第1話 水郷の人〜田中吉政〜(2006年4月)

(どこかに似ている…)
そう思った。柳川の風景である。
家に帰り、旅日記の紐を解き、撮り溜めた写真に目を通すと、それは近江八幡の風景であった。
二年前の夏の事だが、ふと思い立ち熊本城から江戸城まで歩いた。
加藤家や細川家の参勤交代ルートに倣い豊後街道で大分までゆき、鶴崎港から神戸までは海路をゆく。本来なら姫路辺りで海路を外れるはずだが、現在のフェリー航路が神戸ゆえしょうがない。神戸からは大阪経由で京へ上り、賤ヶ岳、岐阜と回り道し、名古屋からは東海道を歩いた。
「いい歳して恥ずかしい!」
友人だけでなく、親族にまで笑われたものだが、歴史小説を書く身の上にあって、飛行機や車を秤にした現代の感覚では昔のそれがどうもとらえにくい。
(ならば…)
という事で、周りの反対を押し切り旅に出た。
ペースは昔の人と同等、日に十里(40キロ)、約一ヶ月の旅である。
体力的には問題ない。私は太ってこそいるが体力勝負の長旅が好きなタチで、過去には自転車による日本縦断、ホッピングによる九州横断など、隔年のイベントとして体力旅行に挑戦しているからだ。
つまり、旅というものに小慣れしているわけだが、今回の「歩き」は体感的に別格であった。まず、スピードが自転車の五分の一ゆえ、風景が五倍ゆっくり流れる。見落としがちな野辺に咲きたる小さな花も見えるし、山などはいつまでもそこにある。これが車や電車となれば十倍二十倍、まさに違う景色を見ているようで、
(時代に目線を合わせるというのはこういう事か!)
そう思ったし、実際に小谷山城や賤ヶ岳、それに関ヶ原などを歩いてみて、平面だった歴史が急に立体的になったように思え、まさに目から鱗の連続であった。
ちなみに遅いという点では前述したホッピングが歩きよりも格段に遅い。遅いがこちらは激しい縦揺れの影響で体がそれどころではない危険な状態に陥る。私はこの時の話を文芸賞に投稿し、小さな賞を頂いたが、受賞の理由は、
「クレイジー」
ただ、その一言で、病院代のほうが高くついてしまった。
さて…。
冒頭の風景であるが、今年の頭に柳川へ越してき、例の癖で街中をぶらり散策している時に徒歩旅行の風景を思い出した。それが滋賀の近江八幡だったわけだが、中心部も然る事ながら郊外(例えば昭代地区)のつくりも実によく似ている。
(これは何かある!)
そう思ったら居ても立ってもいられないタチで、すぐさま柳川古文書館に走り、柳川の成り立ちを調べてみた。
「ほうほう、なるほど!」
嫁には「小一時間出る」と言って飛び出したわけだが、どっぷり閉館まで柳川市史を読み込んでしまった。私を惹きつけたのは柳川に縁の深い立花家ではない。田中吉政という大名で、約九年間、柳川の藩主だった人物である。
田中吉政は秀吉の甥、秀次の家臣として出世街道を突き進み、秀次の領地であった近江八幡の統治を任せられていたようである。近江八幡といえば八幡堀が有名で、郊外にも無数の水路があり、柳川同様、水郷を謳っている街である。むろん、考える事は同じで利用価値のなくなった水路や堀を観光資源として活かそうと水路には多くの小船が走っている。
これだけ書いても柳川との共通点を感じてしまうが、実際に行くと、更に郊外へ出ると、雰囲気の妙な一致に違和感を覚える事は間違いない。体操の池谷兄弟を見ているような、あの変な感じで、これらの基礎を田中吉政が築いている。
田中吉政は近江八幡を出た後、家康の後釜で岡崎城の城主になり、こちらでも矢作川の治水工事を行っている。
よほど水のある風景が好きなのか、土木工事が好きなのか、はたまた変わり者なのか、よく分からぬが水をどうこうする事に命をかけている人物のようだ。
この田中吉政が柳川に来るキッカケとなったのが石田光成である。関ヶ原の合戦後、逃げ惑う石田光成を顔馴染みの田中吉政が捕らえた。石田光成にしてみれば完璧に変装したつもりであろうが、出身地が同じ田中吉政の目は誤魔化せなかったらしい。
この褒美として田中吉政に筑後一国が与えられ、田中吉政は柳川をその拠点と定め、支城を久留米、福島、赤司としたそうな。
田中吉政が没した後、田中家の統治は三代目まで続かず改易となってしまうが、田中吉政のやった事は立花家に負けず劣らず現代に色濃く残っている。柳川が水郷と呼ばれる礎を築いたのもそうだし、久留米まで続く県道、その前身をつくったのもそう、有明海の干拓堤防を結んだのも田中吉政である。明治まで柳川を統治した立花家は田中家のやった事を維持し、色付けするだけで良かったはずだ。
この点、肥後も同じようなもので加藤家が土木治水の礎を築いた後、短期間で改易になり、細川家が後を継いでいる。
(お隣さんで、なぜこうも似るのか?)
よく分からぬが、それが歴史の面白さであり、不思議さであろう。
ただ、現代の風評は熊本と柳川で全く違う。熊本の庶民は細川家の事を馬鹿殿と呼ぶきらいがあり、はっきり言って不人気である。それに比べ加藤清正は今でも「せいしょこさん」と呼ばれ、大半の県民に愛されている。すっかり有名になってしまった平山温泉などは、
「せいしょこさんが汗疹ば治しなはった湯ですたい」
一昔前まで、謳い文句はそれであった。(今は有名になり過ぎて何がキャッチか分からない)
それが柳川ではどうだろう。田中吉政の偉業を知る人は少なく、立花家は今でもスター、あちこちで立花ブランドが幅を利かせている。
肥後出身の私としてはそれがどうも解せない。確かに立花宗茂も素晴らしいが、田中吉政も素晴らしいのだ。
蚊の多い柳川、その紐をたどっていくと田中吉政に辿り着く。
原点を創った男の墓は杉森女子高そばの真勝寺、その床下にある。
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