第64話 普通に築地松(2010年8月)

何となく出雲へゆく事になった。
前話で書いたが嫁子供が埼玉に帰省しており、それを迎えるため車で埼玉に向かった。8月3日であった。
埼玉に着いた私は長時間の運転に疲れていたが、義母も疲れていた。丸二週間も田舎の三人娘と付き合った義母は見た目こそ変わらぬものの何かゲッソリ痩せていて、
「きつかったでしょ?」
聞くと真顔でうなずいた。
義姉も近くに住んでいて丸二週間一緒にいたらしいが、こちらも疲れきってしまったらしい。笑顔のぎこちなさが尋常じゃなく、私が三人娘を連れて墓参りに出ると、義母、義姉、その子供、即座に昼寝タイムとなった。立ってるのも苦痛なくらい疲れてしまったらしい。
埼玉には二晩泊まる予定であった。が、この現状を見てしまうと早めの退散が得策に思えた。更に自由奔放の代表格、次女の八恵が荒れていた。規律と監視を重んじる都会生活に次女は適正がないらしく、帰省の度に荒れた。今回も一人イライラし、事ある毎に反発したらしく自ら居場所を失ってしまっていた。即効性のある対策は広い場所で勝手にさせてやる事だが、都会は場所がないからそういう社会になっている。言い換えれば規律と監視は狭い場所で人が寄り添って暮らすためのルールであり、程度の差はあれ社会の中で暮らす以上、それに適正を持たねば必ず弾き飛ばされる。弾き飛ばされた人はどうするか、芸術家になるか、天才科学者になるか、消えてなくなるか、いずれにしても針の穴を通すような細い道を歩まねばならず、親として子にすすめるべき生き方ではない。しかし適正というものの大半は先天的なものらしく、八恵は八恵、父は父、押さえられるほど焦がれるのが適正というものであった。
出発を一日だけ早めた。
別れの瞬間、義母、義姉、嫁子供、目を赤くして別れを惜しんだ。皆が皆、視界朦朧となるくらいに遊び、早めの解散を祈っていた事は間違いない。間違いないが別れの瞬間は泣いてしまうというのが女の基本らしい。平穏な日々を望むのも女、劇的な瞬間を望むのも女、女が希望する生活の波形はデジタルであり、盛り上がった後、次の瞬間には平穏を望んでいる。アナログな男には理解できない摩訶不思議な世界である。
埼玉から熊本までは1300キロの長旅である。真っ直ぐ帰るのはバカバカしいので途中愛知で高速を降り、久々に家族旅行をした。週末は地元消防団の祭があり、這ってでも帰るよう言われていたが、平日は夏期休暇という事で休みをとっていた。一日早く出た事もあり、
「もう一泊できるぞ、どっか行くか?」
車中盛り上がり、大阪、山口、北九州、色んな案が挙がった。で、結局は冒頭に書いた出雲へ行く事になった。出雲は義母の里であり、嫁の祖父が米寿を超えて尚健在である。即座に電話し了解を得た。
8月5日、愛知県豊川市を午前9時に出、出雲に着いたのは午後4時であった。子供たちは狭い車から解放され、広い庭に飛び出し、家の子供(はとこ)と遊び始めた。嫁は久しぶりの出雲訪問だから色々と積もる話がある。右に左に動き回り、私の隣にいなかった。私は仏壇に参り、茶を頂いた後、
(さて、何をしよう?)
