第69話 十年〜叡山など〜(2011年11月)

この旅に同行している道子と太陽は歴史というものに興味がない。道子は美味いものが食えればいいと思っており、太陽は高いところに登れればいいと思っている。が、この町(大津市)は至るところに歴史が溢れている。三日目はグルメと登山を織り交ぜつつ歴史散策であった。
「どこ行きたい?」
念のため末っ子二人に問うてみた。が、案の定二人は考える事を嫌い「任せる」と言った。「任せる」と言いながらも文句言う気は満々で隙あらばクレームを出そうとしているのはその態度から見え見えであった。
「我々は末っ子だ! 我々の好みを察し最高のプランを組め!」
末っ子サラブレッドに囲まれた長男の立場は実に苦しく、まずは朝市に向かった。幸いにも週末限定で朝市が開かれており、開催場所がホテルから近かった。
「適当に買い合って食べよう」
適当という言葉には「適度な量」を盛り込んだつもりだったが、二人にかかると華やかな宴席ができあがった。満腹になってしまった。
朝市の場所は浜大津という駅である。琵琶湖からの風が実に心地良かった。琵琶湖は九州人にとって湖とは言い難い。湖岸でくつろいでいるわけだが何となく海岸にいるような気分になった。
古くからこの辺りは近江(おうみ)と呼ばれている。静岡の浜松湖辺りは遠江(とおとうみ)と呼ばれるが、いずれも京都から見た湖の遠近が地名となっている。
「みず」は淡水を指し、湖は水海であろう。我々現代人の語感でいえば、湖と海はえらい違いのように感じてしまうが、古くは海も湖も「うみ」で、水の塊をいちいち小分けしてなかったように思える。そういう点、末っ子二人は古代人に近い。心地良い風を大きな気持ちで楽しんでいる。その点、現代人の私は実に小さい。風の種類などくだらぬ事を考え、心地良さを投げやっている。
「これは単なる風ではない。海風でないが湖風とも言わない。さて、なんだ?」
ややこしい。実にややこしい。現代社会そのものではないか。
万物を小分けする事で現代の精密な社会は成り立っている。その影響で「こころ」というものは追い込まれ、実に苦しい。小分けされたパーツは論理分解の産物で説明の素となってくれる。しかし「こころ」は勝手気まま、ぼんやりの象徴で論理の対極にいる。論理に両脇を固められる事で「こころ」は動けなくなる。
京阪電車で浜大津の隣駅は三井寺である。
「比叡山へゆく前に三井寺へ行こう」
私がその事を提案した時、二人は三井寺を知らなかった。「知らんけど有名なら行く」そうも言った。
二人は三井寺の読み方すら知らなかった。「みついでら」と読んでおり、財閥三井家の菩提寺とでも思っていたらしい。二人に言わせれば「そういうものは知らなくてもいい」らしく「これから知ればいい」と言う。確かに仰る通りで、私は予習をし、寺門派、山門派、その確執の片鱗に触れたいとか色々考えている。馬鹿らしい。実に馬鹿らしい。知らぬ「みついでら」に何か美味いものを探しに行く二人の方が、よほど楽しげに見える。
三井寺は「みいでら」と読む。町の名にもなっているが正しくは園城寺という。天皇家が三代使った産湯の井戸がある事から「みいでら」というらしい。
説明板を読んだ二人は「なるほど」と言った。曇りなき眼でサクサク吸い込んでいる。私はいけない。これは嘘だ、これは後付けだと勝手に思っている。山門派(叡山側)が「あそこには三つの忌むべき場所がある」と適当に言いふらし、それが通説になったとすれば三忌寺になる。巳は南東の方角だが、三井寺は京都の東にある。巳の方角を守る寺とすれば巳寺(みでら)になり、「みいでら」になったとしてもおかしくない。
