第24話 阿蘇下田の話(2008年4月)

私が暮らしている南阿蘇村は2005年に生まれた。御多分に漏れず平成の大合併により産声を上げた村で、その身は長陽村、白水村、久木野村から成る。
村民は約12000人。意外に多いというのが私の感想だが、村の面積を見れば、
(まぁ、このくらいはいて当然か・・・)
そういう感想を持たないでもない。
村のつくりは基本的に田園である。
阿蘇五岳の南側、通称・南郷谷に村民の大半が暮らしており、右を向いても左を向いても山が見える。その山が近い。盆地の中央を一級河川の白川が流れており、平らなところはその近辺のみであり、白川に寄り添うかたちで集落が点在している。
阿蘇を牽引してきた北側から見ると、この狭い盆地は何とも頼りなく、ほんの数十年前までは文明から打ち捨てられていた感さえある。
歴史的にも南は北に従う事で生きてきた。北には肥後一の宮である阿蘇神社がある。この神社の宮司は単なる宮司でなく大宮司と呼ばれ、豪族の長も兼ねる。南阿蘇にはその阿蘇家に仕える家臣団の小城がちょろちょろあり、それを中心に集落を成した。南の集落にとって山一つ越えたところにある政治の世界は無縁であった。しかし切実でもあった。彼らを生かすため、淡々と生産を続けねばならず、南郷谷としての存在意義はそれだけに終始した。
北には西巌殿寺もある。坊中と呼ばれるその場所に阿蘇五岳を修行の場とする山岳宗教が興った。阿蘇五岳を母体とする以上、もう一方の登り口である南郷にも人が寄って然るべきであったが、それは阿蘇神社により制された。登り口は坊中よりの一箇所とされ、そこに番所が設けられた。登山者はそこで草鞋を買うよう義務付けられ、別口から登りたる者は山伏より追い返された。
南郷は歴史に黙殺され、ただ生産する事のみ求められた。北を支える裏方として長い時間を単調に過ごさざる得なかったのではないか。
政治に振り回されるのは人の世の常であるが、南郷の人々においても顕著である。
戦国時代、九州は大いに揺れた。南郷を統括する阿蘇家は豊後の大友家と同盟を結び、その結果、薩摩の島津家に食われた。肥後においては菊池、阿蘇、相良と歴史ある豪族がひしめいたものの、地理的に中央に位置するがゆえ、南からは島津、東からは大友、北からは竜造寺、この三強の顔色を見ているうちにアレヨアレヨと切り取られた感がある。阿蘇家においては際立った内紛も多く、内紛を繰り返しながら弱体化し、食べられるべくして食べられたともいえる。
とにかく阿蘇家に振り回された南郷の人々は迷惑至極であったろう。
私が住む場所を下田という。冒頭に書いたように白川沿いの小さな集落の一つで、阿蘇家に仕える下田という人物の城を取り囲むかたちで集落が形成されている。この下田城も薩摩に食われた。
今、その下田城跡を見るに、それこそ爪楊枝でタコヤキをつまむような気安さで落城したのではあるまいか。自然のものか人工的なものか、それは分からぬが白川沿いの斜面にペタンとした岡があり、その上に下田城があったらしい。が・・・、地形的に見て要害と呼ぶには遥かに遠い。集落総出で守ったとしても、たかが知れていただろう。そもそも下田城は戦うための城ではなく、停滞なく農業生産を続けるための拠点であり、その点、目的外の使用といえた。
阿蘇家にとって島津は南から来る。南に位置する南郷谷はこの時はじめて生産者として以外の目的を持ったのではなかろうか。
戦国以降、南郷谷の主人は阿蘇家から島津に、島津から豊臣になった。豊臣は二人の主人を送り込んだ。佐々成政と加藤清正であるが、佐々はサッサといなくなった。駄洒落であるが、その言葉通り、肥後を政情不安にさせたという事でサッサと切腹させられた。
加藤家の後、南郷の主人は細川家になり、そのまま明治維新に至っている。この期間、南郷においては再び生産者として静かな時間が流れている。人目に触れず騒がれず、南郷という小さな箱を覗こうとする人は極々稀であったろうと思われる。ただし一瞬だけ、歴史が南郷を通過した。
西南戦争である。
この日本最後の内戦は、またもや薩摩を起点に起こった。明治政府は熊本城で防戦し、その後、阿蘇や田原坂をはじめとする熊本の至るところでドンパチやった後に、宮崎から鹿児島に追い詰め、ついには西郷、桐野らが果てる事で収束した。この戦場の一つとして南郷があるために、ちょっとだけ歴史に登場した。が…、南郷の生活は何も変わっていない。
南郷の蓋を本格的にこじ開けたのは鉄道の開通であろう。
大正の頃には北へしか延びていなかった線路が昭和三年には立野から分岐し、高森へ延びた。その事で南郷が人の目に触れ始めた。
阿蘇の起こりはタケイワタツノミコトが立野の壁を蹴破って湖の水を抜いたところから始まると言われているが、蹴破られた後、その南側は放置され、忘れ去られた。南は北を支える事によって生き、そして文明から遠いところに身を置いた。明治、大正にかけ文明は驚異的な速度で存在感を増し、大正七年には北阿蘇の中心・宮地にまで鉄道が伸びた。それから遅れる事十年、文明の象徴である鉄道が南郷の殻を蹴破った。
