第40話 古巣へゆく(2008年10月)

私の社会人生活は北九州から始まっている。
学校を二十歳で卒業した後、安川電機という、まぁまぁ有名な企業に入った。
安川電機を選んだ理由は実父にある。
実父の社会人生活はブリヂストンの熊本工場から始まっているが、数年働いたところで関東転勤を命じられたらしく、それが嫌でプラモデル屋を始めた。この貴重なサラリーマン時代に愛用していたモーターというのが安川電機製だったらしい。
「行きたいところがないなら安川へ行け、地場産業ではアソコが最高」
夕飯の時だろうか、そのような事を言っていた。
学生時代の私は特に目標もなく、毎日を酒とコンパ、それに冒険(自転車による日本一周とか)などで消費していたため、就職活動が始まると誰よりも早く安川電機に希望を出した。安川電機がどういう会社か私は知らない。単に実父が薦めたという弱い理由のみで希望を出した。
決断が早かったという事が私の進路を決定付けた。
卒業後の進路というものは成績上位の者から選択肢が与えられる。上位の大半は大学へ編入する。編入しない、編入できない残りの者が就職するわけだが、それにも成績による順番というものがあって、安川電機は大企業に属し、成績上位を推薦するのが通例であった。
私の成績は後ろから片手で追える。留年しないギリギリの勉強しかしておらず、どうやれば50点取れるか、それしか考えていなかったため、就職するにも残り物を選ぶしかない。が、早くから「安川電機を受ける」と宣言していたため、教授も配慮した。学生は遠慮した。
(福山は、よほど安川に行きたいのだろう)
私を取り巻く環境が勝手にそう思っていた雰囲気がある。
就職活動の一年ほど前、夏休みを二週間ほど潰し企業体験というものに行かねばならなかったが、その時にも私は安川電機を選んだ。むろん実父の言による。これもあって周囲の想像が勝手に膨らんだのだろう。ある友人は教授から安川電機に推薦すると言われたらしいが、就職氷河期で推薦枠が少ない事もあり、
「あれは福山が希望してるので他のところにしてください」
律義に断ってくれたらしい。
こういう曲折を経て、私は安川電機に入った。周囲の憶測は色々あろうが真実は実父の薦めと企業体験時に現場の人からフグをご馳走になった、その二点に尽きる。
入社後は研修が一ヶ月ほどあった。今はなくなってしまったそうだが研修センターというのが北九州の黒崎にあり、繁華街に近かった。ここで同期が寝泊りし、親睦を深めるわけだが、毎夜飲み歩いた。ここで何を習ったのか、すっかり忘れてしまったが飲み歩いた印象だけは消えていない。研修センターの朝は体操とジョギングで始まるのだが、コンパで徹夜し、ジョギングの最中に何食わぬ顔で帰ってきた事もある。
研修センターを出た後も新人研修は続く。現場研修に移る。工場のラインに入ってモーターや制御盤を組む。この時期も飲み歩いた印象しかなく、仕事をしたという雰囲気はない。更にこの時期の私、なぜかモテた。当時、夜の大半をコンパに消費するという輝かしい季節だったが、熊本では全くモテなかった。それが北九州では大いにモテた。
「北九州はよかところ! ここで働けるっちゃ最高ばい!」
気分は完全に浮かれポンチである。が、人生はそういう時にこそ転機があるもので、研修後に発表された配属先は埼玉であった。
ショックではあったが当時の私は若い。九州を出る落胆を新天地への更なる期待が食い尽くした。一ヶ月半に及んだ酒飲み研修で完全に心が酔っ払っており、気に勢いもある。学生気分を抜くのが研修の目的だったろうが、この研修は学生気分を高揚させるに終始した。ただ、今後に繋がる深い友人が多くできた。
私が死ぬまでやり続けるであろう「仕事」というものは埼玉から始まった。埼玉へ行くや面接があり、
「どういう職場を希望するか?」
そう問われた。
応える私、
「アフターファイブが楽しけりゃどこでんよかです」