暇人となった。幸い私には散策という趣味があった。家の周りを散策すべく、ふらり家を出た。
この集落は「カワナリ」という。義母と嫁は自分の知ってる事を人も知ってると錯覚している節があり、二人の口から「カワナリ」という地名を何度も聞かされていた。
「里はどちらですか?」
「カワナリです」
初回、意味不明だが、繰り返される事で出雲の「カワナリ」という地名である事が分かった。が、今回の訪問で「カワナリ」という地名が極々小さな集落名である事が分かった。
目的地に着くためカーナビに住所を入れる必要があり、出雲に入ってから「カワナリ」を調べた。が、住所からその名は消えていた。これを書きながら1/25000の地図を見ると「川成」とあるが、地名辞典の小字の欄に記載がなく、地名読みがな辞典にも川成の記述がなかった。
川成は現在の住所表記によると出雲市松寄下という。視界いっぱいに美田が広がり、美田の中に小粒な集落が距離を置いて点在していた。家は右も左も立派であり、どの家も松の映える見事な庭を持っていた。
太陽の落ちる方角から風が吹いていた。山育ちの感覚でいえば風は山を転がるものだが、ここの風は地平線を突き進んできた。潮の匂いもした。海が近い。
日が落ちるまでには一時間以上あるように思え、川向こうには巨大な松と御堂らしき屋根が見えた。嫁子供は茶菓子を交えて談笑しているらしく、庭に笑い声が漏れてきた。父の存在を気にしている様子は微塵もなかった。少しだけ寂しかった。しかし、この瞬間こそ男である事の確認であった。
酒を入れずに盛り上がれる女たちを男は尊敬の眼差しで見詰め続けてきた。輪に入りたくて何度も何度も飛び込み、失敗し、結果コミュニティーを女に託さざるを得なかった。男は孤独に太陽と過ごし、生産者として実を上げねばならなかった。そして月と酒の力を借りる事で僅かばかり喜びと終生の友を得、小さな一生を終える。
日暮れまでの短い時間、孤独な私を満たしてくれるのは好奇心であった。この風景における松の気配は只事ではなく、散策者としてヨダレの出る思いがした。歩きながら幾つかの家で立派な松を眺めた。家の人に会うと必ず松を褒めた。
「いい松ですね」
「いんや、普通だ」
巨大な松で家を囲むのが「普通」な集落、それが義母の実家「カワナリ」であり松寄下というムラのカタチらしい。
図書館でちょっと調べてみた。このカタチは築地松と呼ぶらしく、そもそもは防風が目的の素朴な囲いであったらしい。文化の発端は必要に迫られた上の機能追及である事は上も下も同じだが、この集落の悩みは今も昔も風にあるらしい。
日本全国、海沿いのムラは風に悩み、例えば唐津は二里(8キロ)の松原を設けた。防風目的だった二里の松原は地域に根付き、熟成期間を得、「虹の松原」という文化的景観に育った。松寄下も同じ事で築地松という集落固有の文化に育ち、こうして旅人を楽しませている。
川向こうに行きたいが渡るべき橋がなく、ふらふら歩いていると中学校にぶつかった。部活帰りの少年たちがヘルメットをかぶり列を成して出てきた。挨拶が良かった。顎ヒモをしてるからヘルメットは脱げないが、脱ぐべくツバに手をかけ、元気な挨拶を受けた。集落に良い血液が流れていた。
目の前を流れている川は高瀬川というらしい。中学校で支流と重なり少しだけ流れ、海へ着く直前、神戸川に注がれる。
堤防を海に向かってふらふら歩いた。堤防から川成の集落を見下ろす事ができた。見下ろしながら、
(川成は分家が拓いた新しい集落だろう)
その事を思った。例えば築堤技術が未発達な時代、この川成地区は梅雨の度に浸かってしまっただろう。江戸時代、それも後期、ある程度築堤技術が発達した後、本村から出た次男三男が田畑を譲り受けて集落を形成したのではないか。
松のある御堂に着いた。禅宗の寺であった。老人が一人、木陰で涼をとっておられた。巨大な松は寄り添った墓の中央に立っていて、頭抜けて高かった。
「立派な松ですね」
老人に話しかけたが、又も「こんなものは普通である」と鼻で笑われた。この集落の人たちにとって巨大な松は単なる木であり全く気にならないらしい。しかし見知らぬ旅人が「気になる」といえば、確かに気になる点もあるという。
「昔はね、こんなのがゴロゴロしとった」
老人の思い描く里の風景もやはり松にあるという。そして旅人に言われて気付いたが、明らかに松は減っているらしい。老人の言う昔がどれくらい昔か分からぬが、この辺りは松の巨木に覆われていたそうな。それが松食い虫にやられ続け、今は見る影もないという。「普通」という言葉は「普通であって欲しい」という叫びかも知れず、その恨み節はクスリに及んだ。老人によると松食い虫用のクスリが出てから松食い虫が強くなり、普通の松が消え、弱々しい薬漬けの松ばかりになったという。
老人の話が面白いので長くなってしまった。気付くと日が落ちかけていたので神社へ急いだ。朝山八幡宮というのが村社らしく、杉で葺いた立派な本殿があった。出雲にある神社なので祀ってある神様も違う事を期待したが、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀っており、普通の八幡宮であった。
