第34話 デブ、羅漢寺へゆく(8月1日)

私は太っている。太っているが運動は好きで、自分で言うのも何だが運動神経は良く、モノやボールを使う競技は人並以上にこなす自信がある。
基礎体力はない。筋力・持久力、共に人並以下であり、特に後者が覚束ない。が、体力の限界に挑戦するのは好きだ。心と体はいつも矛盾を抱えていて、それは古道と出くわした瞬間、不意に爆発する。
宇佐神宮(前話参照)を後にした私は、今日の宿泊先である福岡県行橋市を目指していた。愛車のシビックで国道10号線を上っていると「耶馬溪羅漢寺」の看板が見えた。
耶馬溪羅漢寺といえば、熊本県に縁が深い。というのも、有名な水前寺公園、これは羅漢寺から来ている。細川家が国替えで肥後へ入る際、羅漢寺の住職を引っ張り、水前寺という寺を開かせた。今、水前寺という寺は跡形もなく、水前寺公園は出水神社の境内という事になっているが、元の流れは耶馬溪羅漢寺である。寺から始まり、細川家の休憩所・御茶屋になって、明治以降、細川藩主を祀る出水神社になり、現在の姿・水前寺公園に続いている。
耶馬溪羅漢寺から流れる水前寺公園の歴史を熊本県民はあまり知らない。古今和歌集の奥義が伝授がされたとか、東海道五十三次を模してあるとか、言われても理解に苦しむ点は有名だが、始まりが知られていないのはおかしい。チータ(水前寺清子)も知らないのではなかろうか。
これには宗教的・政治的理由があるように思われる。廃仏毀釈の名残、もしくは現在が神域である事、それらにより仏のカラーを打ち消そうとした人間がいるように思われるが、これは私の勝手な想像である。
よく分からぬが大衆の認知がどうも不自然であり、地名が浮いている。水前寺という名前が消えていないため、普通は誰かが疑問に思い、いずれは知れる。現に水前寺から遠い私が図書館で知り、こうして耶馬渓羅漢寺へ行こうとしている。「知ってもいいが由緒書きには書かないよ」という出水神社の方針であろうか。よく分からない。
耶馬溪羅漢寺は羅漢寺の総本山らしい。前話で総本山に触れたが、八幡様の総本山とはその規模が違うように思われる。五百羅漢で有名なところは世に多い。多いが八幡様四万社に比べれば、その数は知れたもので、八幡様をセブンイレブンのネットワークとするならば、羅漢様はエブリワン(九州で有名なコンビニ、焼きたてパンが美味い)程度だろう。
が…、耶馬溪羅漢寺の規模は宇佐神宮に負けず劣らず大きい。宇佐神宮は丘一面が境内だったが羅漢寺は山一つを所有しており、その山の名は羅漢山という。中腹に本堂があり、本堂・山頂へ続くリフトを装備している。リフトがあるくらいなので、その参道は山道である。本堂へゆくには少々キツい坂を登らねばならず、そこが宇佐神宮と決定的に違う。
老人の集団は迷う事なくリフトを使っていたが、そんなもの若い私が使うはずもない。左手のリフト乗り場には目もくれず、真っ直ぐ仁王門目指して歩き始めた。
時刻は午後三時であった。山深いところであるが、熱線は葉の隙間をぬって突き刺さり、熱風は山肌を転げ落ちてくる。致命的な事に私は太っている。人より多く熱線に刺され、人より多く熱風を吸い、その足は鈍った。
平地より高く膝を上げ、よいしょ、よいしょ、歩を進める度に汗が落ちた。赤いティーシャツなどは隅から隅まで汗を吸い、赤というより茶色のシャツと化していた。
正直辛い。が、心は常に躍っていた。参道の古き良き味が完全に私好みであった。
木々が覆いかぶさる石段を抜けると曼荼羅石という密教的石組があった。それから先は聖域で、殿様もこれを目印に籠を降りたらしい。道沿いには古い石仏が並んでいる。それぞれの石仏がそれぞれの歴史を体現していて、朽ち果てた感じが何ともいえない。
「こりゃたまらん!」
石仏の視線を背に受けて前へ前へ進むと、見事な仁王門があった。仁王門といえば阿吽の仁王像が左右にいるわけだが、覗いてみるとこれまた見事、味のある仁王様がドンと構えてらっしゃる。石造りで良い表情をされていて、しかも顔がでかい。五頭身くらいだろうか、巨顔の私には何となく親近感が持てる。見上げると見事な扁額があり、説明書きには足利義満より贈られたとある。何といっても造りがいい。1746年に修復されたものらしいが、岩壁に寄り添うそれは歴史の香気を否応なしに放っている。
しばし乾いた柱に寄り添い、至るところに自らの汗を残し、動物的マーキング作業を行った。続いて門下で寝転がった。が、いかんせん蚊が多い。蚊は汗と体温、そして二酸化炭素に寄ってくる。太り身は格好の的である。後ろ髪を引かれつつも逃げるように仁王門を去った。
上り坂は更に続く。さすがリフトの併走する参道である。行けば行くほど傾斜はきつくなり、岩壁に沿うように作られた参道はついに遮光物を寄せ付けない剥き出しの領域に突入した。太り身は七月後半のブ厚い熱線に串刺しにされた。血の代わりに阿蘇の湧水の如き大量の汗が至るところから噴き出し、スネ毛の部分に至ってはマングローブの森みたいになってしまった。靴下も、首に巻いているタオルも乾いている部分が全くない。体力の消耗と共に呼吸は荒くなり、次いで前傾姿勢になった。頭の中ではもっと前傾姿勢になるよう指示が出ているが、腹がつかえて物理的にそれ以上の前傾が困難で、押さえつけられた腹がかゆくなった。続いて首と腕、それに尻や手足もかゆくなった。
これぞまさに、デブの登山であった。
岩壁に寄り添う千体地蔵が左に見えた。それを朦朧とした状態で眺めつつ真っ直ぐ進むと、これまた見事な山門が現れた。羅漢寺は昭和十八年に燃えたらしいが、山門と仁王門は難を逃れたらしく、確かにこの二つは別格の味がある。山門は足利義満が建立したものらしい。岩壁と一心同体の佇まいはウットリを通り越し、失神してしまいそうになる見事さで、よく見ると柱の傷一つ一つからヨロシク哀愁が滲み出ている。
宇佐神宮には悪いが、私の好みとしては圧倒的に羅漢寺であった。
山門を抜けると無漏窟(むろくつ)という岩屋があった。この中に五百羅漢が安置されており、一つ一つの状態が素晴らしくいい。熊本で有名な五百羅漢は宮本武蔵がこもったといわれる雲巌禅寺(霊厳洞)だが、それは野外にあって風化が酷く、首がないのも多いため、見ていて何となく悲しくなる。が、こちらは岩屋内にあって直射日光を免れているため、気落ちせず眺める事ができる。休憩がてらジックリと、汗をポタポタ落としつつ、自分に似ている羅漢様を探した。
耶馬溪羅漢寺は本当に見所が多い。五百羅漢を出、本堂へ向かうと竜の石造がある。これの説明書きが面白い。キリシタン大名・大友宗麟が宇佐神宮同様、羅漢寺も焼き討とうと攻めてきたらしい。すると竜の目から光が発され、兵の力を奪い取ったそうな。それで焼き討ちが免れたのだという。