真顔でそう言ったところに当時の気分が滲み出ている。
埼玉へ配属された同期は七人であった。私以外、全て設計開発に回されたが、私だけ現場配属になった。生産技術課という最も楽しげな課に配属された。
生産技術課というのは生産ラインを作るための課であり、機械設計もやれば電気設計もやる。色んな事を広く浅く学ばねばならない。その点、設計開発というのはピンポイントの深さが求められる。今思えば、ここが人生の分岐路であったようにも感じられ、運命のイタズラを感じる。飽きっぽい男の適性に合った。
これは後に飲み屋で聞いた話だが、同期七人、一人も現場配属の予定はなかったそうである。現場から人を回してくれという要望は出ていたが上層部として回すつもりはなかったらしく、他工場もそうであるように、氷河期の貴重な新入社員は全て設計開発研究で消費する予定だったという事である。が、面接で私を見、上層部の気持ちが変わった。そうとしか思えない。結果として現場に配属された。
これが良かった。人生で自分を褒める瞬間があるとすれば、あの面接に臨んだ「ノリノリの私」である。設計開発へ配属されれば全く違った人生を歩んでいただろう。それが良いか悪いか分からないが、少なくとも空想によれば今より面白くない人生を歩んでいる。
学生気分のノリノリは打たれ叩かれ次第に意気を消してゆく。それが世の常ではあるが、その点、私は運が良かった。特に上司・先輩に恵まれた。
酒井さんという天才肌の機械設計士がいる。天才なので普通の設計はしない。変わった設計ばかりをし、現場を始め各方面から文句ばかり言われている。が、たまに誰もが驚くヒット商品を生み出すため、機械設計士の筆頭として長い間同じ席に同じ場所にいる。未だにドラフター(製図盤)を愛用されており、会社から与えられたパソコンは撮りためた山の写真を見るためのものだと錯覚されている。
もう一人、天才ではないが変わり者の筆頭として相磯さんという人がいる。我流の電気設計をやっている人で、とにかく変わっている。電気図を追っていくと、その先に「オワリ」と書いてあり、
「オワリって何ですか! これじゃ配線ができませんよ!」
文句を言ったところ、
「続きは想像でやるの。そういうところがないと仕事が楽しくないでしょ」
真顔でそう返された。つまり変わっている。
また、この人は儀式を愛しており、様々な儀式を立案された。困ったのは「ロボットお疲れ様の儀式」で、一年間動き続けたロボットを年末に慰労するというのがその目的であるが、何かモニョモニョ祝詞のような声を上げた後、
「えいっ!」
ロボットに向かって塩を撒いた。これで終わりかと思ったら続いて日本酒をかけた。むろんロボットは壊れた。私はこの復旧に長い時間を費やし(相磯さんは逃げた)、この瞬間、相磯さんという上司に憎しみを覚えたが、復旧作業をやりながらフツフツと込み上げる笑いがあった。この愛すべき人格に茶々を入れるべきではないと悟った。
とにかく、この二人が直属の上司という形態で社会人生活がスタートした。
酒井さんは徹底した放任主義者であった。この人は上からモノが見れない人で、教えるとか叱るとか評価するとか、そういったものを根本的に拒絶しており、結局は設計士筆頭のまま誰の管理をする事もなく、自分だけのサラリーマン生活を終え、今もバイト感覚の週休四日勤務を続けている。酒井さんの哲学では、人間というものは勝手に学習し、勝手に育っていくもので、束縛を受けるべきではないと考えられているようだ。その点、右も左も分からぬ新入社員は何かと困った。
「何ばするとよかですか?」
「やる事は自分で探してよ」
そう言われた後、現場に放り投げられ、初めて作ったのが「ベアリング音検査機」という小さな試験機であった。モーターの駆動を伝えるツールとしてベルトもギアも知らない私はそれの代わりとして輪ゴムを用いた。変わったものが好きな酒井さんはそれに興味を示し、
「斬新で良し!」
