事を考えながら市下神社を眺めているとアッという間に時間が過ぎた。その時間の過ぎっぷりから、私はこういう考察が好きなのだと改めて感じたわけだが、この空想を得るためにはある程度リアルな考証がいる。見て感じるという手間暇のいる考証である。
古道には確かに人が歩いた歴史がある。そして確かな物語を長い時間展開した重みがある。この道が神社仏閣を繋ぎ、集落を繋ぎ、人間を繋ぎ、今を紡ぎ出している。
過去の空想は数学でいう証明みたいなもので、ある結論へ持ってゆくための数遊びである。やり方は無限にあるが結論が見えているという点、身近で面白く、短距離型の理数向きである。
ちなみに私はSFやファンタジーが書けない。文章学校時代SFにチャレンジした事があるが、小学生でも書かないような笑える駄作に仕上がった。SFには旺盛な空想力と長い目がいる。未来を想い、現状の材料から様々な結論を想定し、構想を進めねばならないが、先が見えないだけに話は突き進むだけ突き進んでどこかへ飛んでいってしまう可能性があり、私はモロにそうなった。
これは持論であるが、理系の人間は短期の目標を立て、それに邁進することによって、振り返れば大きな何かが成せるのではないか。従って見えるところに何かがないと動く気がせず、その点、過去のあれこれを模索するという作業は現在が見えているので動きやすく、すぐに実が出て飽きない。私の場合、田舎に引っ込むぐらい現社会に疑問を感じているのだが、その疑問に具体性はなく、行動指針すらぼんやりしている。「何となく」がここでもはびこっており、動いた後に考えるのが習慣となっていて、今は古道の分析に夢中という具合で先の事が見えていない。人生を何か宝探しのように使っていて、その事に全く疑問を抱いていないのだ。
文系はどうか。人間を二種に分けるというのはどうかと思うが、私の分類の中では、遥か先を語る人、語れる人、そして考古学をやれる人は文系と定義している。いずれもモヤモヤしていて先が長く、気が長い人でなければ大成しないであろう。また、文系理系のリトマス紙として、芸術、及び川端康成を提案したい。前者において抽象的な作風を好む人は文系の可能性が高い。後者においては寝転がってそれを読み、もしも眠らずに読み終えたなら間違いなく文系である。私は冒頭のページで寝た記録を持つ。
話が脱線したが、そういうわけで今の私は仕事そっちのけで古道の調査をしている。嫁は呆れ果てているが体がそれを求めているためやらねば病気になるだろう。そもそも仕事で得る「カネ」というものは良い社会や環境の上に乗っかっていて、土台が死ねば人は死ぬ。毎日のニュースがそれを証明していて、どうしてもカネの優先順位は低い。
更に脱線して考える。私は女性と付き合った経験が多くない。多くないにも関わらず「みちこ」と名が付く女性と三人も付き合った。美知子、美智子、道子と記憶しているが、最後に「道」と出会ったのは、何か大きな力が働いたのではなかろうか。
道子と結婚し、昨日で丸八年。道に惹かれた数年間と結婚生活がほぼ重なる。
今日から九年目、宝探しはまだまだ続く。見付かるかどうか、そもそも宝があるのかどうか、それすら分からぬが、宝があると信じ、掘り続けるところに生きる醍醐味があるのだろう。
固い道は掘れぬ。古い道は掘れる。何が出るやら大興奮である。


第27話 テレサテンとチンピラ(5月22日)

つい先日、テレビでテレサテンの特番がやっていて学生時代の事を思い出した。
私は熊本電波高専という元スパイ養成学校の出であるが、その寮の厳しさといったら半端じゃなかった。ほんの一例として寮の風呂を挙げるが、浴室へ入ると入口のところで正座をし、洗い場の順番を待たねばならない。一年と二年(高専は五年まである)の洗い場と湯船は決められていて、その数は少なく、大抵はこの段取りを踏まねばならない。洗い場を無事に通過できたとしても入浴前と入浴後には排水溝のチェックをせねばならず、これがまた面倒臭い。更に出てゆく時には軍隊染みた挨拶をしなければならないし、風呂一つをとってみても余計な風習に事欠かなかった。しかし、これを余計と言ってしまえば伝統と粛清を重んずる寮にあって身がもたない。私は口にこそ出した事はないが露骨に「無駄だ」と思っていたため、挨拶の声に気持ちが入ってない、またはチェックのやり方に心がこもってないという理由で、夜中の二時三時に叩き起こされ、竹刀で叩かれた事、一度や二度ではなく、だんだん風呂が嫌いになった。