疲れた時にはこういった話がよく沁みる。本当は住職が土下座したか人質を出したか、真相はよく分からぬが、こういう風に後世に伝えようとした人間の心、その模様が私は好きだ。こういう説明書きを見ると、私と嫁の馴れ初めも神話っぽく子供たちに伝えたいと思ってしまう。
ある晩、不思議な物体が枕元に現れ、「汝、難波の外れにて巨神の種を拾うであろう。其の種、遠方にて育ち、大きな宮にて汝を食す。汝、その命に逆らい難し」そのお告げを聞く。汗だくで目覚めた私の前には冷めた顔をした嫁が立っていて、「汝の魂、ここにあり」消えそうな声で囁く。よく見ると嫁の手には私の心臓が動いている状態で握られていて、「さあ、どうする? どうします?」弄る調子で私に問うてくる。嫁は何度も何度も問いながら、私の心臓を徐々に握り潰そうとする。
「だからお父さんとお母さんは結婚したんだよ」って、子供たちに伝えたら、いずれ話が捻じ曲がり、百年後には全く違った神話として説明書きになってるんじゃないかと思うが、さて、どうだろう。やはり神話になるには始まりが神話っぽくなくては軌道に乗らない。
要らぬ空想をしつつ、もう一歩を踏み出すとそこは本堂であった。やはり燃え残った仁王門と山門に比べれば味に欠けるところはあるが、素晴らしい場所に建ってるため、何となく有難味を感じてしまう。
本堂は崖に食い込むかたちでそこにあった。二階建てで奥に短く横に長い造りで、釈迦如来像が中央にある。目線を本堂脇へ移すと長年そこで働いておられるのだろう、違和感を全く感じさせない置物のようなオバチャンが座っていて、
「お疲れさん、凄い汗やねぇ、水を飲んでいきぃ」
笑顔で湧水をすすめてくれた。喉はカラカラだったので、それをグビグビ飲んでいると、本堂二階と庭園へ行くのは有料だと申し訳なさそうに説明してくれた。
「入場料三百円を払おうが払うまいが、羅漢寺とても良いところぉ〜♪ はぁ〜、良いところぉ〜♪」
歌っているのか馬鹿にしているのかオバチャンの姿勢に商売っ気が微塵も感じられなかったので、迷う事なく三百円を払い奥へ進んだ。本堂の二階へは建物の左側から裏へ回ってゆかねばならない。岩壁と本堂に囲まれた道は暗くて狭い。裸電球が離れたところに点在しているが、ピッチが広過ぎ闇の世界と化している。足元が全く見えず手探りで進んでいると、ご丁寧にコウモリの声まで聞こえてきた。
「さすが耶馬溪羅漢寺、演出が凝ってる、やるではないか」
ニヤリ笑って幾つかの角を曲がると本堂二階に出た。二階には金色の釈迦如来像があり、釈迦如来の見つめる先には耶馬渓の山々が濃い緑を日に照らし、キラキラ輝いている。蚊も人もいないため、休憩するには打ってつけで、しばし横になった。
本堂を下りると木製の橋があった。橋を渡り、案内に沿って歩いてゆくと庭園へ出た。以前は様々な建物が建ち、賑わっていたのだろう。指月庵、水雲館、馬溪文庫というものがあったらしいが、火災で燃えてしまったらしく、今は石組だけが残る寂しい庭園になっていた。そこをゆるり散策した後、下山の途についた。
オバチャンが言うに下山は別ルートがオススメだという。老の坂という上級者向けコースと、ぐるり回ってゆく安心コースがあるらしい。老の坂は通る人が稀で、たまに足を滑らせ崖下に落ちて死ぬ人がいるらしく、危険極まりないが皇族も通った由緒ある道らしい。安心コースはオバチャンが常道としている整備された道で「普通はそっち」らしい。
皇族とオバチャン、危険と普通、比較するまでもない。老の坂を選んだ。
五百羅漢の方へ戻り、山門を出、千体地蔵の脇を抜け、細い道に入った。前へ進むと崖に沿った道があり、確かに危険極まりない。何となく足元が崩れそうで、崩れてしまえば一巻の終わり、崖下へサヨウナラである。私は高所恐怖症ではないが、長男ゆえの怖がりである。牛歩の歩みで緩々進み、たっぷり時間をかけて通過した。危険ゾーンを通過すると、今度は草ぼうぼうゾーンであった。人が通らないだけに除草が適当で、腰ぐらいまで雑草が伸びていた。汗だくなだけに雑草がベタベタ引っ付き、下りた時には見るも無残な姿になってしまった。
駐車場へ戻ると、売店のオバサンが冷たい麦茶をくれた。リフトは使わず歩いて登り、老の坂を下ってきた事を言うと、オバサンは私の体型を上から下まで舐めるように眺め、
「はぁー、そりゃ頑張りなさった、さぞや辛かったでしょう」
特に腹部を見ながらそう言った。ちょっとムッとしたので、
「私はこう見えて動けるんですよ。サムハンキンポーを目指してますから」
テンポ良く返すと、
「サムハンキンポーって燃えよデブゴン? プヒッ! プハー! フィフィフィッ!」
何が面白いのか、オバサン変な声を出しながら七転八倒の体で笑い始めた。
それからのオバサン、計四杯の麦茶をご馳走してくれたが、私が何か言う毎に「プヒッ」「ペヒッ」と、我慢している笑いを漏らし、ついにはどこかへ引っ込み、奥から恐ろしい声量の咽せた笑い声を届けてくれた。
ところで羅漢寺の近所に青の洞門がある。
昔、この近辺の観光といえば羅漢寺がメインであり、羅漢寺やその近辺の集落へゆくための道として洞門が掘られた。菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で有名になった洞門であるが、約250年前までは川沿いの崖道を通らねばならず、鎖に掴まり恐る恐る通ったらしい。当然、落下する旅人が後を絶たず、それを見ていた放浪の和尚・禅海さんがノミと槌と人を使い、三十年かけて342メートルの洞門を通した。
普通に羅漢寺へ行こうと思えば、まずこの洞門を通らねばならず、羅漢寺参拝と青の洞門はセットになる。当然、私もオマケとして立ち寄ったわけだが、洞門の広さがどう考えてもおかしい。車が通るほど広いのである。昔の道がこんなに広いわけがなく、手掘りであれば必要最小限にとどめたはずである。そう思っていると、ツアー旅行のガイドが目の前で説明を始めた。それとなく耳を傾けていると、やはり昔のカタチとはだいぶ違っているようだ。また、このガイド、驚く事も言っていた。そのツアーであるが、青の洞門と奥耶馬渓の景色をメインにしているらしい。この集団、青の洞門を見た後、羅漢寺へゆくそうな。が、羅漢寺はオマケなので本堂、山門、仁王門へは行かず、リフト乗り場の入口にある禅海堂へ行き、そこから引き返して耶馬溪の宿泊先に移動するという。禅海堂には禅海和尚が使っていたとされるノミや槌が展示してある。それを見たら羅漢寺は用無し、引き返すというのだ。
たった今、羅漢寺の素晴らしさを見てきた身として何か物申してやりたいが、いかんせんツアーというのは自由を犠牲にするから安い。ツアー客は関東から来ているように思われ、メインディッシュを楽しまず、前菜で帰るというのは何とも勿体なく、引っ張ってでも連れて行きたい思いだったが、それが時代の流れであり、知名度重視のツアーというものだろう。羅漢寺へゆかぬツアー客に紛れながら、羅漢寺を目指した古い人の古い旅を想い、何となく合掌した。