承認印を押してくれたが、現場から猛烈な苦情を受けると、
「この新人が設計者なので、文句はこれに言って下さい」
私を現場に捨て置き、足早に去っていった。つまりはそういう人で管理というものを毛嫌いしており、注意を受けても右から左へ聞き流す見事な心臓の持ち主であった。が、機械設計をやっている時はまだいい。この酒井さんという人、加工図であれば日に70枚も書く超スピードの達人(設計ミスは多い)であるため、料理人が目で盗むように見て学ぶものが多かった。
問題は、電気といえばの相磯さんである。飽きないが勉強になる点は少ない。モノマネばかりが上達し、電気設計の腕はちっとも上達しなかった。
ちなみに当時の安川電機生産技術課、その教育主眼はメカトロ設計士を育てるという点にあり(メカトロという言葉は安川の造語)、機械も電気も勉強させてくれた。先輩の言によると当時の上司は若手社員の失態を謝るというのが仕事であって、若手社員は外部と接触する事なく数年間モノづくりに没頭できたらしい。設備丸ごと機械から電気まで引き受け、仕上げるまで一人でやるというのが入社数年の課題であり、若手社員はその中で自分の適性を模索した。今思えば終身雇用制の遺物のようにも思えるが、血の通う上下関係を築くのにこれ以上の方法はなく、またそれぞれが自己完結できるという点、技術集団であるべき生産技術課として長い目で見てみれば効率も良いように思われた。
とにかくそういう時代、そういう教育方針の末期に私はいる。
私が入社する前後、派遣社員というものが世の中に現れ始めた。長いスパンで見る教育の目、血の通う繋がりというものが古い遺産のようになりつつある昨今だが、この時期がモノづくりに関する変化の始まりではなかったか。無機質なモノを無気力な人が作り、そこから生まれたモノも愛着を得られぬうちに捨てられてゆく。文明社会の行く末は何となく恐ろしく味気ないものに思えるが、どうだろうか。
さて、電気の相磯さんである。
機械の酒井さんは徹底放任主義であるが、相磯さんは手取り足取り教えようとされる。それもダブルクリックのやり方からパソコンとの接し方、電気図を書く前の儀式、読むべきマニュアルの指示、図面製本の方法、果ては心構えに至るまで、長い時間を相磯さんと寄り添って過ごした。相磯さんという人はとにかく物言いが回りくどい。得たい情報に辿り着くまで多くの時間を消費せねばならず、正直退屈であり、眠気との戦いであった。
この時期、仕事中に随筆を書き始めた。「出来事シリーズ」という随筆で、メールによる定期配信をした。名前の通り出来事を面白おかしく書くという内容で、最初は同期20名ほどに配信していたが、終わる頃には300人ほど配信するようになっており、自分で言うのも何だが人気があった。暇だから始めた随筆だが、反応があると仕事より燃えてきて、何が仕事かよく分からなくなってきた。堂々と書いていたため、酒井さんや相磯さんに注意されたが、結局はこの二人にも配信し、読んでもらっていたように記憶している。とにかく、そういう上司に恵まれたという点、新入社員にとって奇跡といえた。
森山さんという当時の係長がいる。
私にとって初めて見た社会人がこの人かもしれない。森山さんは私をよく叱った。仕事中に随筆を書く私を、当たり前ではあるが、「社会人としての自覚が足りん、学生気分が抜けてない」と叱り、続いて「社会人たるものは」と、長い説教をされた。工場中に響くような怒声を発される事もしばしばあったが、反省したという印象は薄い。今思えば、この森山さんに賛同する人が多数派であるべきなのに、影で私を応援してくれる人が多かったというのも奇跡である。
私が勤務中にやった「要らん事」といえば随筆以外にもたくさんある。結婚指輪を作ったり、裏モードを搭載した工場設備を作ったり、二日酔いの時はクリーンルームで半日寝たり…、挙げればキリがないが、とても受給者のやる事ではない。むろん仕事もやった。随筆に関しても本業が忙しくなると定時後に書くようになり、次第に仕事中は仕事をするようになった。