想像こそ史跡巡りの醍醐味だと私は勝手に思っている。が、得た情報をサクサク詰め込み、次の情報を得るためにサクサク捨てるというのも実に痛快で新しい旅のかたちのように思える。これを観光というのだろうか。観光に看板は付きもので、看板を手早く渡り歩くための観光客流の作法であろうか。
「早くしてよ!」
先の方で道子が叫んだ。二人は境内をサクサク進む。私は万事この調子だから足が鈍い。
三井寺は天台寺門宗の総本山と書いてある。宗教団体はヤクザと一緒で喧嘩する度に枝分かれしている。ゆえ、ザッと考えねば複雑過ぎて脳味噌が幾つあっても足りない。つまり天台宗らしい。
三井寺は壬申の乱のゴタゴタに名前が出てくる大友家が作ったらしい。で、祖といえる人物は円珍だそうな。円珍は空海・最澄に続いて唐へ渡った有名人だが、同じパターンの有名人・円仁と比叡山で対立したらしい。円珍没後もこの対立は続き、円珍側は寺門派、円仁側は山門派と呼ばれ、それぞれ三井寺と比叡山を拠点に争った。
宗教、ヤクザ、政治、社会、人が集まると結局やる事は何ら変わらない。権力抗争であるが、この争いに関していえば山門派が優位だったようで三井寺は何度も焼け落ちている。秀吉の時代にも廃寺となったようで、付いたあだ名が「不死鳥の寺」、真に逞しい。
三井寺には裏口から入った。境内南の入口である。
料金所を抜けると長い石段が続き、石段の終点に観音堂があった。むろん観音堂に足を止めた。が、太陽という友人はどうしても高いところに登りたいらしい。目の前の坂を登り始めた。
「ちょっと見てくる」
そう言い残すと目の前に見える丘を片っ端から登り、「はぁはぁ」言って戻ってきた。
「なんかあったや?」
「なんもなかった!」
その繰り返しであるが、彼は地球的突起物を見てしまうと登らずにはいられないらしい。
そうそう、十年以上前の話だが、彼と自転車で四国一周した事がある。その際、小豆島にテントを張り一緒に過ごしたが翌日は別行動した。太陽は山に登りたいと言い、私は史跡を巡りたいと言った。その時も集合場所で同じ事を聞いた。
「なんかあったや?」
「なんもなかった!」
それでも登るのが煙と太陽で、理屈のないところに楽しみを見出すのが彼の彼たるゆえんであろう。
三井寺は広い。広大な敷地の中に大小様々な御堂がある。何度も比叡山に焼き討ちされた三井寺だから、この広いどこかに焼き討ちの片鱗があるだろうと探しているが、なかなかそういうものは出てこない。強いて言うなら弁慶鐘がそれに当たる。が、間違いなく後世の創作だろう。
弁慶鐘は山門派の弁慶が三井寺を焼き討ちした後、引き摺って持ち去ろうとした鐘である。持ち帰る途中、鐘が「帰りたいよー」と鳴いたので弁慶は怒って谷底に捨てたらしい。説明板には「鐘のすり傷やヒビはその時のもの」とあるが実に苦しい。隣では太陽と道子が「なるほど!」と唸っているが次の瞬間には忘れているだろう。
十分後、こう問うてみよう。
「あの鐘を投げたのは誰でしょう?」
「和田アキ子!」
そういう風になるだろう。冒頭サクサク観光に憧れたが、同じ時間を費やすに至り、やはり自分流がいいかもと思い始めた。身にならぬ散策は単なる暇つぶしかもしれない。
国宝の金堂で坊さんらしき人を発見した。三井寺といえば秘仏・黄不動なので、
「写真でもいいんですが三井寺の秘仏は見れませんか?」
問うたが写真もないという返答であった。
三井寺には秘仏が多い。黄不動を始め色々あると書いてある。中にはその存在があるのかないのか、それすら分からぬ秘仏もあるらしい。さもあろう。不死鳥と言われる三井寺にとって秘仏は復活の心臓である。いつ焼き討たれるか分からぬ状態で心臓の在処を明らかにする必要はない。その点、叡山との緊張は未だ続いているのかもしれず歴史の面白味であった。