宿泊先の行橋に着いたのは日が落ちる寸前だったと思われる。
泊まる先はホテルでなく人様の家である。七年くらい前に知り合った関係会社の部長さんで、名をSさんという。Sさんのお宅が今日の宿であり、この近辺で仕事をする際は必ず泊めてもらっている。Sさんとは最初の会社を辞めた後、完全に音信不通であったが、三社目に勤めながら福岡の展示会に出展している時、偶然会って呑むようになった。歳はウチの親父と同じで、大分類は親分肌である。ギャンブルを愛し愚痴を言わず、どこか颯爽としている。呑むには打ってつけの良き先輩である。
「おぉ、こっち、こっち」
冷たいビールがあるから座れと促されたが、今日の私はどうもいけない。昼間が昼間であるから、密室に入れば人を卒倒させるほど強烈な臭いを放つだろう。真っ直ぐ風呂を借り、サッパリした状態で一杯目を頂いた。
で…。
「ちょっと見らん間に肥えたなぁ」
Sさん、直球でそう言われた。続いて奥様に、
「ちょっと丸くなられたみたいですね」
やんわり、そう言われた。
温泉でたまぁに体重計に乗るが、そう体重は変わっていない。結婚して15キロ太ったが、それからは現状維持。ここ五年ぐらいは何も変わってないつもりだが、上半身の筋力が明らかに落ちている。筋肉は重く脂肪は軽い。つまり筋肉が落ちて脂肪が増えれば、体重は変わってなくとも太っている事になる。
そもそも私の体型というのは嫁に言わせれば超アンバランスらしく、下半身は締まっているくせに上半身は恐ろしく弛んでいるらしい。他人の上下が繋がっているかのようであり、極めつけは足が長くて顔がデカいという骨格の成せるアンバランス、これが最悪だと言う。
しばしSさんと呑んでいると、Sさんの娘さんが帰ってきた。
「あら、福山さん、お久しぶりです。あら、あらら、また豊かになられました?」
デブ、丸い、肥えた、様々な表現に免疫を持っている私であるが、「豊か」は初体験であった。その瞬間、羅漢様の姿が頭をよぎった。
羅漢様とは小乗仏教の最高位に達した聖者を指す。小乗仏教とは釈迦から始まる古い仏教のカタチであり、祈れば救いますよという大乗仏教に対し、激しい修行をもって自己の得脱(煩悩を断って迷いの苦を逃れる事)を図らねばならない。
羅漢寺内、五百羅漢は誰もが豊かな表情をしておられ、丸顔の肥えた方が多かった。
「豊か…、そう…、豊かですか…」
娘さんの一言で考えさせられるところはあったが、ダイエットをしようとは全く思わなかった。が、昨日、近所の温泉へ行き、地元の爺様が発した一言で久しぶりにダイエットをしようと思った。
「おたくの腹は恵比寿さんのごつしとんなはるなぁ。豊か、豊か、よか時代じゃ」
この数日で二度も豊かと言われ、更に「時代すらその腹から窺える」と言われては逃げ場がない。
あの日、小乗仏教・羅漢様に会いたいと汗水垂らして登山した。それにはちゃんとした理由があったに違いない。祈れば救う大乗仏教なら、誰もダイエットなんてやらない。
羅漢様は厳しい修行の末、羅漢様になった。
「お前もちょっとは何かやり、ちょっとはまともな体型になれ!」
つまりそういう事だろうが、夏だ、暑いぞ、ビールが美味い、続く赤牛バーベキュー。八月は豊かなイベントが目白押し、本当に豊かな時期である。
私は今、火照った体にビールを流し、真剣にダイエットの事を考えている。
「羅漢様、涼しくなったら始めます」
日本人が羅漢山に寄らず、小乗仏教に寄らず、大乗仏教に走った。その理由を今、私は身をもって感じている。
デブは羅漢寺へゆくべきである。


第33話 総本山と八幡様(7月28日)

総本山という格付けがある。
私たち庶民にとってはどうでもいい話だが、宗教家にとっては天と地の差を生む大問題の格付けである。
宗教というものは総じて本山から派生し各地へ散らばっており、枝葉においては本山の威光をもって活動を行い、金額の多寡は知らぬが上納金を納めねばならない。その点、ヤクザも企業もコンビニも仕組として何ら変わるところがない。本山になれば上納金が入り、その名声から客も増え、自然その権力も増す。宗教法人ともなれば更に非課税。天下無敵であり、箔による恩恵は計り知れない。
「総本山になりたい!」
それは宗教家ならずとも渇望する事で、人間の営み、つまりは歴史に見て取れる。
手近なところでいけば、馴染み深いホカ弁(ほっかほっか弁当)がある。つい最近ホットモットと名を変えた。プレナスが云々と売り手の理屈を言われているが、そんな事はどうでもいい。私たちにとって身近なホカ弁が変わってしまうのは事件であり、私などは内容を確かめるため、すぐさま近所の店に走った。が・・・、モノとしては何も変わっておらず、ホカ弁はホカ弁で、それを確かめたならばこれからもホカ弁であった。
ユーザーの感情としては内容が変わらないのであれば、あれだけの宣伝費など使わず、株主にだけ説明し、看板も変えなくていいと思うのだが・・・。まぁ、経営上層部にとっては壮絶熾烈な政争であり、陣地争いである。派手に大々的にやる必要があったのだろう。
本山を巡る争いも同じ事で、宗教を取り巻く土着(氏子や檀家)の感情は至って冷静だったと思われる。が、組織を運営する側からすれば、本山というのは何が何でも勝ち取らねばならない箔であり、それがなくては食えないのが宗教家の実情だろう。バファリンの半分が優しさで出来てるなら宗教の半分は政治で出来ている。いや、組織運営というものの半分は政治の上に乗っかっている。
ここに八幡様という恐ろしく幸運な神がいる。
元々は日本中どこにでもいる「村の氏神」であった。外来神だったと伝えられている。村に朝鮮人の部落があったのだろう、新羅から来た神様が祀られていたらしい。
西暦七百年頃、この神社の宮司、もしくはその取り巻きが政治的才能に長けていた。彼らは朝廷が九州隼人を征伐するため出張ってきたのを「千載一遇のチャンス」と捉えた。
「この神様は戦いの神様だけん、ちょっと寄っていきなはりまっせ」
熊本弁ではなかったろうが、政治的コソコソ話をまこと密かに流布したろうと思われる。で、朝廷はそれを信じ、戦いの神に祈り、そして隼人をやっつけた。
「これは縁起の良い神じゃ!」
朝廷は戦いの神に気を良くし、続けて藤原広嗣が乱を起こした時にも祈った。又もや勝った。
「あそこの神は良い神じゃ! 守ってくれるぞ、祈れ、祈れ!」
朝廷が叫ぶ事で小さな氏神は一気に全国区となり、国の守り神になった。