この三天皇というのは天皇家を飛躍やせたスターであり、八幡宮というのはスターの飛躍に乗っかり全国展開を果たした戦いの神である。後世の武士が「南無八幡」と言って戦いに臨むが、それは連戦連勝で飛躍を遂げた三天皇にあやかろうとしているに過ぎない。我々九州人の祖である熊襲や隼人がこの時期にやっつけられ、それが縁で九州にある八幡さんが全国津々浦々で祀られるというのは何とも複雑だが、歴史なんて勝ったもん勝ち、そういうものであろう。
ところで義母の実家・川成が新しい集落である事は間違いないようであった。寺で会った老人が、
「昔は川向こうと水でもめた」
その事を回想された。水は少なくてももめるが多過ぎてももめる。水でもめるのは稲作集落の常識であるが、特に増水時、川の水をどこに流して本村を守るかというのは、村が戦闘的になる大きな要因であった。その点、神戸川と高瀬川に挟まれた川成を含む広大な田園は地形的に弱く、自然、次男三男は川向こうに集まらざるを得なかったように思える。
地図を見ながらこれを書いている。朝山八幡宮の隣は陸上自衛隊の出雲駐屯地があり、その裏は浜山という小さな丘がある。この丘は防風のため行政が集中的に松を植樹したらしく、浜町、松寄下町がこの恩恵を受けている。つまり、この恩恵を得ている地点に人が寄り添っていたと思われ、そこを出た人が散っていったのだろう。
神社を後にし高瀬川の分岐点に立った。日本海に夕日が落ちた。マジックアワーの時間帯であるが、赤く染まった田園と田園に浮かぶ築地松のシルエットが夢の世界のように思えた。
「おーい!」
声の方向にシルエットの嫁が見えた。身長173センチの嫁はシルエットも巨大で、動く築地松かと思った。家の娘さんと二人、自転車で走り寄ると、
「遅い! みんな待ってるよ!」
叱った後、急ぎ足で去っていった。
私は歩きながら築地松に見とれた。分村の強烈な主張が感じられた。嫁の先祖たちは自分たちで家を守らねばならず、本村も行政も当てにしなかったに違いない。自分たちで自分たちの機能美を追求し、集落のかたちを築き、今に至ったと思われる。だから浜山周辺が近代文明に均されても、この田園には独特の景観が残っているのではないか。
日が落ちた。呑みながら集落の松に対するこだわりを聴こうと思った。が、維持する事が困難という話は聴けても、愛着に関する話は聴けなかった。やはり「普通」の中にいると気付かないものなのかもしれない。
朝も早朝から散歩した。早朝と思っていたが既に嫁の伯母は庭掃除を始められていて、小さな雑草を一本残らず取っておられた。屋敷を美しく保つ事が習慣化しておられるようで、築地松内の広大な敷地にこれだけの美意識を展開するのは並大抵の作業ではなく、頭の下がる思いがした。
連なる赤瓦が朝日を受けて輝いていた。赤瓦の和風建築は中国地方の名物だが、新建材が隅々まで行き渡る昨今、急速な勢いでその特色は消えつつある。しかし、この集落は赤瓦である。嬉しいこだわりが残っていた。
それぞれの家が我家に墓を持っているのも良かった。江戸期における農業分家の主張は墓にあるように思え、本家集落の寄り添った墓を笑うかのように我家の脇に墓を持った。拓き、暮らし、その場所で死ねる、分家の主張には一所懸命の鎌倉的芳香があり、本村が発する律令の風を笑っているような気配があった。
隣の空き地に小さな祠があった。嫁の伯母に聞くと荒神様らしく、これを基点に講を構成し、横のつながりを保っていたらしい。しかし今となっては廃れつつあるそうな。
仏壇も良かった。神と仏が同居していて阿弥陀如来の横に天照大神がいた。出雲大社は大国主命を祀っているはずだが、その神様はどこにもなく、とにかく神と仏がそこにいるというのが仏壇の風景らしい。
伯母は飽く事なく草むしりを続けていた。美しい集落に理屈はいらない。こういう作業の繰り返しが文化を生み、独特の風景を造り、旅人を感動させるのだろう。
「この集落は出雲大社より魅力的ですよ」
伯母にそう言ってみた。
「アータ、なしてそげな事を言う?」
真顔で返され、返答に困った。
「いや…、何となく…」
説明するにはやたらと時間が要るように思え、この文章を書くに至った。
別れ際も良かった。家の娘さんが「なんで帰るん?」を連発した。どうやら長女・春と仲良くなったようで、
「一晩で帰るのは許さん!」
そういう気迫で私に迫ってきた。嫁の祖父も「せめて二晩は泊まれ」そう言ってくれた。が、阿蘇で消防団が待っていた。村の事情を優先するのは封建主義の名残であり、文化の根底であろう。その点、この川成という集落を愛しく思えたのは田舎の発露かもしれず、申し訳ないが先を急いだ。
川成を出てすぐ新建材による真新しい家を発見した。むろん築地松はなかった。
文明は川成を囲っていた。すぐそこまで来ていた。しかし遠慮しているようにも思えた。一つは道が細い。そしてもう一つは早朝からの庭掃除で築地松が美しく維持されている。
文明は理屈である。理屈なし維持される築地松を文明は超えられずにいる。しかし近い将来、普通に超えてしまうだろう。
日本全国、色んな普通が風前の灯である。
生きる醍醐味(一覧)に戻る