第58話 土日消ゆ(2010年1月) その仕事、納期は25日であった。 バタバタと配線し、チェックを終え、火(電気の事)を入れたのが20日で、22日にソフトを作り始めた。 私はこのソフト作成という地味な作業が大嫌いで、できれば人に振りたいと常々思っているのだが、振ってしまえばその後の管理が難しくなる。だから最後にやる。嫌々やる。それがソフト作成であった。 アソカラの基本スタンスとして、設計、組立、ソフトは私がやるようにしている。これら作業はモノづくりの幹であり、そこから分岐して加工、配線などの枝がある。枝は人に振っても理解に易いが、幹の部分は実に苦しい。知らぬという事は客との会話に精細さを欠く事になるし、納品後、改造を依頼されても瞬発力が劣ってしまう。 気分は乗らぬが業務方針がそうなので土日を潰してソフトを組んだ。 作業は深夜に及んだ。夜な夜なキーボードを打ち続け、何とか日曜(24日)にはカタチができた。 25日月曜、この日は朝から雨であった。 前日遅くまでやったのでいつもより遅く事務所に入り、ソフト作成の続きをやっていると「コンパイルできません」というメッセージが出た。「コンパイル」とはプログラムのチェック機能であるが、このチェックを通らねば保存ができない。アラームコードも発行されているがマニュアルにその記載はなく、小さな字で「複数ファイルを開いている、開いているものを閉じろ」と意味不明なメッセージが出ていた。よく分からないので同時に開いているプログラムを閉じ、再度コンパイルしてみると、また同じアラームが出た。 何度も同じ事をやった。前に進めなくなった。保存しなければ機械に転送する事ができず、コンパイルできなければ保存ができない。二時間ほど前に保存をやった記憶はあったので、「保存せず終了」を選択し、再度立ち上げた。つまり二時間分の作業が消えた事になる。が、そうするより他に道がなく諦めるしかなかった。 事態は下へ転がり続けた。再立ち上げ後、今度はファイルが開けなくなった。アラームは「ABCDEファイルがありません」と、意味不明な文言を発し、「メーカーに連絡せよ」と私に告げた。 嫌な空気になってきた。データ破損というアクシデントはパソコン作業の定期的な儀式であるが意味不明は辛い。納期は今日でウダウダやってる暇はなかった。メーカーのコールセンターに電話をかけた。すると音声ガイダンスが流れ、 「今日は臨時休業です」 突き放されてしまった。 「むむむ!」 嫌な空気が湿り気を帯び、ずっしり重くなってきた。 私は奥の手を使った。メーカーの営業マン(知り合い)に電話をかけ、 「分かる人間に繋いで」 お願いした。 営業マンから技術者直通の番号を聞き出し、開けないファイルをメールで送った。 「頼むから開けるようにして!」 祈りは切実であり、技術者も色んな人に当たってくれた。が、その回答は「修正不能」であった。 「原因が分からんと同じ轍を踏む可能性があるので原因を調査して下さい」 電話を切る私はうなだれた。何が悪いのか分からないまま金曜午後から土日、それに月曜午前が消えた。 少しの間パソコンを見たくなかった。体を動かし気を紛らわそうとした。が、巨大な虚無感が光を遮り、そこから離れなかった。視界は真っ暗闇であった。 雨なのに散歩した。山を見た。子供と戯れた。嫁に愚痴をこぼした。色んな事をやればやるほど憂鬱になった。納期は今日。間違いなく今日。それを思うと気持ち悪くなった。 パソコンに向かった。濃い胃液が出た。尻の辺りが痒くなった。パソコンから離れないと、このまま死んでしまうように思われた。 電話を握った。地元の級友に電話をかけた。 「今から呑むばい」 「ええよ」 それから客に電話した。むろん納期に関する電話であり、正直に告げる以外、説明のしようがなかった。 話を聞いた嫁は夫が徹夜で作業をやると信じていたらしい。私に元気を与えるべく肉多めの夕食を作っていたが、一晩限りの現実逃避を告げられると目を丸くした。次いで笑った。そして呆れた。 子供たちは父に付いて行きたいと暴れ始めた。こういう心境なので付いて行きたい奴は全員連れて行こうと思った。長女の明日は学校、次女の明日は保育園、私の明日はソフト作成、嫁と三女の明日はお茶会である。 「みんな来い! 明日を忘れ今を忘れパーッとやろう!」 しかし長女と嫁は来なかった。小学校は7時20分出発で、現実的な問題が二人を制したらしい。女であった。 父の発するヤケのヤンパチ的雰囲気は長女を詩人にさせた。 「おっとー、手紙読んで」 渡された手紙が実に泣けた。 いきるのは、たのしいことも、かなしいこともあるんだよ おっとー、しごとがんばって、だから、ごはんがたべられるんだよ だいすき、おっとー いままでありがと、これからもよろしくね よく分からぬが子供がこういう手紙を書いてしまうほど私は惨めだったらしい。 次女と三女を連れて家を出た。実家の山鹿まで車で一時間ちょっとかかる。パソコンのある南阿蘇から急いで離れないと病状は悪化する一方であった。 実家に着いた。実父や級友に状況を説明し、「今日は呑む」と宣言した。二人は笑った。どうでもいいらしい。確かに二人にとってどうでもいい。 呑んでる間その事は忘れられると思った。が、河島英五が言うように呑めば呑むほどそういうものは募るらしく、使った時間の馬鹿馬鹿しさが酒で際立ってきた。明日から同じ事をしなければならないと思うと腰に手を当て焼酎ロックをあおる以外、生きる道がなかった。変な笑いが出た。 共に呑んだ級友はレストランを経営している。私と同じ年に起業し、今は借金返済に夢中であるが、彼は彼なりに想いがあり、凄まじい固定費を順調に払い続けている。これに対し私の固定費は赤子のようなもので、だから自由といえるが、それだけに何でも一人、超孤独な作業が続き、出来高も高が知れている。詰まるとこ人生のビジョンが仕事や生活に直結しており、現在というものは積んだ人生の結晶であろう。 久しぶりに遅くまで呑んだ。実家で時計を見ると午前2時であった。 寝るのは遅かったが翌朝の起床は普通に早かった。次女を保育園に送らねばならず、重い体に鞭を打ち阿蘇に戻った。 私は急いでパソコンに向かうべきであった。が、事務所のドアすら開ける気にならなかった。とりあえず26日は風呂の日。ジュースが貰えるから三女と二人、近所の温泉に行った。 温泉から戻ると仕事で使う荷物が届いていた。気にせずパソコンへ向かうべきであったが、嫁を呼んで部品の仕分けをした。 「ハヤク、パソコンヘイケ!」 理性が焦っていた。厳しく私を叱責したが、どうしても気分が乗らなかった。昨晩の息抜きは何なのか、よく分からぬが阿蘇にいたとしてもソフト作成は未着手だったであろう。 「昼飯を食べてからやろう!」 そう決めた。嫁が作る美味い昼飯を食べ、のんびりパソコンに向かった。しかし私の心は動かなかった。体の動きも止まってしまった。しばらくして私はキーボードを叩き始めた。開くべきものを開かず、ついにはこういう駄文を書いてしまった。 (いかん! やばい! だめだ!) 男の子はムダが好きな馬鹿野郎である。しかし、こういうところが愛すべき点に思える。 気が重い。 悲しい作業はこれからである。 |
生きる醍醐味(一覧)に戻る |