神の名は八幡様である。八は広い範囲や多くの数を指し、幡は秦、朝鮮から流れてきた豪族・秦氏を指しており、八幡様の意は「そこらにいっぱいいる秦さん、その神様」だったと思われる。つまりは外来神、つまりは集落の氏神様であるが、一気に国政へ躍り出た。それは地元の村会議員が何かの拍子に担がれ、一気に国政へ出、とんとん拍子で大臣になったようなもので、土着の氏子が知らぬ間に伊勢神宮と並び称されるポジションへ上り詰めた。
この時代の八幡様、本当に政治が好きだったと思われる。中央では遣唐使などの影響で仏教が大いに盛り上がっており、時の天皇も新しいモノをガンガン受け入れる行動派の聖武天皇。次から次に何かやり、その集大成として東大寺に巨大な大仏を作っていた。これを八幡様が応援し、あろう事か身をもって仏域へ踏み込み、自らも仏様を受け入れた。
この当時、古くからいる神様と新興の仏様は交わる事がなく、交わったとしても喧嘩するだけの遠い存在だったと思われる。が・・・、大物の政治家・八幡様は細かい事に全くこだわらなかった。
「神様、仏様? そぎゃんた、どぎゃんでんよか! 一緒にやりまっしょい!」
神職にあるまじき適当さで、神様と仏様を合体させ、八幡大菩薩という結合体を考え出した。そもそも八幡様という戦いの神は応神天皇の化身とされ、応神天皇は初めて大陸の文化を輸入した天皇である。つまり八幡様は「何でも受け入れる心の広い神様」という触れ込みで当時の権力者・聖武天皇に接触し、そして大いに気に入られた。
宇佐神宮のホームページを見ると「神仏習合発祥の地」と書いてある。確かに上の歴史を眺めるだけでも、そう名乗っていい権利があるように思われ、江戸後期までは境内に立派な寺院を構えていたというから驚きである。
政治的に中央の保護を受けた八幡様は、その後、恐ろしい勢いで伸びた。権力が平安京にある時、岩清水八幡宮ができた。また、それが鎌倉にある時、鶴岡八幡宮ができた。
武士が神頼みをする時の合言葉は「南無八幡」、つまり「八幡様、あんたを信じるから俺を守ってよ」という事である。何でも受け入れる戦いの神は歴史の要請を際限なく受け入れ、その勢力を伸ばし続けた。
7月22日から24日、私は仕事の都合で北九州におり、中日がポッカリ空いてしまった。無為に過ごすのは馬鹿馬鹿しいので、ちょっと離れてはいるが宇佐神宮へ出かけた。神仏習合の名残を探したいというのがその目的だったが、蓮の花が咲き乱れる立派な池があるくらいで、他は特に見当たらなかった。鳥居も社殿も八幡様独特の造りで、それが辛うじて個性を発揮していたが、他は入場料を取る宝物館あり、お札の売り場あり、寄付のお願い看板あり、他所の大きな神社と変わらないカネの臭いを伴う神域であった。
境内は広い。小高い丘の全てが境内で、その丘を寄藻川が囲っている。境内というよりも山城といった感じが強く、この近辺では城としての役割も果たしたのだろう。
政治的手腕により大きな富を得た宇佐神宮であるが、政治は繁栄と没落を繰り返すのが常である。戦国時代の宇佐神宮は大内氏に寄ったり、大友氏に寄ったり、人畜無害を装ったが、やはりキリシタン大名の大友宗麟から見れば気に食わぬ存在だったに違いない。激しい焼き討ちにあった。
今の社殿が建てられたのは江戸時代に入ってからである。国宝の本殿、その下に下宮という宮があり、
「下宮参らにゃ片参り」
地元の古老にそう教わったので、下宮に参った後、本宮へ足を運んだ。石段を少々登らねばならないが、登って開けた場所に出ると、耳が痛くなるほど蝉が騒ぎ始めた。その点、神々しい雰囲気が多少あった。
古老は私に参拝の仕方も教えてくれた。八幡様では二拝四拍手一拝が普通だという。理由を聞いたが分からないらしく、境内の説明書きにも「分からない」と書いてあった。
古老は近所に住んでいるらしく、週に二日はここへ来るのだという。
「八幡宮の総本山が氏神様なんて凄いですね!」
近隣の方にはその自負があるように思え、お世辞としてそう言ったのだが、
「総本山なんてもんは、わしらにとっちゃどうでもいい話。ただ昔からここにあるんで参ってます」
古老、静かにそう言った。
境内には総本山を告げる看板が至るところにあり、関係者の話を聞いても「ここが総本山です」という言い回しが必ず出てきた。しかし頭を下げる氏子にとって、それはどうでもいい話であった。反面、私みたいな観光客にとってみれば、それは場所を選ぶ大きな基準となりうる。
ホームページでこれを書くための資料を漁っている時、興味深い記事を幾つも見付けた。岩清水八幡宮も鶴岡八幡宮も八幡様の総本山と思われている方が極めて多いのだ。それぞれの神社がそう名乗っているかどうかは分からぬが、この二社に関していえば知名度も規模も宇佐神宮に並ぶ(超える?)ため、そう思われてもおかしくない。
そもそも総本山とは何なのか、一つでなければならないのか、その点よく分からぬが、人の営みはこの地位を巡り政争・離脱・独立・衰退・隆盛を繰り返している。
古老の祈りに邪気はない。が・・・、総本山を意識した私には、人間臭い邪気があるように思える。
全国に散らばる四万社の八幡様、それを支えているのは総本山ではない。古老のような無邪気な氏子だと思うのだが・・・、果たしてどうだろう。
政治により膨らんだ組織は政治で苦しまねばならない。それは世の常であるが、何となく虚しさが拭えない。
赤い鳥居は背後にある。鳥居の中では総本山を守るため、そして活かすため、様々な事が考えられているだろう。その事を思うと古老の熱心な願が中空に舞ってるように思われた。
吹き出る汗を拭いつつ、もう一度、赤い鳥居を眺めた。
と・・・。
私の袖を引く者がいた。
「もし、すいませんねぇ」
どこから現れたのか、見知らぬオバサンが話しかけてきた。
「なんでしょう?」
「駐車場代四百円をください」
チャリンと払った瞬間に八幡様が同じ目線に落ちてきた。
神様も今となっては文明社会の中にある。
古老の願は文化と文明のはざまを、ただふわふわ漂っている。


第32話 神話の道(7月12日)

阿蘇は神話の里である。
建磐龍命(たけいわたつのみこと)という神武天皇の孫が阿蘇そのものを造ったらしい。
日本という国の始まりは色々な人が色々な事を言っててよく分からない。分からないが、年号を始まりとするなら神武天皇から始まっている。その元年は今を遡る事2700年。興味の湧く時代ではないが、軽く目を通すだけでも近世とそう変わりない人間の営みが見えてくる。人間の営み、つまりは侵略と保守の螺旋であるが、古いだけに物言いがボンヤリしていて回りくどい。しかし後世により多くの肉付けが成されたのだろう。そこには知恵と遊びが感じられ、何となく人懐っこい。神話とは、そういうものではなかろうか。