さて、面白味といえば太陽の足元は登山靴である。比叡山に登るべく彼はフル装備で新幹線に乗ってきた。太陽は学生時代から道具が好きで、前述の四国一周もまずは道具を揃えた。体力を整えるでもなく、ルートを確認するでもなく、彼は道具に全ての情熱を捧げ、その他の準備を切り捨てた。太陽は四国一周をするのに徳島県の存在も知らず、ピカピカの自転車に恐ろしい量の荷物を積んでやってきた。むろん遅かった。
「なんば持って来たんや?」
彼の荷物をチェックして唖然とした。ほぼ要らん物であった。
三井寺を出た。皇子山で京阪電車で乗り、坂本へ移動。坂本から叡山は目の前である。
坂本といえば日本を代表する門前町である。明智光秀の拠点としても有名であるが、私は穴太衆を通してこの町を知った。織豊時代と呼ばれる織田・豊臣の時代、石垣といえば穴太衆であった。
私は古い山城が好きで菊地・島津の山城を好んで見に行っているが、それらに天守閣などはない。朽ちた石垣だけが残っていて野面積みという自然石の積み上げが多い。こういうものを好きな人は城が好きというより石垣好きであって、長い風雪で朽ち果てボロボロになった具合がたまらない。むろんファンは少なく普通は誰もいない。誰もいないからボロボロの石垣に身を委ね、遥か昔を想い、稚拙な想像を楽しむ事ができる。が、たまに人がいるとそれもできない。それもメチャクチャ喋る石垣マニアがいた場合は最悪で、私はそれに追いかけられた事がある。気に入られ約半日一緒に過ごした。その石垣マニアが坂本の出身だった。
「野面積みも甲乙あってな、穴太積みが最高や」
彼が言うに穴太衆の配置には品があるという。品がありながら実益を兼ねており、だから織田信長があれだけ贔屓にし、安土城という名城ができあがったという。
そもそも穴太積みとは何なのか、今更ながら調べてみると一種のブランドらしい。野面積みも算木積みも穴太衆が積んでしまえば穴太積み、格が違うらしい。
叡山には徒歩で登ろうとしている。普通はロープウェイで登るが、それを使ってしまえば太陽のフル装備が泣いてしまう。観光案内所で観光マップをもらった。が、徒歩ルートは載っておらず看板もなかった。仕方がないので地元の人に聞くが若い人は知らず、老人だけが知っていた。昔は遠足で登ったらしい。
「今も徒歩で行けるがな」
と、老人は言う。が、道が悪くて急斜面だから、それなりの覚悟がいるらしい。
コースは二つあり真っ直ぐ登るコースと大乗院コースがあり、後者は道が荒れてるから危険だそうな。
太陽が燃え始めた。こやつは危険という言葉が好きで、だから無鉄砲末っ子を三十年以上やっている。道子も末っ子だがこちらは萎えた。足元、服装、共にカジュアルで登山靴太陽の対極にいた。
とりあえず結婚十周年旅行で死ぬのは嫌だから正面ルートを行くと決め、道子にはロープウェイで行く事をすすめた。カジュアル道子は迷った。迷った末、
「ちょっと行ってダメだと思ったらロープウェイに乗る」
そう言った。道子は山道を引き返す事がどんなに辛い作業か知らない。
余談となるが道を教えてくれた老人に「徒歩ルートが公開されてないのはロープウェイ会社の思惑ですか?」と聞いてみた。老人、色々思うところがあるらしく、
「カネ、カネ、カネですよ、歩いて行かれちゃ何も落ちんわな」
忌々しげにそう言い捨てた。が、それは日本中どこも同じ事で、特に京都などは息を吸うのにもカネが取られそうな感じがする。観光という名の文明悪である。
さて、登山道である。皮肉だが、公金が入ってないぶん見事に登山道のかたちを留めていた。足元は柔らかい土とゴツゴツした岩の連続で木の根に沿って土が流れているから深い凸凹がある。太陽は喜んだ。初めて登山靴の性能を発揮できるポイントを得た。道子は苦しい。体力がないのはもちろんだが色々カジュアル過ぎて滑りまくっている。
「引き返してロープウェイで行けば」
