第63話 一人いる夏の日(2010年7月)

嫁子供が埼玉に帰省している。従って、二週間ほど独身である。
常日頃の私なら何かと予定を入れるところであるが、今回は溜まった仕事を少しでも片付けようと思い、特に予定を入れなかった。
ただ、なるべく家にいないよう気を使った。私という人間は類稀に見る寂しがり屋であり、更には掃除・洗濯・炊事という日常の課題に魂が拒否反応を示す事も分かっており、一人でいるというのは何かと危険であった。
対策として、まずは出張を入れた。嫁子供を空港に送った後、家に戻らず呑みに出た。その晩は実家に泊まり、翌日は実家から客先へ向かった。
出張が終わり家に戻ったのは夜であった。家への損害を最小限に抑え独身三日目を迎えた事になる。
三日目の朝、初めて家で飯を食った。嫁が用意していた冷凍ご飯をチンした。ラップのまま食べようと思ったが食いにくいため食器を手にした。が、ためらった。使ったが最後、彼らは台所で嫁の到着(十日後)を待たねばならず、しばし風呂に入れない。カビの発生は必至であった。
(ええい使っちゃえ!)
思い切って食器を使った。後は野となれ山となれ、目を瞑って生活するのみであった。
仕事は順調であった。邪魔する子供もおらず、夜も遅くまで勝手気ままにやれた。が、徒歩数秒の距離とはいえ、休むべき場所に電気が点いてないというのは寂しがり屋の気を落とした。
寂しさを紛らわし、いらん事をせず、家が荒れぬためには出張が最も良かった。火曜日には接待という名の野球観戦を泊まりの出張として組み込み、木曜にも泊りがけの出張を入れた。日頃は断る出張の依頼もこの時期は二つ返事で引き受けた。
週末は消防団の寄り合いがあり、日曜は集落の人に誘われ高校野球を見に行った。鬼のように暑い日で、三時間の観戦なのに手足が真っ赤に焼け爛れた。急な日焼けはビタミンを奪うらしく、この後に訪れる厄災の伏線だったのかもしれない。
そして火曜日、独身六日目であるが、どうもこの日は私にとっての厄日だったらしい。
まず目覚めて最初に見たものがゴキブリであった。「一匹いたら三十匹」と言われるゴキブリを、なんと三匹も見た。つまり九十匹いる計算になる。ゴキブリが嫌いなわけではないが、目覚めの一発に黒い残影を見るのは気分のいいものではなかった。
仕事をしてても嫁の加工ミスと私の設計ミスが次々見付かり先に進まず、気付けば出発の時間になってしまった。何の出発かというと野球観戦であり、熊本で年一回きりの公式戦(ソフトバンクVS楽天)であった。
ゴキブリや仕事の事も忘れノリノリで準備し電車に飛び乗ったが、乗り換えの駅に電車が来なかった。駅員の説明によると阿蘇谷豪雨で電車が止まったらしい。私が待つ立野駅周辺は見事に晴れており、熊本方面も晴れていた。二駅先の大津駅からは電車も普通に動いているそうで歩けばよいが田舎の二駅は都会人の想像を絶する距離があり、間違いなくプレイボールに間に合わなかった。仕方がないので消防団の同僚を呼び、大津駅まで送ってもらい、予定の三十分遅れで水前寺に着いた。
水前寺からはチンチン電車(路面電車ともいう)に乗る必要がある。信号待ちをしていると列車が駅に到着した。信号ぐらい待ってくれると思いきや我々を待つ素振りも見せず電車はサッサと行ってしまった。腹が立ったので次の駅で乗ろうと歩いたが、次も信号待ちで行ってしまった。
(今日は何かある!)