九州には熊襲や隼人という先住民族がいたらしい。いたらしいが、北海道のアイヌやアメリカのインディアン同様、よそ者に滅ぼされた。日本書紀によると討った人物は日本武尊(やまとたけるのみこと)になっており、景行天皇がその親玉である。
更に時代を遡り、意味不明な世界へ突入する。天孫降臨という言葉がある。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫が日本を治めるため宮崎・高千穂に降り立った事をいう。どこから降ってきたのか調べてみると高天原(たかまのはら)という天上界の聖地らしい。そこは神々の故郷らしく、そこから八百万の神様が各地に散ったのだという。有名な伊勢神宮は天照大神を祀っていて、天照大神は高天原の主神、そして天皇家の祖神、もちろんその孫で天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)も祖神である。
さあ、どうだ。読んでる方は何が何だか分からなくなってきただろう。書いてる私も意味不明だから読んでる方が分かるはずない。まず神様の名前は読み辛い。それだけで追う気が削がれる。更に「歴史を追う」という作業は時間や空間を合わせる作業であるが、神様の世界に時間や空間は存在しないらしい。常人の頭で追えるはずがない。
天照大神は天孫降臨というカタチで下界にその孫を遣わしているが、その脇では天岩戸に隠れ、激しい兄弟喧嘩をしている。天岩戸は天孫降臨先と同じ下界の高千穂にある。時間がないからどっちが先かよく分からない割に、弟や孫は生まれた順番であって、そこは時間が関係する。天岩戸で喧嘩したのが先であれば、わざわざ儀式的に天孫を降臨させなくても良いと思うのだが・・・、うーん、よく分からない。更に空間がないくせに高天原という天上界にいたり、下界の高千穂にいたり・・・、うーん、これも苦しい。
数日前スピリチュアルカウンセラーと飲む機会を得た。その方は人格者であり、地球の事を憂いておられる事は分かったが、言っておられる事の大半は意味不明であった。この方が言うに時間や空間を超越したところに霊界があり、人間は魂の産物であるという。従って病は気からであり、気の循環に滞りさえなければ、癌を始めとする現代病にはならないそうで、霊的な力を使えばそういったものは一発で治るそうな。
「それじゃ国立癌センターはいらんじゃなかですか!」
思わずそう言ったところ、スピリチュアルカウンセラーが全国的に本気を出せば「確かにいらん」という事であった。だが、癌とは人間の魂が間違った方向に進んでいる時に発生するもので、それを端的に消していては世の中がよくならず、すぐに再発するらしい。カウンセラーとは患者に「気付き」を与え、その思想もろとも正しい方向へ導いてやるのが仕事であって、「医者とは違う」というのがその理屈であった。
私には中途半端な理系の血が流れている。そういった世界を否定もせぬが肯定もしない。どちらかというと全てを受け入れた後、自らの理屈によって必要なものを勝手に分類する。
私は主観的行動を繰り返し人生を終えたいと思っている。主観をもって行動し、得た結論をもって反省し、主観に修正を加え、また次の行動を新しい主観によって行う。つまり道を切り開くのは自分であり、神様・仏様、運、風水、陰陽道、知人・友人・お偉いさんではないという事だ。
例えば「神様のお告げや教典に従え」そう言われた。それに従ったのでは主観がなくなってしまう。知らぬよりは知ったほうが勉強になるので、参考として話は聞くが鵜呑みは拙い。それは主観の放棄であり、思想に発展しない。
また、宗教によって「他を見るな」「気にするな」「これが最高」と言われるところもあるが、それでは主観が変化せず、凝り固まってしまう。これが最も拙い。万物は揺れ動いている。静止しているものなど一つもない。
また祈りに関し感謝はいい。感謝はいいが他力本願はつまらんと思っている。賽銭投げて「頑張ります」「ありがとう」とは言っても、「お願いします」とは言わないのが私の主義である。
人間一人では生きてゆけず、何かに生かされているのは認める。私は類稀に見る寂しがりやなので、それは大いに認めるが、健康なうち、やれるうちは自らが選んだ道を自らの方法で突き進む。それが生を活かす道、即ち生きる醍醐味ではなかろうか。
さて・・・。
ここ数日、暑くてどうしようもなく、七月六日は特に暑かった。全く仕事にならなかったので、神社巡りでもしようと家を出た。バイクに跨り、高森の草部吉見神社を目指した。
この神社は阿蘇神社よりも六年古いといわれている。祭神は日子八井命(ひこやいのみこと)で、神武天皇の息子である。この神様は高千穂に降り立った後、高森・草部を気に入り、居を構えたという。
歴史が古いから神話も多い。ある日、大蛇が襲い掛かってきたので、神様はそれを切って焼いたという。大蛇の血が流れたところを血引原といい、焼かれたところを灰原といい、今もその地名が残っている。
神話が地名になったところは数え切れぬほどある。例えば阿蘇立野。建磐龍命が阿蘇へ入ってきた時、阿蘇谷と南郷谷には水が溜まっていたらしい。これを抜くため現在57号線が走る立野付近を蹴破ったそうだが、その時に力を使い過ぎ、倒れてしまったそうな。そして、プルプル震えながら、
「もう駄目・・・、立てぬ・・・」
そう言ったという。「立てぬ」が訛って「立野」になったらしいが、何とも寒い、寒風吹き荒れるくだらなさである。
南郷谷・久木野という地名も同じく神話からきた駄洒落である。ウチの裏山に夜峰という薄っぺらい山がある。この山は建磐龍命の妻・阿蘇都比当ス(あそつひめのみこと)が出産をする際、南郷谷から丸見えだったため、一晩で建磐龍命が作ったそうな。急作りで薄っぺらいため、パタンと倒れる可能性があり、釘を打って支えたらしい。その場所が釘野であり、久木野になった。
日本にはこういう神話が山ほどあり、古い日本人も駄洒落が好きだったようで、侵略の歴史もこういう風に伝われば何となく微笑ましい。
そうそう、草部吉見神社であるが、阿蘇をつくった建磐龍命が来ると請われて娘を差し出した。神話というのは得てして登場人物が少なく近親婚の連続であるが、ここでも神武天皇の孫同士が結ばれている。
草部吉見神社の社格は郷社である。低くはないが、その知名度、歴史、格、どれをとっても阿蘇神社には遠く及ばず、参拝客は多くない。ただ、この宮は日本三大下り宮といわれており、その違和感は何となく楽しめる。
日本人は三大云々が好きである。阿蘇神社も三大楼門とされており、他は福岡の箱崎宮、茨城県の鹿島神社だそうな。下り宮に関しては、宮崎の鵜戸神宮、群馬の貫前神社がそれにあたるらしい。
普通は鳥居をくぐった後、真っ直ぐ進む、もしくは石段を登った後に拝殿、本殿へと辿り着く。が、下り宮にあっては鳥居をくぐった後、石段を下らねばならない。足の先に拝殿が見えるのは何とも奇妙な絵であり、その点、大いに楽しめた。