提案したが、もうちょっと歩く事で何か変わる気がするらしい。引き返すと決めたら一人で急斜面を下りねばならない。
「もうちょっとだよね、もうちょっとだよね」
結局それを繰り返すうちに戻れない位置に達してしまった。
道子が遅い。百歩ごとに休憩するから進まない。太陽は体力が余っている。頂を見ずには帰れない状況で比叡山に行くというよりも頂上まで登って反対側(京都の街)を見るのが目的となってしまっている。
そもそも比叡山は単なる山である。「比叡山にいく」といえば太陽っぽく山登りと考えても不思議ではないが、高野山と比叡山は宗教語になってしまっている。山登りより参詣と考えるのが普通であって、太陽が異常である。しかし比叡山を山と見ている人も意外に多くフル装備の登山客と頻繁にすれ違った。登山客から見ればカジュアル道子は極めて異端な存在で「山を馬鹿にしている!」と、腹立たしく思えただろう。
我々は境内を登っている。比叡という山塊一つが境内である。三井寺も広かったが叡山とは比較にならない。東塔、西塔、横川と三つのエリアに分かれていて、横川に至っては遥か北にある。歩きならば丸一日費やす事になろう。とりあえずメインの東塔だけを攻める事にして道子の背を押した。
比叡山延暦寺は言わずと知れた天台宗の総本山である。祖は最澄。三井寺との対立でも分かるように超武闘派の寺で、信長に徹底的にやられる前はほぼ独立国であった。併せて教育国でもあったらしく、ここから排出される高僧が色んな宗派をつくった。
教育は多少偏っていた方が良いというのは私の勝手な想像だが、現在の均された環境ではそれも難しい。比叡山はその点独立国だったから均そうとする社会の影響を無視し独自の教育を施す事ができたろう。偏った教育は人間を複雑にし、いずれ個性となる。個性あるがゆえ社会とぶつかる。そして個性の使い道に人は悩む。悩むから良忍や法然、それに道元、親鸞、日蓮などが生まれたのではないか。
坂道を登りきると延暦寺会館という立派なホテルが現れた。修業体験ができる合宿所らしい。かんぽの宿を想わせる佇まいでこれはいけない。見てしまうと叡山の印象を害してしまう。見ないように足早に去り、文殊楼をくぐって根本中堂へ逃げ込んだ。
「根本中堂」
そこは比叡山延暦寺で最も有名な場所である。初めての訪問だが、活字の世界では何度も訪れている。最澄以来、千二百年灯り続ける「不滅の法灯」もこの中にあるらしい。
最澄は一乗止観院という建物をこの場所に作った。その後、信長が焼き尽くしたので徳川家光が根本中堂として再建した。法灯は焼き討ちで絶えたが山形県の立石寺から持ってきて継いでいるらしい。
いい。ここはいい。堂内が暗い。暗いゆえ声を荒げる子もおらず、皆すり足で進む。壁も床も天井も深い闇色で余計な光を吸収しているように思える。祭壇が遠い。遠いところに重圧なそれがあって、小さな光が揺れていた。法灯であろう。
隣に念仏を唱える老婆がいた。余計なものが何もない。念仏もここならあの祭壇を通し、どこかへ届くに違いない。
「ここはええね」
「お、おう」
さすがの太陽も根本中堂の迫力に唸っていたが、そもそも太陽と道子は神聖な場所が苦手らしい。私を置いて足早に去ると体いっぱい光を浴びた。
太陽と道子が最も喜んだのは水琴窟(すいきんくつ)ではなかろうか。阿弥陀堂にあった。水琴窟とは水の滴る音が響く仕掛けで日本庭園の装飾である。「心静かに妙音を聴け」と書いてあるが二人に心静かは無縁であった。
「みっちゃん聴こえた?」
「うん!」
「俺も聴こえた!」
「うんうん!」
二人が馬鹿殿と優香姫に見えてきた。無邪気ではあるが心静かな旅人の邪魔であった。
一通り東塔を見終わった後、太陽と別れた。彼は山登りを続行するらしい。私と道子はロープウェイで山を下りた。
