第37話 出動(2008年9月)

8月25日午前8時半、村内放送にて消防団の出動要請があった。
南阿蘇村へ住んで初めての出動要請であったが、私はフライス盤を前に黙々と金属加工をしており、放送があっているのは分かったが、それが出動要請とは全く気付かなかった。
私に告げるべき嫁は家にいない。次女を保育園のバスに乗せるため集合場所に出ている。夏休み中の長女もそれに付き添っており、家にいるのは私だけ、完全に出遅れてしまった。
気付いたのは走る団員を発見してからである。血相を変えて走っておられたため、何かがある事に気付いた。事務所を出た。サイレンの音が木霊していた。空を見た。熊本市の方向に高々と黒煙が上がっていた。
「火事だっ!」
私は六角レンチを放り投げると隣にある自宅へ駆け上がった。嫁子供がいないので自分で団服などを探さねばならないが、衣食を嫁に任せっきりなので何がどこにあるかサッパリ分からない。手当たり次第に引き出しを開けまくった。が、さっぱり分からない。
「どこやっ! 分からん!」
混乱していると嫁が帰ってきた。
「前から言ってんじゃん、ここだよぉー!」
実に手際よく色々なモノを出してくれたが、いかんせん全て未開封の新品であり、我が身に貼り付くまで多くの時間を要してしまった。極めつけは長靴で、箱に入っている上、靴の中には形を崩さぬための詰物が入っている。焦っている時、こういうものを取り除く作業は実にイライラする。
「ああっもうっ! なんじゃこりゃっ! もぉよかっ!」
中途半端な格好で家を飛び出したが詰所に団員はいなかった。その代わり野次馬のおじさんとおばさんが数人いて、
「もう車は出たばい! あたは遅か! 急がにゃん!」
キツイ言葉を頂いた。
仕方がないので急ぎ足で家へ戻り、バイクで現地へ向かった。
幸い風はなかった。墨汁をこぼしたような黒煙は真っ直ぐ上に上がっており、その位置も分かるが燃えっぷりも分かる。ボヤではない。これはまさしく火事であった。
現地へ着くと黒煙の下は紅蓮の炎、それが縦横無尽に暴れ狂っていた。知ってる人に合流しようと野次馬を掻き分け前に進み、火事場へ寄ったが知り合いに全く会わなかった。火事場へ続く道はお祭騒ぎで、足元には消火用ホースが何本も走っている。それを跨ぎながら白水、長陽、久木野の消防団員が走り回っている。
「水、取れるかー?」
「角のところー、ホースが曲がっとるぞー!」
「放水よかかー?」
「放水はじめー!」
「まだですー! 筒先が付いとらんですー!」
「え! 聞こえーん!」
「うわっ、水が来たー!」
「あー! ○○君が吹っ飛んだー!」
「圧が強えー! 圧ば落とせー! 振り回されよるぞー!」
「ぎゃー!」
現場は混乱の極みにあった。どこの分団か分からぬがホースに筒先を付けている最中に水が来て、一人の青年が後ろに吹っ飛んだ。吹っ飛んだ先は水田で見るも無残な姿になってしまったが、それどころではない。制御する人がいないホースは暴れ狂い、周囲の野次馬や団員に凄まじい量の水をぶっ掛けながらのたうち回っている。泥だらけの団員は暴れるホースと格闘しながら「とめてくれー」と叫んでいる。
遅れた分際で申し訳ないが本気で笑ってしまった。が、笑う場面ではない。目の前では真っ黒になった木造二階建てが大量の水を欲しがっている。
(何か手伝わねば!)
と、仕事を欲したが、知る人はおらず、ポンプは使った事がなく、人は足りているように思える。変に手伝おうとしても邪魔になるだけだろう。野次馬の隅で静かにしとこうと道の端で佇んでいたところ、重要な任務が与えられた。
「そこの君!」
知らない人に声を掛けられ、
「はいっ!」
返事をすると、「ホースの穴を押さえて欲しい」と指示を受けた。確かにホースから水が漏れ、小さな噴水となっている。
「お任せ下さい!」
私は仕事が与えられた事を喜び、溌剌とした動作で穴に指を宛がった。が、予想以上に水圧が強く、指では押さえきれない。足で押さえた。長靴のゴムが直径3ミリほどの穴にジャストフィットし、完全に水漏れを防いだ。そしてホースの先を見ると、筒先から出る水の飛びが明らかに変わった。
「よぅし!」
私はこの変化を見た事により、初めて自分が消化活動に加わった実感を持った。ただ傍目には暇そうな団員と映ったろう。事実、これが延々続くと暇であった。ホースを足で踏み、ただひたすら立ち続ける作業は予想以上に退屈で、飽きっぽい男の典型としては別の仕事を求めざる得なかった。が、持ち場を離れると小噴水が野次馬を濡らし、周囲から睨まれてしまう。もちろん火事場へゆく水量も減る。
私は人間である事を捨て、ホースの絆創膏に徹した。10分や20分ではない。1時間も絆創膏になった。そして記念すべき初出動、その全てを絆創膏に捧げてしまった。
下火になり、野次馬が離れた段階で私は逃げるように場を去り、知り合いのところへ走った。仕事を欲した。そして露骨に求めた。が、片付け以外の仕事がなかった。
「福山君どこにおったと?」
団員に問われ、「火事場のそばに」と返したが、その内容「ホースの穴を押さえ続けた」とはとても言えなかった。草深い道をポンプ運んで沢へ下り、水を確保した団員の服は汗と汚れにまみれていた。筒先持って火事場へ乗り込んだ団員の服も煤で真っ黒になっていた。私の小奇麗な団服はただでさえ浮いているのに、それが全く汚れていない。何となく恥ずかしかった。
家に戻ると嫁や長女が問うてきた。
「どうだった?」
「穴ば押さえ続けた」
「は?」
「だけん、穴ば押さえ続けて終わった」
「は?」
詳しく説明する気が全く起こらなかった。
消防と飲み会はセットである。この週末、「出動の慰労会」という名目で小さな宴が開かれた。「詰所でこじんまり飲みます」という事だったので、恥ずかしながら参加した。私は隅っこで小さくなって飲むべきであった。が、なぜかそこにコンパニオンがいた。三人もいた。若かった。ノリが良かった。
(静かに呑め! お前は騒げる身分ではない!)
心の声はそう言うが、徐々に徐々に、そう10分に1センチずつ体はコンパニオンへ寄ってゆく。
「いぇーい!」
それから先は何も知らない。
翌朝…。
ホースの絆創膏は完全に二日酔いであった。動けなかった。が、脳味噌は健全で、猛烈な後悔は波の如く止む事を知らない。
(駄目だ…、心に貼る絆創膏が欲しい…)
今年31になったが成長の跡が全く見えなかった。
遠くでは布団から出れない大きな子供を嫁と娘が冷ややかに眺めていた。
「またか」
女四人の冷たい目線、そして溜息、今週も胸に痛いがたぶん来週も繰り返すのであった。
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