青春前段(中学時代)の私はヤンチャな少年ではあったがヤンキーではなかった。
成績は中の下だったが、後半になって大きく伸びた。素行もいい。ある友人が私のカバンにエロ本を忍ばせた時、気付いた私は焦り焦った末、夜な夜な家を飛び出し、地中深くにそれを埋めた。青春の象徴・運動に関しても充実した時間を過ごしている。軟式テニス部に属しており、日が昇ると同時に朝練をし、夜も日が落ちるまで白球を追い、試合に負ければ草葉の陰でオイオイ泣いた。
このように非の打ちどころがない十代前半を送っており、表立った補導歴や前科もない。が・・・、電波高専という元スパイ養成学校の寮に入って少々ズレた。
この軍隊染みた風習は私をスネさせた。冒頭のように余計な風習が許せなかった私は先輩から見ると「生意気な若造」と映ったろう。通称「シンヨビ」と呼ばれる深夜の呼び出しに必ず出席し、必ず殴られ、そのお陰で人生の要諦である怒りを収束させるコツを得た。シンヨビの大半は酒席の延長上にあり、酔った余興に一年を呼ぶという流れになっているため、はっきり言って呼び出す理由はどうでもいい。最初は「挨拶が悪い」とか「掃除が手抜き」とか、もっともらしい理由を言われるが、次の瞬間には「お前の足音がむかつく」「息をするな」「目を閉じて生きよ」「屁をふるな」などなど、訳の分からぬ罵声が飛び交い始める。当然、数発は殴られないと場が収まらない。で、殴られた後、猛烈に効いてるフリをする、これが手短に切り上げるコツだ。ちょっとでも効いてないような素振りを見せると長期戦になってしまい本当に効いてくる。その点、私は演技派である上に経験豊富であったため、劇団四季も真っ青なほど大袈裟にブッ飛び、そして苦しんだ。主催者は酒が入っているため具合を見極める能力に欠けており、そういう場というものは大袈裟なぐらいが盛り上がるし気持ちがいい。
(うむうむ、今日はよく眠れる)
と、先方も納得する運びとなるのだ。
これは最も仲が良い友人に起こった話だが、彼は優等生であるためシンヨビに慣れていなかった。その彼が酒の余興で呼ばれ、大いに殴られた。彼は痛がる事を恥辱と思い、竹刀による痛打に耐えたわけだが、その事が原因で入院した。呼ぶ方も呼ばれる方も素人だった場合、事件になってしまうというのがシンヨビで、取り扱いには注意がいる。
私はこの寮にあって色々な先輩の手元を離れ、ヤンキーが集う一角に落ち着いた。ちょっぴり湿度が高く暗い、そして人の気配が夜しかしないアウトローの聖地。そこで変な先輩に可愛がってもらう運びとなるのであるが、今思い出しても凄い一角だった。
「掃除は適当でいい、週一でいい」
この軍隊寮にあって掃除が週一で良いというのは恐るべき指示であり、それを他でやろうものなら体が幾つあっても足りない。また一年生は身分的に奴隷と呼ばれ、食堂で飯を食う以外は何も食ってはならず、自販機も使ってはいけないというのが規律であったが、そういうのはどうでもいい、他の奴らに見付からぬよう勝手にやれという事だった。その代わり「言われた事(パシリ)はやれ」、「尾崎豊を聞け」「マッサージをしろ」というのがこの場所の規律であった。
ハッキリ言って居心地は良かった。パシリさえやれば細かい事は何も言われなかった。ただし、この地域の特色として、毎晩飲み会が続き、パシリは群を抜いてきつかった。消灯後、何も言わずとも酒とツマミを買いに行くのが私の日課であり、朝は先輩のバイクを隠しに行くのも重要な仕事の一つであった。(寮はバイク持込禁止で、裏の病院に隠し持つのが当時の常識だった)また、変わった人が多かったため、近くの女子寮に手紙を出しに行ったり、深夜、学校のプールで先輩が泳ぐ際の見張りをしたり、パチンコや風俗店の新装開店、その順番待ちをしたりと業務は多岐に渡ったが、いずれも微々たる小遣銭をくれ、人間の使い方に優しさが見えた。
このヤンキーエリア、夜とテスト期間中は寮生じゃない人でごった返した。どう見ても学生とは思えないチンピラの巣窟となり、タバコの煙と酒の臭いが夜遅くまで満ち溢れ、その代わり朝はいつまでも目覚めず、この地域から出席不足の留年者と退学者を多く排出した。