さすがにそう思ったが、この先の事は想定外であった。
私はソフトバンクのユニフォームを着ていた。首にはメガホンを下げており、誰がどう見ても県営藤崎台球場を目指している事が分かった。そんな私の横に車が停まった。
「乗っていきなっせ!」
中年の二人組であったが、ご親切に見知らぬ私を拾ってくれた。この二人、野球観戦には行かないらしいがソフトバンクファンらしい。車内大いに盛り上がり、駄洒落大会みたいな事もやった。流れていた曲はアリスのベスト盤で、朝から荒れていた気持ちが何となく落ちついた。やはり私は若者文化より中年文化に適正があるらしい。
道が混んでいた。年一回の公式戦に熊本の街も興奮気味で少々血圧が上がっているようであった。運転している中年は熊本の多数派・渋滞アレルギーの持ち主で、
「裏道で行こう」
そう言うとハンドルを左に切り、白川に沿って走り始めた。白川を渡らねば熊本城には行けない。しかし渡る気配がなく、車は海に向かって進み続けた。どう考えても熊本城から遠ざかっていた。早めに制すべきだったが、中年は気分よく運転しており、鼻歌まで飛び出していた。
「ホークス・チャンピオーン!」
叫びながらアリスのチャンピオンを歌っていた。決して邪魔してはいけない展開であった。車は右へ左へ細道を入り、ついには熊本駅の周辺に達し、中年から歌が消えた。
「あれ? 熊本駅に出てしもた?」
やっと迷った事を認めてくれた。
「よかです! 後は歩いていきます! ありがとうございました!」
私は車を飛び降りた。この車で目的地周辺に辿り着く自信がなかった。
熊本駅前でもチンチン電車は目の前で行ってしまった。こうなってしまうと熊本名物チンチン電車も憎らしい奴に見え始め、
「もう絶対乗らん!」
歩いて行く事を決意した。
今これを書きながら地図を見ている。藤崎台までの距離は2.5キロらしい。が、足元は雪駄であり、気候は夕立前の蒸した夏であった。本気で辛かった。汗ビショビショになった。
着いた瞬間、プレボールのサイレンが鳴った。
藤崎台球場はクスノキがいい。元は藤崎八幡宮があった場所で、社が西南戦争で焼け落ちた後、色んな曲折を経て野球場になった。外野席に飛び出す巨大なクスノキ群は八幡宮の名残であり、こんなにありがたい球場は他に類を見ないのではないか。
風も良かった。ドーム球場には冷房が効いているが藤崎台には八幡様の夏風が吹いていた。
「いいねぇ」
あかね色の空に優しい風、右も左も喜んでいたが、日が落ちて風が止んだ。その瞬間、喜びは憎しみに変わった。猛烈に暑くなった。
「あちー! なんでビールの売り子がおらんとやー!」
汗だくの太り身は心底叫んだが、この球場は狭くて売り子が歩けないらしい。買いに行かねばならないが、出るには狭過ぎて動けず、ビール売り場もカキ氷売り場も長蛇の列であった。
試合は気候通り熱のある良い試合で、その点だけは良かった。最も盛り上がったのは楽天の山崎が審判にキレて退場になった時と代打で出た松中(熊本出身)が打ち取られた瞬間であった。松中に関してはその前段がいい。松中はベンチスタートであった。が、監督に「俺を出せ!」と、アピールをし続けた。攻撃が始まる毎にバットを持ってベンチを出、秋山監督の前で素振りした。そして八回、最高の場面で打席に立ち、ファールフライで終わった。その時、24000人が一斉に「はぁ」と言った。凄まじい「はぁ」で、これほど揃った「はぁ」は今後聞けないだろうと思われた。
この日どれくらい汗をかいただろう。想像もつかぬほど汗をかき、そのまま居酒屋に流れ、ビールと焼酎を呑んだ。男三人で呑んだが、
「明日が早いので帰る」
二人とも足早に去って行った。
一人残された私はホテルへ向かった。南阿蘇へ向かう終電は9時という全く使えない時間帯で帰りたくとも帰れなかった。チェックインしながら手元の時計を見ると午前様になっておらず、ホテル前にはスナックがあった。キーをもらわずスナックに直行し、閉店の3時まで呑んだ。ここでもママ、客、共に中年で、やはり私の適正は中年にあるらしい。
ホテルに戻った私は千鳥足の状態であった。キーをもらい壁にぶつかりながら部屋に入ると冷房が入っていなかった。部屋はサウナのように蒸しており、また汗が噴き出した。飲むものを次から次に噴き出して一日が終わる感じであった。
濡れた服を脱ぎ、スッポンポンになった。
「あちー! たまらん、しぬー!」
そう言いながらタオルで汗を拭った事は憶えている。しかし、次の記憶は朝であった。
翌朝、喉が痛くて目が覚めた。クーラーを切り、冷たくなった肌にバスタオルを巻いた。
「やってしもた!」
体調管理という点において自殺にも等しいルーチンを回してしまった。
【大量の飲酒 → スッポンポン → おやすみなさい】
色んな著名人がその恐ろしさを教えてくれているのに何をやっているのか。大量に発した汗はエアコンとタッグを組み徹底的に体温を奪った。悪寒がした。熱もあるように思えた。が、この時点では喉のイガイガが勝っており、大して気にならなかった。
寂しがり屋が最も恐れているのは一人っきりで病気になる事である。私の弟は未だ一人身であるが、先日40度近い高熱に一人うなされたらしい。それを聞いた時、熱がどうこういうより、その環境で一人っきりというシチュエーションに私の肌が反応した。鳥肌が立った。これは日本男児の健全な反応といえる。