この時期の私は膨大な熱量を持って日常を過ごしている。昼は仕事して、夜は酒飲みながら仕事して、また酒飲んで文章書いて、その余波を持って週末は出張コンパ(飛行機で行ったりしてた)に明け暮れた。酒をグリス(潤滑材)とし、猛烈な回転数で人生を謳歌した。
設計業務だけをこなす教育機関を終えると、三年目には担当が持たされた。二日酔いの寝所としていたクリーンルームがその担当として与えられ、エンコーダというモータの位置出しをする部品、その生産準備を引き受けた。ただ、人様と業務の形態が違う。というのも、普通は工程(ライン)を考える人と設計者が二人三脚で事を進めてゆくのであるが、私は狭い範囲であるが全てを任せられた。つまり製品開発から上がってきた図面を見、打ち合わせし、ラインを考え、必要な設備を自分で設計できるという生産技術の最初から最後まで、最大の領域を一人でやれるのである。ただし「金が出るところの承認は上司に求めなさい」という条件付であったが、入社三年目としては前例がない広大な業務範囲を手に入れた。たぶん内情は誰も私と組みたがらずこうなったと思われるが、結果として無人の野を行く自由さを手に入れた。むろん当時の私は目眩がするほど喜んだ。
安川電機には五年と三ヶ月いた。終わりまで、その広域な作業を続けたが、新入社員の勢いを持って、その期間を終えたという感がある。結局、係長・森山さんが求めた社会人の像とは遠い存在であり続けた。
「お前の欠点は」
と、製品開発の課長がよく言っていた事であるが、猪突猛進に突き進む点にあるらしい。回りを見る目こそ政治力らしいが、その目のせいで進まない、歪んでしまう事もあり、ないと困るが、あり過ぎても困る。微妙なものだが、全くないのは社会人としてどうか、そういう論であった。
指摘されて分かったが、私の姿勢はそもそも承認というものを必要としていない。それは上司・酒井さんにより教えられた承認というものの無意味さであるかもしれず、自己責任で仕上げねばならないという古い教育方針によるものなのかもしれない。
当時の私は会議が嫌いであった。ウダウダし出すと首の辺りが痒くなり、腹がゆるみ、それを口実に逃げ出すのが常で、会議に関する逃げ足には定評があった。ウダウダが生まれる原因はいつも同じで、建前と現実が行ったり来たりするところから始まる。やらねばならない結果はそこにある。それをどう取るか、どう触るか、人間の探り合いがウダウダを呼ぶのである。その様は何とも滑稽で、もし私に振られてしまえば、
「ええい、ウダウダ言うな! 俺がやろう!」
能力も無いのに安請け合いし、結果、身内に混乱を呼ぶのは分かっていたので退席するのがベストであった。
五年三ヶ月の古巣において、私を嫌う人は露骨であった。工場をスキップしただけで怒鳴る人もいれば、ギャルと話しただけで個室へ呼びつける人もいた。あの時、彼らの怒声は意味不明であった。が、今思えば何となく分かる気がする。管理の苦悩に満ち満ちておられる瞬間、その苦悩のカケラも知らずホップ・スキップ・ジャンピングしている気楽な新入社員は見ているだけで腹が立ったろう。会社は公器であるが、人生は私の器である。組織で昇る過程にあって、公と私の器、どっちがどっちかよく分からなくなり、次第に同じ器になるのかもしれない。
堺屋太一が命名した団塊の世代、その人々が都会には多くいる。上に書いた酒井さんも相磯さんも森山さんもその世代に入るだろう。
9月27日、古巣・埼玉へ行く用事があり、恩師三人と飲むべく声をかけた。幹事を頼んでもやってくれそうな人はいないので、玉城さんという三人よりも少しだけ若い女性に幹事を頼み、三時間ほど一緒に飲んだ。
