第25話 政治について(2008年4月)

集団の中に身を置くならば多かれ少なかれ政治というものに触れざるを得ない。
永田町の政治は遠いところでやっているけれども必ず身近なところに落ちてくるし、近所の密室でやってるそれも必ず我身に降ってくる。しかしこれらは知らんふりさえしていれば一部の人を太らせて、我身へ多少の害を及ぼして、更には後世へ致命的な打撃を与えるだけで、気が大きい人ならどうにでもなる。
この点、私は気が大きい人を装って寡黙を貫くようにしており、そうしていれば表向きは波風が立たない。しかし集団と接している以上、絶対に避けては通れない小振りな政治が世の中にはゴロゴロと転がっている。
私は平凡なメカトロエンジニアで、どこの組織にも属していない。ゆえ、経営・営業・購買を一人でしなければならないのであるが、持ってるものが平凡だと、それらに根回し・調整・愛想笑いなどなど、政治的力量が必要になってくる。個人的な思いを言えば、それらを全く使わずに飯が食えれば良いのであるが、世の中の仕組が何千年も前から政治主体で成り立っているため、それが叶うのは極々一部の天才のみになってしまう。
そもそも経営者と呼ばれる人種には政治という私に言わせれば何とも厄介な建前主動の世界を愛している人たちが多く、その根回しに至っては談合の巧妙な仕組みを見てもらえば分かるように、ほぼ全ての業界において「暗黙の了解化」されている。従って新参者の私が何かやろうと試みた場合、まずはこの暗黙の了解を理解・納得する事から始めなければならず、この点、根っからの政治嫌いには頭が痛い。そもそも大人の常識とされる「愛想笑い」ですら私には遠い存在なのである。
「どうですか、景気は?」
経営者が発する第一声は十中八九これである。この後、経済新聞やテレビニュースから抜粋したであろう棒読みの話が幾つかあり、それをする事で「挨拶を交わした」という政治的業務が終了する。これらを定期的にやってないと、
「ご無沙汰ですなぁ」
そう言われてしまい、政治的距離が生まれてしまうらしい。「ご無沙汰」なんていう言葉は熟年夫婦専用語と思っていたが、どうもそうではないようで、この世界では古くから乱用されている今尚ナウい言葉のようだ。
で・・・、私はこの政治的挨拶すら無難に乗り越えられていない。景気を聞かれ、どっちつかずの返答を返すまではいいのだが、その後の棒読みトークになったところで眠くなり、話を経済新聞からスポーツ新聞へ持っていきたくなってしまう。更にこの挨拶は一定の時間を費やすことで政治的業務と成り得るのだが、どうしてもダラダラしてしまうため、性格上、途中で打ち切らざるを得ないのである。
同席した諸先輩に、
「あれじゃ先方の話が面白くないって言ってるようなもんで印象が悪いよ」
そう突っ込まれてしまったが、事実面白くなく、こちらとしても明るい話題を何度も場に提供したが、その都度、先が見えない景気の話に戻されてしまったので仕方なく打ち切ったという流れである。
私の短い経験において、その政治臭が最も強くなったのは補助金がらみの仕事をやった時である。
この仕事の大半は建前で出来ていて、減るのはやる気と名刺と紙ばかりで、モノの出来栄えは二の次とは言わぬまでもそう重視されない。経験が多いわけではないので全てがそうではないのだろうが、気が滅入るばかりで楽しめず、今後はやるにしても政治から遠く離れた場所で「ものづくりマシーン」として使ってもらう事に決めている。
とにかく創業して半年が経過した。半年を振り返りながら上のように政治に向かない自分を思い返しているが、私は自分の事を政治的センスに欠けているとは思っていない。むしろ過敏であり、先方の感情を余計に把握してしまうがために、あえて鈍感であろうとしている風向きがある。「風向き」と書いたが、
「私に政治的能力を一切期待しないでください」
複数の客先にそう宣言しているあたり、政治に鈍感な自分を渇望しているのだろう。
冒頭で書いた通り、永田町をはじめとする税金座談会から落ちてくる政治は社会をつくっていく。それに対し、私は未来の事を憂えてはいるが持論を展開する暇も熱も持ち合わせておらず、人任せで申し訳ないが英雄の登場に期待している。
しかし前述した小さな政治となればそうはいかない。私が目の前のそれとどう向き合ったかで家族のゆく末や自分自身のゆく末が決まってゆく。どうありたいか、どうあるべきか、そして食えるかを懸命に考えた結果、今の結論に至ったのだとすれば大したもんだと自分を褒めてあげたいが、正直、後者が置き去りにされている感は拭えない。
人間は政治を切り離すと素っ裸になってしまう。建前の及ばぬところには実力以外の何ものも存在せず、逃げ場はない。だから政治から離れたところで生きられるのは天才か変人のみで、そこに名を連ねるのは山下清や永井荷風、その他もろもろ一握りの特殊な人物になってしまう。
(果たして政治を嫌って生きていけるもんだろうか?)
私は凡人ゆえ、その不安は強くある。しかし人生は一度っきりでもある。
「右も左も茨の道なら真っ直ぐ歩いてみようじゃないか」
踏み出した先に何があるかは誰も知らぬが、なぜか足取りだけは溌剌としている。
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