日本人は古くから孤独死を恐れた。女は大して恐れないかもしれないが、男がそれを恐れ、何かにすがりたいと思い、集落に寺を引っ張り込んだ。人口に対する寺(坊さん)の数というのはハンパじゃなく、一人あたりが出していた孤独死に対する気休め料というのは世界に類を見ぬほど高かったのではないかと想像する。
「無い袖は振れぬ」という純然たる理屈の中で、我々生産層は優先順位を付けて色んな世界を生かし生かされるわけだが、少し前、理屈が分からなかった時代、例えば疫病が流行ったら祇園さんを勧請する事で気休めにした。今それに充てていた金はどこへ行ったか。医療の分野へ流れたように思える。新型インフルエンザが外国からやってくると言って、祇園さんを勧請した集落はなく、集落の境に猿田彦を祀り、その事で集落が守られると思った人もいないだろう。インフルエンザになれば神社や寺に身を置く人も普通に病院へ行く。色んな事が理屈として解明され、分業化される昨今、神社や寺の大規模運営は厳しくて当たり前であり、その事は当の本人が最もよく分かっているはずである。が、併せて理屈に寄り過ぎる危険さも我々生産層を含め分かってきたように思え、寺や神社のやるべき事も自ずと見えているような気がする。少なくとも観光という文明機能の一端に寄り添って生きるべきではなく、神社仏閣は文明に乗っかった時点で違うものになるという事を認識して頂きたいと切望する。人間の想念における必要性を重視せねば、この業界は萎む一方に思える。浮世離れすべき世界が浮世に甘えて生きるのは何とも痛い。浮世に暮らす人々はすがる場所を失っている。
体調不良が最も酷かったのは二日目であった。初日は微熱が続いたが二日目は朝から高熱が出た。
置き薬屋の策略にまんまと乗るカタチになってしまうが、車の運転ができないほど頭が痛かったので薬屋の営業が置いてった置き薬箱から風邪薬を飲んだ。効いたような効いてないような、よく分からんが、とりあえず飲み続けた。
次の朝、仕事をやれる状態じゃなかったので敷きっぱなしの布団に転がっていると客が来た。客というものは来て欲しい時に来ず、来て欲しくない時に来ると言ったのは熊本市のとある経営者であるが、なるほど先輩の言は深かった。解熱剤を飲んで応対し、一時間ほど商談したが何を言ったかよく憶えていない。
寂しがり屋の病人は早く眠って治したかった。しかし呼吸が苦しくて眠れなかった。気を紛らわせようと思い、隣のトトロのDVDを見た。なぜか分からぬが枕がビッショリ濡れるほど泣けた。トトロでこれだけ泣けたのは私が世界初ではないかと嬉しくなった。娘と電話したいが電話するのは「寂しいです」と言っているようで恥ずかしいので、電話してもらいたくメールした。熱がある事を伝え、次いで子供は元気か尋ねた。普通の神経なら子供から電話をよこすと思われる。しかし嫁は家の状態を心配したらしい。なんと私の実家に電話をかけ、両親を派遣してきた。「掃除をやりに阿蘇へ行け」とは言えないが「看病に行け」とは言えるらしくチャンスと思ったらしい。
三日目にして病院へ行くと気管支炎と言われた。
「思い当たる不摂生はありませんか?」
そう問われたので、あの晩の事を説明すると「肺炎の危険性もあるから」と、レントゲンを撮られた。抗生物質を点滴し、よく分からぬ薬を大量に貰い、アルコールを呑まずにいると瞬時に熱が下がった。最初から病院に行けば良かった。
そして今日を迎えた。
今日は朝から仕事をやり、夜はこういった長い文章を書いている。
(呑みに出るか?)
そうも思うが、私を診た医師が「この薬を飲み終わるまで一滴も呑まない事を約束して下さい」そう言った。更に会計の時、診察室から飛び出し念を押した。
「呑んじゃ駄目ですよ」
よほど酒好きな男だと思われたらしい。
嫁子供に会えるのは三日後、今回は車で埼玉へ迎えに行く。これを書きながら、ふと同じような話を前に書いた事を思い出し「生きる醍醐味」を振り返ってみると、ちょうど三年前、第13話で書いていた。男はホント変わらない。
「変わらない」で思い出した。私は仕事柄、工場に入り浸る事が多く、パートさんと茶を飲む機会がある。私に話しかけてくれるパートさんはなぜかバツイチが多く、男の事で常に問題を抱えておられる。
「福山さん、どういう男が一番よかろか?」
「寂しがり屋の強がりが一番よかですよ、酒さえやっときゃよく働き、たまに甘えさせると機嫌もいい、女にとってこぎゃん操りやすい相手はおりませんよ」
「でも、男は変わるけんね」
「違います、男は変わらんとです、女が変わって男がすねる、それを分かってやらんといかん、めまぐるしく変わる女に男は付いていけんとです」
「そうだろか?」
「そぎゃんです」
「でも、寂しがり屋の強がりって、どこで見つけると?」
「九州の酒場で転がっている男の五人に三人はそういうタイプです、石投げて当たった人間にアプローチしたらどぎゃんですか?」
「あら、高確率!」
「はい、酒を呑む理由は寂しさを紛らわすためですから」
一人、夏の日、呑めない夜、星を眺める病人に集落からの差し入れが届いた。
「餃子持ってきたぞ! ビール呑みながら食いなっせ!」
涙が出るほどありがたい人間の優しさであった。
夏の夜は色んな事が身に沁みる。
独身生活は三日で十分、嫁より早く死ぬべき男の典型であった。
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