ところで草部吉見神社へ辿り着くのに約二時間を要している。高森峠の旧道を調べていたためで、この道も新道が通った事により荒れ果て、途中通行止めになっていた。ただ、バイクが行ける隙間はあったため、構う事なく直進するとハイキングをされている年配の方がシート広げて昼食中であった。そこは南郷谷が一望できる素晴らしい場所であった。
「はぁ、こらぁよか場所ですねぇ」
私もバイクを停め、一緒に景色を楽しんだのであるが、
「オニギリば食べていきなはりまっせ」
ご年配、実にありがたい事を言われる。ありがたく頂き、話をしていると、
「草部吉見神社に行きなはるなら幣立神宮にも行かにゃんたい。あの二つはセットだけん」
草部吉見神社と陰陽の関係を成す立派な神社が蘇陽町(現在は山都町)にあるらしい。陰陽とはどういう関係なのか、その意味を問うてみたが、
「分からんたい。とにかく昔からアソコとアソコはセットだけん行かにゃんたい」
ウダウダ言わず黙って行けという事であった。
草部吉見神社から幣立神宮までは直線距離で見るとそう遠くない。遠くはないが、間を深い谷(蘇陽峡など)が割っており、普通に行けばグルッと回って行かねばならない。むろん私は探検派であるため、直線で行く道を模索し、山道に入った。地図はあるが、山深く入っていけば役に立たない。勘だけを頼りに獣道を疾駆した。で、走り走った末、出たところは熊本と宮崎の県境であった。県境といえば、すぐそばに高千穂がある。
「せっかくだけん行ってみよう」
そういう流れで目的変更、天岩戸神社を目指した。国道に出、看板に沿って真っ直ぐ進んだが日曜だし車が多い。立ち止まって地図を見ると「岩戸越え」というショートカットがある。ただ道が点線で描かれていて、林道、もしくは登山道のようである。阿蘇のそういった道はほとんどが牧野によって遮断されており、一本道を引き返すハメになる。それは嫌なので近くの人に聞いてみると、
「車もバイクも行ける」
地元の古老がそう言った。それで岩戸越えの方向へ進んだ。が・・・、あの古老はこの道を通った事があるのだろうか。むろん舗装はされていない。砂利が敷いてあるわけでもない。草が刈られた様子はあるが、岩が至るところに転がっており、凹凸も凄まじい。オフロードバイクなら何とかなるかもしれないが、カブ50にはどうも厳しい。傾斜も激しく、登りは押せばいいのだが、下りが小石で滑るため、何度も岩壁へ突っ込んだ。また、トゲのある植物が道に飛び出しており、痛いの何の、傷だらけになってしまった。
山において、古老にだけは道を聞かないほうがいい。古老の中には数十年前の道、その絵が色あせる事なく残っており、今の姿は微塵もない。道は新しいものが出来ると一気に寂れ、その面影を失ってしまう。古老の中にあるものは若かりし頃に歩んだ人通りの多いそれだったに違いない。
「最近は通っとらんが、昔は岩戸へ行くにはその道しかなかった。大八車がすれ違えよったから、道は広かった。立派な・・・、そう、立派な道じゃ」
古老が生まれるずっとずっと前から文化を繋いでいた一本道、その成れの果ては岩の中に埋もれつつある。
峠を越えたら天岩戸神社である。高千穂峡には何度か来たが、天岩戸神社は街外れの山中にあるため、立ち寄った事がなかった。冒頭でも書いた神話の舞台である。天照大神が暴れん坊の弟に困り果て、ついには拗ねて岩戸の中へこもってしまう。天照大神がいないと世の中は闇に閉ざされてしまうらしく、八百万の神は一策を講じる。それは岩戸の前で宴会をするという神様らしくない庶民的な方法で、八百万の神たちは飲めや歌えと岩戸前で大いに盛り上がったらしい。で、笑い声が気になる天照大神はチョットだけ岩戸を開いた。その瞬間を逃すまいと手力男命(タヂカラオノミコト)という神様がその豪腕でもって岩戸を投げ飛ばし(長野県戸隠まで飛んだとされる)、世に光が戻ったという神話である。
この話、知らぬ人がいないほど有名な話であるが、私はこの話を子供の頃に聞き、初めて神様というものに親近感を覚えた。光や太陽を司る天照大神が私たちと同じように兄弟喧嘩をし、更には拗ねて岩戸へこもるのである。
当時、神様といえば、叱る方便になっており、
「馬鹿っ! 山の神様が怒るばいっ!」
「汚すなアホっ! 便所の神様が怒るけんねっ!」
怒られた後に出てくるのが神様で、それは実態を持たぬ何とも恐ろしい虚像であり、罰を与えるために降ってくる大変怖い存在であった。それがこの神話により、人間のカタチを成した。
「神話の舞台、天岩戸がそこに!」
冬のソナタの舞台を見るため、お歳を召したオバサマたちが韓国へ行く。それと同じように無邪気な感動を持って境内に踏み込んだ。が、結論は神話の舞台として認識する事ができなかった。岩戸のある場所は神職さえも立ち入れない神域であって、遠くから眺めるより他はなく、よく見えず、私の想像に与える影響は何もなかった。
天岩戸神社は西本宮、東本宮、天安河原と分かれている。西本宮は天岩戸を祀っており、東本宮は天照大神を祀っている。社殿は両方とも大きくて立派だが味はない。
社格は村社である。これは草部吉見神社よりも低い。低いが、戦後、社格制度が廃止された後、神官の進退に不都合が生じるという事から、「これは特別な神社だよ」という別表神社なる新格付けができたそうな。これには天岩戸神社が入っていて特別扱いされている。戦後のバタバタしていた時、この神社の神主さんがたまたま政治的手腕に優れていたのだろう。
天安河原は上の神話の中で八百万の神が集まった場所である。ここで例の密談が成されている。
川沿いの清涼なる雰囲気の中に仰慕窟(ぎょうぼがいわや)という洞窟があり、周囲にはおびただしい数の石積みがされている。賽の河原のようであるが、ここの石積みは願い事が叶うといわれる石積みらしく、私が見かけたカップルなどは、
「いつまでも二人仲良くいれるといいね」
そんな事を言いながら交互に石を積んでいた。むろん二人の目を盗み、そこに私の石を積み重ねておいた。これにて二人はろくでもない人生を歩むはずである。
さて・・・、天岩戸神社を出る頃、時計は五時を回っていた。ちょっとそこまで出るつもりが予定外の長丁場になってしまった。が、ここままで来たら目的の幣立神宮も寄らねばならない。
足のカブ50はマックス40キロしか出らず、坂道は20キロを下回る事もあるが、時代に合って燃費はいい。ガソリン3リットルしか入らないが、250キロは走るだろう。ゆるりゆるりと蘇陽を目指し、着いた頃には六時であった。
ハイキングの年配者に「幣立神宮へ行け」と言われた時、
(幣立神宮・・・、どっかで聞いた名前やなぁ・・・?)