私が一年(16)の時、四年生(19)のチンピラ衆は本当に怖い存在であった。赤い色メガネをかけたHという人が特に強烈で、袋ラーメンを作るのも一年の立派な仕事であったが、この先輩は一晩で五袋も食べた。それだけでも怖かったが、この先輩は全ての挙動に威厳があり、隙がないのが怖かった。ちなみにこのHさんは「糸十」という技を編み出し、そして普及させた。というのも、当時はガスコンロを使うのに三分十円が必要であった。Hさんは十円玉に釣り糸を貼り付け、ガスが起動した後に十円玉を回収するという荒業を編み出し、その方法を「糸十」と名付け、私たち一年にやり方を徹底指導した。また、非常階段は使用禁止となっていたがHさんは非常階段のみを使用し、正面玄関を嫌った。アウトローのお手本みたいな人であった。
ある日、Hさんが学校から戻ってくると非常階段に鍵が掛けられていた。イラッとしたHさんは木工用ボンドを鍵穴に流し込み、
「付いて来い! 男の怒りを見せてやる!」
そう言うと鍵をかけたと思われる教官の車、その場所へ私を連れて行き、車の前で野グソをした。Hさん曰く、木工用ボンドは鍵を固くするが使用不能にはならないらしく、瞬間接着剤を用いないところが男の優しさらしい。また、車に悪戯をするのはクズのやる事で、ションベンをかけるのも下々のやる事らしい。
「男なら、大きな一本糞で語ろうではないか」
高倉健の大ファンというHさんは怒りの表現にも変なこだわりがあり、いちいち怖かった。
寮の中心的存在はラグビー部であった。私はこの集団に嫌われており、ラグビー部がシンヨビをする場合レギュラー出演していたが、そのラグビー部もHさんとその周辺、そしてこのヤンキーゾーンだけは足を踏み入れなかった。
ある夜、飲み会の最中に呼び出しがあり、慣れていた私は「ちょっと行ってきます」と、足取り軽く出て行こうとしたのであるが、Hさんは「行くな」と言い、何か私に買い付けを命じた。当然、私としてはHさんの命に従い、呼び出しに尻を向けて買い出しに行ったのであるが、それがラグビー部の怒りを買った。
私が買い出しから戻ってくるとガタイのいいラグビー部が押し寄せてきたのであるが、Hさんは丸無視して飲み続け、ついに立ち上がりラグビー部を連れてどこかへ行った。
ラグビー部はその日から私を呼ばなくなった。Hさんが何を言ったのかは分からないが、私にとって煩わしい行事の一つがなくなった事は非常にありがたい事で、Hさんにタバコをプレゼントしたような記憶がある。
秋、別れの季節だったと思うが、Hさんの涙を見た。掃除をすべく部屋に入るとHさんは超強面のチンピラ二人とテレサテンを聴いていた。Hさんの顔は嵐の後のようになっており、他二人も涙を堪えているのが見え見えだった。三人は強面を崩し、
「いいなぁ」
しみじみ、本当にしみじみそう言っていた。
「今日は何の集まりですか?」
問うてみると、彼女の一人がHさんの元を離れていったらしく、「テレサを聞いて立ち直ろう会」らしい。Hさんには両手の数だけ彼女がいて、その人たちがHさんの派手な生活を支えているというのは有名な話であったが、そのHさんでも悲しむのかと、その時の私は素っ頓狂な感想を持った。
それから数日後もHさんはテレサテンを聴いていた。テレサテンのどこがいいのか聞いてみると、
「テレサの歌は疲れていれば疲れているほど心に沁みる。お前にはまだ分からんだろうが俺には沁みる、沁み過ぎる、世の中は疲れる事が多過ぎる」
実に深い説明をしてくれた。そういえば、このチンピラゾーンには考える人・変な人が多かった。尾崎豊に没頭している空手家、村上春樹に没頭しているプレボーイ、詩が好きな強面、いずれもチンピラであるが、どの先輩も変な方向に深かった。Hさんはその総帥である。深さにかけては他を寄せ付けない。色々な事で虚勢を張らねばならず、守らねばならないもの、捨てねばならないもの、考えねばならないもの、様々なものに青春時代の膨大な熱量を放出し続け、少しばかり疲れたのかもしれない。
あれから十五年、久しぶりにテレサテンを聞くと何ともいえない良い気持ちになった。
そうそう、Hさんと離れて五年ほど経った後、私が社会人になった直後であるが、東京池袋でテレサテンの歌を久しぶりに聞いた。ピンク系の店の待合室だったように記憶しているが、またもチンピラが泣いていた。テレサテンの歌はどうやらチンピラに効くようで、歌詞が云々というよりもその声を聞いた瞬間にグッとくる何かがあるらしい。
嘘や建前が蔓延する世の中、テレサテンのクリアな歌声、そして真っ直ぐな歌詞は私たち一般人にもよく響く。虚勢を張ったチンピラもテレサの前では泣き崩れる。それが今頃になって何となく分かった気がする。
しばし時の流れに身をまかせ回想の余韻に浸りたい。
今は歴史の積み重ねにある。