ロープウェイを使う事で観光の団体と一緒になった。団体は左に流れた。左には日吉大社がある。看板もそういうルートに誘導していて同じルートで同じようにカネを落とすのが観光の仕組である。
私は看板を無視した。真っ直ぐ進んだ。坂本という町をもう少し知ろうと思った。坂本には寺が多い。敷き詰められた寺の隙間を歩けば何か分かるんじゃないか、その期待があった。
坂本の町も型が古かった。小道に逸れて分かる事だが、この町は古い型を守りつつ、それを構成する住宅は新建材への切り替えを許している。新しいものと古いものが入り乱れ、何か不思議な世界であった。
そもそも滋賀県という場所は入り乱れる事が地理的に強いのではないか。隣に京があり、中央には日本の大動脈・東海道を抱えている。この環境にあっては入り乱れる事が日常かもしれず、大津や坂本の姿はその象徴かもしれない。
小道を下ったところに弁当屋があった。道子は歩きながら常にブーたれていた。腹が減ったらしい。店内に食う場所もあるという事だったので、そこで飯を食った。
食ってる途中、太陽から電話があった。比叡山の頂に達したらしく、ロープウェイを使って麓へ下りたところらしい。「サヨナラ」を言って解散しようという流れになり弁当屋で太陽の到着を待った。
彼は「頂に達した証拠」と言って携帯カメラの写真を我々に見せた。「頂から見た京都」という説明だったが白いだけで何も写ってなかった。
「あやしい」
夫婦で笑うと今度は白い棒の写真を見せてきた。頂上に埋めてあったものらしい。意味不明であった。
太陽は逃げるように弁当屋に入った。巻き寿司を数本食った。その後ビールを飲み、普通に定食(大盛)を注文した。恐ろしい食欲で、少しヤケッパチであった。
さて、その後であるが、日も暮れかかっていた。お急ぎ今日の宿(道子の伯母の家)へ向かうべきであったが個人的に石山寺へ行きたかった。その旨を伝えると、
「行きたいなら行けばいいじゃん」
気のない回答を得た。電車に飛び乗り琵琶湖の下をグルリと回り、落ちる夕陽を眺めつつギリギリの時間に石山寺へ飛び込んだ。貸切状態であった。
石山寺といえば紫式部が源氏物語を書き始めた場所として知られている。石山寺としてもそれをアピールしたいらしくカラクリ人形が置いてあった。カラクリ研究所を営む身としては、そういうのをちゃんと見るべきであったが、いかんせん終了の放送が流れていた。慌しかった。が、イライラする坊さんを尻目に日暮れの多宝塔を眺めるのも乙なもので、道子などは、
「気にする事ないよ、ゆっくり見よ」
何様、殿様、道子様であった。
暗くなってしまった。湖畔を嫁と二人で歩き、この旅の目的を思い出した。結婚十年の記念旅行であった。手でも繋ぎチャーミーグリーンをかますべきだが道子は土産を買う事に夢中で、私は中世の想像に夢中であった。ゆえ、これを書きながら後手後手に思っているが、それが、その瞬間が夫婦十年の記念すべきタイミングであった。人間を取り巻く関係や状況は日々刻々変わっている。十年連れ添い、石山寺をこうして歩けたのはきっと何かの縁に違いない。
嫁は電車に乗った瞬間寝た。寝顔を見ながら十年を想い、しんみりと大阪に着いた。大阪では道子の従姉妹と合流する運びになっていた。久しぶりの再開だった。
「みっちゃん、かわらんねー!」
従姉妹は道子との再会を喜び、次いで視線を私に移した。
「ん?」
止まった。従姉妹と私は十年ぶりの再会である。
「んん?」
従姉妹が私の顔を凝視した。
「福ちゃん、こんな顔だったかね? かなり太った?」
ガビーン。
しんみりモードの私は更にしんみりし、この先、道子の伯母にまで同じ事を言われ十年の重さを痛感するのであった。
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