文化は長い時間をかけ、じっくり熟成させて起こるために他人には理解し難いものがある。が・・・、文明とは普遍性の塊である。理屈の積み重ねをまとめたものであるため非常に分かりやすい。南郷は文明に驚き、そして迎合した。その驚きは浦賀に蒸気船を迎えた日本という国のようなものであって、恐れおののきつつも様々なものを取り入れざる得なかった。
文明は車を生み、車は道を欲した。南郷には今の国道に沿ったかたちで南郷往還という古道があったが、文明によって細切れにされ、人々に捨てられた。
明治維新以降、文明に酔い痴れた日本人は文明により隆盛し、文明により没落した。第二次世界大戦である。文明に触れたばかりである南郷にも赤紙は届き、根付いていた文化にも歪んだかたちで手が加えられてゆく。
日本という国において文化の象徴は氏神様であった。八百万の神がつくったという日本において、自治体の線引きを超えたところに八百万の文化というものがあり、それは土地土地の神社として高見の位置に鎮座している。氏神様を中心に祭りを行い、それをもって己が文化を確認するというのが日本の風習であり、伝統であった。
私の住む下田において、その氏神は西野宮神社である。かつて阿蘇家の一大イベントであった下野巻狩の拠点となったところで、その歴史は古い。境内には巨木が連なり、夏と秋には祭りも催される。現代においても下田という集落の文化を辛うじて支え続けてくれている神社といえるが、その最前面、鳥居の隣にロケット型のモニュメントが立っている。戦時中、氏子が奉納したものであろうが、文化の象徴に文明が切先を入れた典型的な絵のようにも思え、何とも痛々しい。
文明を飲み込んだ後の南郷は、その文明社会から見れば実に華やかなその後を辿っている。
「九州の軽井沢」
昭和初期、北阿蘇も含めてそう呼ばれ、南郷は様々な人の目に触れ始めた。手付かずの牧歌的風景は文明に疲れた人々の心を癒し、その人々によって文明が持ち込まれた。木こりしかいなかったような場所に居住区が次々と生まれ、ここぞとばかりに道が整備された。
道は集落を通るかたちでなるべく古道に沿うというのが基本であり、それが初期の技術であった。その事が沿線の集落に繁栄を与え、反省も与えた。
遠かった南郷は文明の受容に伴い、年々その感覚的距離を縮めていった。昭和も中期を超えると、下田に至っては市が立つほどの賑わいを呈し、遊郭染みたものまで登場した。
文明の産物である技術革新は日進月歩で進んでいく。進むにつれ目的地へゆくための道は郊外を真っ直ぐ抜けるようになった。その事で下田という集落は落ち着きを取り戻した代わりに文明的繁栄を手放した。
今、これを書いている時期というのは平成二十年四月七日である。
南郷という、ほんの一世紀前には人の目に触れる事すら叶わなかった田園地帯が今、九州有数の観光地になりつつある。旧態依然の白川沿いにある集落は下田も含め静けさを増している中にあって、利便性だけは飛躍的な向上を続けている。下田から熊本空港までは車で三十分もかからない。江戸時代に二日かかった熊本城までも約一時間で着いてしまう。一ヶ月をかけ、徒歩と船を駆使して向かったお江戸日本橋も飛行機を使えば三時間で着いちゃう時代である。
文明の流入は止めようがない。
昔からの集落を見下ろすように山の斜面には別荘地が興り、ペンションが建ち、硬い道が登ってゆく。菩提樹として植えられた一本の桜が人気を集め、予想外の観光客で賑わいを見せ始める事態となり、ついには公園化されてしまった。かつて憩いの場として賑わった湧水地はポリ容器を持った遠方の人々により再び賑わいを見せ、これまた硬いアスファルトで整備される運びとなった。
人々の姿かたちは変わらぬが、その営みは短期間で大きな変貌を遂げた。
文明は刻一刻と南郷を変えてゆく。その裏手にありながら、薄れゆく文化の象徴である氏神様は夏の祭りが恋しや恋しと、巨木が生い茂る中で一人静かな時間を刻んでおられる。
「氏子よ、氏子、どこへゆく?」
それは氏子も分からない。それが南郷の、いや文明社会の現実であった。
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下田城跡を割って鉄道が走っている。こんもりした部分が城跡。




鉄橋の下から電車を眺める事ができる。マニアックビューポイント。




これは阿蘇下田城ふれあい温泉駅。背後の山は下田の屏風・夜峰山。




ここは下田銀座。昭和の中期、ここに市が立ち、大いに賑わったらしい。




下田という部落、下は白川、上は夜峰、その間にこじんまりとある。




これは西野宮神社。旧社格は郷社。阿蘇家の巻狩りを取り仕切った。




鳥居横、ロケットのモニュメントが痛ましい。戦争は文化を大いに利用した。