最高齢の相磯さんだけは入院されていて飲めなかった。森山さんのご好意で急遽病院へ見舞いに行く運びとなり、久々に会ったが何も変わらなかった。ドラえもんのような体がちょっとだけ痩せていたのは気がかりだったが、トーンの高い喋り声、回りくどい物言い、そして独特の世界観、他を寄せ付けぬ個性、全てが以前のままで見た瞬間に笑みがこぼれた。
「これぞ相磯さんだ」
それ以外に言いようがない見事なまでの相磯さんっぷりで、私を形作った成分の一つが凝縮されて流れ落ち、目の前にいるような錯覚を覚えた。紛れもなく相磯さんであった。
今でも私は電気図を書くのが不得手であり、特徴的で配線し辛いと言われるが、この人を見てるとしょうがなく思えてくる。この神々しいばかりの個性を放つ相磯さんこそ、私の師匠(電気に関する)なのだ。
相磯さんは12万円もするロボット、その組立キットを買い、今はそれに夢中らしく色々語られたが、言ってる意味はよく分からなかった。分からないでいい、相磯さんの話が聞けるだけでいい、そう思って聞いた。分からない節回しが相磯さんで、それに触れた現実が今という瞬間をより一層輝かせてくれる。聞いてて胸が熱くなった。
機械の師匠・酒井さんは相変わらずであった。
古巣への入社後、初めての出張は幕張メッセであったが、この待ち合わせ場所に酒井さんはパジャマみたいな服で現れた。こちらスーツなのが馬鹿らしくなる組み合わせであったが、襟のあるものを着ると首がムズムズするらしい。酒井さんの服への無頓着ぶりは徹底したものがあり、課内旅行(北海道)の時もパジャマのような服で羽田に現れた。一同唖然としたが、その酒井さんによる成分も今の私に流れている。つい先日、役人や銀行関係を前にプレゼンをする運びとなったがスーツを着なかった。「着ろ」と言われたが着る気がしなかった。これがなぜか自分でもよく分からぬが、酒井さんの成分により首がムズムズするのだろう。
私は今、これを書きながら酒井さんが送ってきた去年のメールを見ている。
「癌になった。先は長くない。九州にも元気なうちに行きたい」
そのような事が弱々しく書かれている。が、この席上、体調を聞くに癌は癌でも良性のポリープらしく、メールは真っ赤な嘘であった。私としては気にしてるようで気にしてなかったため、怒りこそ覚えなかったが呆れた。が、
「福山君、心配した?」
黒縁メガネを持ち上げる酒井さんのニヤケ顔には腹が立った。とにかく元気で良かった。
また昨日メールを頂いたが、凄く重い(1.5MB)山の写真が添付されていて「立山連峰を登った」とある。続いて登山靴について触れられているが、そこに酒井さんらしさが滲み出ている。あまりにも見事なので下に抜粋する。

山靴を2年ぶりにはいてみると底が1/3くらいはがれてパクパク。しょうがないのでいざというときの紐は準備してでかけた。そっと歩いたので疲れた。靴はなんとかもってくれた。帰ってからたっぷりゴム系接着剤を流し込んだ。まだまだがんばるぞ。

靴底がはがれた登山靴、それを立山へ運んだだけでも事件なのに、それをパクパク使って登りきったところに師匠の恐ろしさと人柄がある。更に接着剤で補修し使い続けようとするところに技術屋の骨頂が見え、何となく嬉しい。この世から消えてなくなるその日まで、人生を謳歌し続けて欲しいと切に願う。
次は永遠の係長・森山さんである。この人は私を最も叱った人であるが、同時に最も語ってくれた人である。現在の心情を包み隠さず吐露されるため、何となく団塊の世代の心情というものを森山さんで理解している節がある。
団塊の世代という点、相磯さんや酒井さんはその色が薄い。まず二人は地元であるが、森山さんは宮崎延岡の出である。地方から中央へ出、永住しているところに団塊の一典型が見える。
森山さんの青春は我武者羅な仕事で消費されたらしい。良質な仕事を提供する事が正義であり、安川電機を盛り上げる事が道であり、それのみに前半生を捧げられたようだ。
私が入社したのは森山さんが五十の頃である。森山さん曰く、最も仕事に打ち込んでいた時期は過ぎていたらしく、人生を考えている局面にあったらしい。自由奔放な私を叱りつつ、