その事を考えたが思い出せなかった。が、バイクに揺られながら、ふと思い出した。スピリチュアルカウンセラーが絶賛していた場所であった。カウンセラーが東南アジアへ旅した時、同じような力を持つ人から、
「ニッポンにはヘイタテがある、あそこはスゴイ」
そう言われたらしく、帰国後すぐに行ったらしい。すると凄まじいパワーに溢れていたそうで、
「行けば分かる、あそこは凄い」
そう言っていた。
(果たしてどうか?)
大いなる興味を持ったが、実際はよく分からなかった。ただ、ビックリはした。拝殿で頭を下げていると、いきなり横から神主が現れ、鈴を鳴らされた。これには「ぬぉっ!」って仰け反ってしまった。
後手にはなるが、帰宅後この神社についてネットで調べた。どうやら時代の波に乗っかってスピリチュアルスポットになってるらしく、様々なページで取り上げられていた。その理由は前にも書いた天上界・高天原、ここはその発祥の地であり、八百万の神の故郷である事。更に祀ってあるのは天照大神より古い神で、宇宙から降り立たれた神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)、つまり凄く凄く古い神がいるところで、ニッポンの霊的パワーの源らしい。また、本殿の下には東御手洗(ひがしみたらい)という池があり、中国の始皇帝がこの池の水を不老不死の霊薬として求めた逸話もあるそうで、スピリチュアルスポットとして、これ以上の場所がないそうな。
更にある。ホームページ曰く、中央構造線という約八千万年前にできた日本を九州から関東まで縦断する大断層があるらしい。これが幣立神宮と伊勢神宮の下を走っているらしく、この断層上にパワースポットが多いそうな。
「ふぅん」
私を始め多くの人がそれだけで終わってしまうだろうが、聞く人が聞けば「たまらんっ!」という具合になるらしく、現に人が多かった。変な体操をしている人もいた。住んでそうな人もいた。新興宗教の足跡もたくさんあった。
そうそう、新興宗教といえば白光真宏会をご存知だろうか。ほとんどの人は知らないと思うが、日本人なら無意識のうちに知らされている宗教で、お祈りの言葉は、
「世界人類が平和でありますように」
これである。そう、至るところに立っている白い木、アレに書かれている言葉で、全国のありとあらゆる場所に立っていて隙がない。
「こんなところにもっ! あんなところにもっ!」
今回の神社ツアーにおいても様々な場所で目にし、むろん幣立神宮にも立っていた。神道系の新興宗教かと思い、調べてみたらマンダラとか印を結ぶとか書いてある。密教寄りの仏教かと推測するも守護霊様が云々とも書いてある。よく分からぬが、さすが新興宗教、旧に全く囚われないところが素敵である。
白光真宏会の白い木は最も見晴らしの良い場所に立っていた。もう一つ隣に石碑が立っていたが、何の宗教か分からなかった。これから有名になるにつれ、様々な足跡が立ってゆくだろう。
深呼吸し、神社から視線を外すと根子岳と高岳が外輪山越しに見えた。阿蘇を作った建磐龍命は日向から九州のヘソ・蘇陽へ移り、次いで先住民の熊襲を滅ぼしつつ、私と同じような景色を眺めただろう。一歩一歩それに近寄り、最後は阿蘇山の麓に居を構え、どういった事を想ったか。
神話というものは十中八九捻じ曲がって伝わっている。本当はもっと泥臭く、政治的な意図も加味されたろうが、それを伝える人間が素朴で明るく、良い意味でフィルターがかかり後世に伝わった。それが神話であり、時間の力であると想像する。
カブ50は時速20キロで坂を登る。外輪山を登り、外輪山を下り、南郷谷に入る。恐ろしいほどに赤い夕日が梅雨明けの湿った大地を照らし始めた。
神も仏もここにいる。ここにいるではないか。
建磐龍命も私と同じ道を辿り、外輪山を下り、同じような夕日を見たのかもしれない。そして領土拡張の馬鹿馬鹿しさに気付き、そこに居を構えたのではないか。
争う事は何もない。神様はそこにいる。一人一人それぞれの神様と共に、人にちょっかい出さず、勝手に気ままにやれないものか。文化に文明、思想に宗教、そして神話。ああ、人の世は住み辛いがいとおしい。
日は昇り、日は沈む。オギャーと生まれ死んでいく。この明け暮れに定義付けはいらない。


第31話 百式螺旋(7月3日)

初めてラッカーというものを使った。言わずと知れた塗装用のスプレー缶だが、プラモ屋の息子でこれを使った事がないとは何とも悲しい現実である。
ホームセンターでそれを手に取り、
(幼少の影響は死ぬまで残る・・・、怖い・・・)
その事を思った。
というのも、生まれた時からプラモ屋の息子だから作るものと塗るものはふんだんにあった。ガンプラなどは倉庫に山積みされており、売れ筋以外のものであれば回してもらえ、頻繁に作った。私の記憶によるとガンダム(主役)は売れるから作った記憶がなく、グフ、ザグ、ズゴックなど、脇役のそれをよく作った。
プラモ作りの手順は塗装後に組み立てるのが普通である。塗装こそプラモ作りの要諦であり、その良し悪しが出来栄えの九割を決めるらしく、親父は塗装にうるさかった。
「下地に銀を塗れ。塗った後たっぷり一晩置き、魂込めて塗装せよ。組み立ては塗装のオマケだ。ちゃちゃっと済ませ仕上げに入る。継ぎ目が見えなくなるまで工夫しろ。工夫には一晩が要る。その後、サンドペーパーでそれとなく擦り、下地の銀を薄っすら見せる。どこの銀を見せるかがリアリティーの分かれ目だ。分かったか、馬鹿息子」
そうは言わなかったが、子供心にうるさく感じた記憶があり、これに沿えば三日も寝かせる必要がある。
私がプラモ製作を拒否し始めたのは「百式」という黄色いロボットのせいである。今でも鮮明に憶えているが、こやつを作る際、面倒臭くて下地の銀を塗らなかった。このせいで親父から激しい叱責と体罰を受けた。
幼少の私は工藤静香の名曲・慟哭に倣い、一晩中泣いた。泣いて泣いて、気が付いたのが、