「いやいや、これも人生か、そう思った、思ったぞ!」
真顔で語る森山さんに思わず正座の私であったが、やはり団塊の一典型として、休日や定時後の使い方に困っているらしく、その点、自由気ままな趣味人・酒井さんが羨ましいと言われていた。夜遅くに帰って来、土日も仕事、家でも仕事、この繰り返しを四十年もしていれば急に発生した時間を持て余すのも無理はないが、やはりどこか寂しい。
「何か商売でもしたらどうですか?」
提案してみたが、団塊の一特徴として、組織から離れるのは非常なる困難を伴うものだと錯覚しておられる節がある。私から見れば組織の中で我慢する方が金銭面では潤っても精神的に辛いものがあると思っていて、どっちかといえば精神的な我慢ほど辛いものはないと思っている。が、それは人による適性や感覚の違いがあるのだろう。
しかしながら森山さんは丸くなった。幹事を受けてくれた玉城さんという女性は私より長く森山さんを見ているが、その人から見ても格段に丸くなったらしい。つまり眉間に皺を寄せ怒鳴るという現象が減った。この点、公から私へ徐々に視線が移ったのではないか。勝手な想像だが、森山さんは今になって組織というものを脇に置いたように思える。そして、ゆるり、これからの人生を考えておられるのかもしれない。これは森山さんだけでなく団塊の世代における共通の作業ではないか。団塊の世代といえども死ぬのは一人。高度経済成長という特殊な時代の中、前だけを見、真っ直ぐ突っ走った世代だけに、組織をポンと飛び出した後、前後左右を眺めつつ、ゆるり考える時間がいるのだろう。そんな事を思ったりした。
玉城さんという人は団塊の世代であるが、女性であり、その風向きが違う。私が辞める頃だから、六年前から「会社を辞める」と言っている。が、未だにいる。
「辞めたいけど求められるから辞められないの!」
年甲斐もなく、少女のような台詞を吐き出しておられたが、事実この人の明るさは二十歳のギャルに勝るものがあり、閉塞感が増しつつある職場の照明となっているのだろう。
古い回想であるが、まだ私が古巣で働いている頃、よく玉城さんとテニスをした。ある日、不意に現れた玉城さんは、なぜかスッピンであった。更に服の色はピンクであり、我々は度肝を抜いた。
「いやーん、見ないでー」
玉城さんは自作自演で暴れ回っていたが、これが当時、孫二人を抱えている人間だとは誰も思うまい。姿かたちはともかく、とにかく若い人であった。
回想ついでにもう一つ、私が上京し、初めて熱い接吻を受けたのは玉城さんであった。キスと呼ぶには生ぬるい、接吻と呼ぶに相応しい見事なまでの接吻を先輩たちに羽交い絞めにされた状態で思いっきり口と頬、それにオデコに食らった。玉城さんは赤い口紅をしており、私の若い顔は地獄絵図のようになってしまった。都会は怖いと思ったのはこれが最初であり、以後、女性恐怖症が続いている。
話は飛んだが、そういう人に囲まれて古巣での宴会が続いている。他にも特徴的な人が数名いて、場にもいるため、ここに書きたい気分はあるが、既に長くなっているので止めとく。
とにかく古巣の上司や先輩は老けた。老け続けている。私も老けている。が、変わらないものも多い。
今という瞬間に視野を狭めると、平等に与えられる唯一のものは時間だけであろう。この瞬間をどう使ったかで次の瞬間が決まるという点、誰も変わらない。変わらないが、その中にあって瞬間を共有した過去の人に会うという作業は今の自分を考える上で極めて有益であり、何よりも楽しい。
古巣へ立ち寄った中で印象的な一言があった。入院中の相磯さんがこう言った。
「ものづくりは楽しいねぇ。やってる? 福山君」
古巣は今も健在で、その血と肉は消えようがない。
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