「塗装なんて糞っ食らえ!」
その事であり、以後、着色という作業を毛嫌いするようになった。
青春時代、私は美術が嫌いであった。下絵を描くのは好きだったが、着色の作業になると倦怠感に襲われるのが常で、いつも中途半端な絵を提出した。長期休みの宿題に関しても色のない絵ばかりを描いていて、その点、子供ながら拗ねっぷりが徹底している。
子供心というのは桃のように敏感で弱々しく、百式のトラウマは三十路を超えた今の今まで黒い痣として心のどこかに残っているようで、避け続け逃げ続け、今に至っているようだった。が・・・、お客さんが「塗ってくれ」と言えば塗らねばならない。
ホームセンターは三日に一度は通っている第二の家みたいなものであるが、塗装コーナーに入るのは初めてだった。踏み込み、グルリ見渡した。塗装缶やスプレー管、それに薄め液を見るだけで苦い思い出が体の隅々を疾駆した。逃げ出したいが目的のモノを探さねばならない。よりによって指定の色は銀。思い出の色である。
銀・・・、つまりシルバーであるが色々あった。艶があったりなかったり、暗めだったり明るかったり、微妙なところで分けられていたが、何でもいいやとエナメルシルバーを買った。理由は名前に力があったから、それだけである。イメージとしてバフ研磨を施したニッケルメッキを想像したが、塗ってみるとラメが随所に光るマツケンサンバの色であった。
ラッカー塗布のコツは親父の作業を見ているので何となく分かっている。適度な距離を保ちながら定速でシューッ、均一に塗るのがポイントだ。記憶を頼りにシューッとやった。果たしてどうか。見事な出来栄えであった。
外の作業台に塗装物を置き、炎天下の中、汗ダラダラになって作業をやった。可笑しかったのはスプレーも「シューッ」というが、その口も「シューッ」と言っており、口先は尖がりっぱなしである。
二十年ぶりの塗装作業であったが、なかなかどうして、やれば楽しい。仕事の一件だけでは飽き足りず、続いて手作り台車の塗装をしたり、子供用机の塗装をしたり、一生分の塗るという作業を半日使ってノリノリやった。
(うむ、これで私のトラウマも消えた)
目の前に広がる塗装物のあれやこれに満足気な笑みを見せる私であったが、ふと見ると客先に納めねばならない塗装物にアブがとまっている。
(まだ乾いてないのに!)
そう思い、手で払おうと一歩を踏み出した時、アクシデントが発生した。
足元はゴム製の便所サンダルであった。踏みしめている大地は舗装されておらず、砂利が敷いてある。で、思いっきり小石に躓いた。重い体は前に倒れる。どこか支えなければ作業台に顎を痛打してしまうだろう。手は前に出た。行き着く先は塗装物である。
アブは巨体のダイブに驚き、猛烈な勢いで飛び去った。その代わり塗装物には平手の跡がクッキリ残った。
(しまった・・・)
思うが、もう遅い。よりによって汚してはいけないものを派手に汚してしまった。が、それは物事の宿命だろう。大事なモノから壊れてゆく。大事な皿から割られてゆく。大事な服から雑巾代わりにされてゆく。人生は涙と感動の連続である。
頭を切り替え修正に入った。
最初は更なる塗装で誤魔化そうと試みた。無理だった。
次に手形のところだけ拭き取り、そこに再塗装する方法を試みた。境界線がバッチリ見え、見苦しかった。
仕方がないので親父に電話を入れ、修正の方法を聞いた。ヤスリで擦った後に塗装し、境界部には薄め液を吹きかければ良いという。あいにく私はスプレーガンを持っていなかったし買う気もなかったので、とりあえず目の細かいヤスリで塗装を削った後、再塗装してみた。
(うーん、なかなか良い)
距離を置いた上にメガネを外せば何となく良い感じに見える。
(よしっ、OKという事にしよう!)
後ろめたい気持ちはあったが、とにかく乾くのを待つことにした。が・・・、一昨日から昨日の午前にかけ、阿蘇は150ミリの超豪雨であった。塗装物は屋根付き壁なしのところに置いていた。通常の雨なら塗れないが超豪雨に対しては無力であり、塗装物はビショビショに濡れていた。恐る恐る塗装面に目を向けた。最悪。乾かぬ内に水を浴び、蚊に刺されたようにプクプクしていた。
塗装に関し私は素人だから、この作業は仕事ではない。ビタ一文にもならない試練であり、勉強であり、乗り越えねばならない一過性のアクシデントであった。が・・・、本当にマイッタ。
(塗装よ、二十年後も私を苦しめるか!)
その事であり、時間は増水時の川の如く、私の隣を轟々と流れてゆく。早朝の貴重な時間をたっぷり使い、ヤスリで丁寧に塗装をはがし、雨が上がったところで再度シューッとやった。
午後からは晴れだった。お日様の下で乾かし、やっと別件の仕事に着手できた。
事務所で仕事をやっていると足音が近付いてきた。運送屋か嫁であろうと思ったが、よく聞くとイクラちゃんの足音に似ている。
「しまった!」
勝手気ままな二歳児・美菜ちゃん(三女)登場であった。
「おっとー、いっしょ、あそぼー」
その小さな手はためらう事なく塗装物へ向かっている。
「勘弁してくれー!」
叫び、裸足で事務所を飛び出したが、時既に遅し。またも手形が付いてしまった。幸い生乾きの状態で傷は浅い。更に小さい手だったため、「星の模様を付けました」と言えばそう思ってもらえなくもない。小さな指紋は超積極的に見れば唐草模様にも見える。
一歩、二歩、三歩、大股で離れ、念入りにチェックした。粗が見えるのでもう一歩離れ、そして薄目でチェックした。メガネも外した。
「うん・・・。見えない・・・。何も見えない」
消えかけた百式が又も私の中に現れ、そして居座った。今度は大幅にスケールアップしており、テコでも動きそうにない。彼は私の螺旋に組み込まれ、私の死と共に消え失せる存在になった。
「塗装はやらない」
誓う目は、既に明後日の方向を見ている。
雨の後・・・、嗚呼、夜峰山が美しい。(現実逃避)