第77話 呑み人逝く(2012年8月)

7月29日、呑み友達のSさんが不意に逝った。享年63歳。死因は心筋梗塞らしい。
メールの受信箱を見てみると7月12日の夜Sさんからメールが来ている。阿蘇地方の集中豪雨を軽く心配されているが、本題は自慢の植木が大雨で枯れてしまった。その事を嘆かれている。
私の返事も実にたわいない。災害の事には大して触れず、
「夏が終わる前に呑みましょう」
そう返している。事実そういう関係で、歳は父子ほど離れているが気安い呑み友達であった。
奥様の話によると前立腺ガンが見付かったらしい。で、手術をすすめられたが「それは嫌だ」とSさんゴネたそうな。
状況が手に取るようによく分かる。
手帳によると最後にSさんと呑んだのは4月26日。場所はヤフードーム。そこで「病院は嫌だ」と盛り上がった。二人とも血を見ると握力がなくなる。消毒液を嗅ぐと金玉が縮む。白衣を見ると匍匐前進したくなる。つまり徹底的に病院嫌い。更に類稀に見る寂しがり屋であった。
「死ぬなら事故死がいい」
Sさんはそう言った。私が老衰をすすめると、
「老衰を得るには過去の悪事と不健康、それがちょっと多過ぎる」
巨大な顔をギュッと歪めて笑われた。
Sさんとの野球観戦歴は長い。ダイエー時代から観ているので十数試合は観ただろう。最後の観戦は逆転負けであった。応援するソフトバンクは2点差で勝っていたが9回表にファルケンボーグが満塁ホームランを打たれた。
「終わった後はどこで呑みます?」
「駅前にしよう」
そう話していた二人であったが、この逆転劇にSさん怒った。
「つまらんちゃ!」
9回裏を観ずに帰ってしまった。
Sさんの座席には食い物が山ほど散らかっていた。私はその残り物を頂きながら9回裏までしっかり観た。が、何事もなく負けた。一緒に帰れば良かった。
Sさんが手術をやると決めたのは、ほんの数日前だという。友達が前立腺ガンで亡くなったらしく、
「やる! やると決めたらすぐやる! 早くやれ!」
病院を急かして入院したらしい。
Sさん、体にメスを入れるのが恐ろしくてたまらない。たまらないから急かすのだが、急かせば急かすほど恐怖も募り、血圧も上がったろう。
Sさんの出術は成功した。成功して家族と普通に話し、酒を呑むの呑まないの、そんな話もしたという。で、その晩、容態が急変した。病室は二人部屋であった。その相方がSさんの異変に気付きナースを呼んだ。が、Sさん既に心肺停止状態。即集中治療室行き。数度の電気ショックで辛うじて蘇生したらしい。
呼び出された家族はバタバタと説明を受けた。が、全く事態が掴めなかった。
「48時間がヤマ」
夢の中で医師の宣告を受け、24時間後にはもっと深い夢の中、臨終の宣告を受けてしまった。
家族はSさんを自宅へ運び夢が覚めるのを待った。が、冷たくなったSさんは跳ね起きる事もなければ焼酎の湯割りも求めなかった。
この日は日曜。日曜は若松へボートレースへ行く日だろう。ギャンブル好きのSさんは不意の電話で吉報を寄越すのが常。弾んだ声を聞くのはいつも日曜だった。
「今から呑まん?」
「勝ちましたね?」
「言うなちゃ」
私が訃報を受けたのはSさんが病院から自宅へ帰ったタイミングであろう。冷たくなったとはいえ病院嫌いのSさんは一刻も早く病院から出たかったに違いない。病院の寝巻きを捨て、いつものラフな格好になり、いつものテーブルのいつもの場所に座って、例の焼酎サーバーから自慢の焼酎をマイグラスに注ぐ。新鮮な魚をつまみにキュッとやり、
「やっぱウチがええ」
体は動かずとも、その魂は自宅に帰って思いっきり背伸びしたに違いない。Sさんは家族の待つ家をこよなく愛した人であった。
「ウチに来い! ウチで呑も!」
これはSさんの口癖で、私は何度もお邪魔しSさんの流れに乗った。
Sさんの訃報は埼玉で受けた。出張中であった。昼食を食った後Sさんからの着信に思わず曜日を見た。日曜。きっとボートレースで大勝したのだろう。弾んだ声で電話に出ると女性の声であった。娘さんであった。Sさんが亡くなったという。炎天の住宅街で私は葬儀の日程などを聞いた。聞くには聞いたが意味不明であった。が、娘さんの涙はホンモノで、そのギャップに寒気がした。突然死というものは寒気と共に舞い降りるものらしい。それは当人にとっても、その繋がりにとっても流れる日常を嘘みたいなギャップで遮断し、こじ開け、割り込ませて知ら示すものらしい。
電話を切った後いろいろ考えた。
私とSさんの出会いも埼玉であった。当時Sさんは設備を作る会社の部長さんで埼玉に単身赴任中であった。私はSさんに仕事をお願いする身でそれ以上でもそれ以下でもなかったが、呑み屋と競輪場でたまに顔を合わせる事もあり何度か呑んだ。
Sさんは呑み方にこだわる人であった。愚痴を嫌い、ダラダラ呑む事を嫌い、明日の話を嫌った。ペースの遅い呑み人を前にすると、
「つまらんっ!」
そう言い放つのが常で、そやつから明日の話でも出ようものなら無言で消えた。
埼玉にいた頃のSさんは手の付けられない酔っ払いを従えた呑む打つ買うの有名人であった。酔っ払いはSさんがいないと前後不覚になるから色々問題を起こした。Sさんは酔っ払いの代わりに色んな場所で謝っていたが酔っ払いを責めず自分の不在を責めた。
Sさんに問うた事がある。
「なぜ酔っ払いの保護者を買って出るのですか?」
「わからんちゃ!」
言葉少なに自らの性分を嘆かれた。親分肌は相手がどうしようもないほど燃えるものらしい。
Sさんは颯爽と消える呑み人であった。消え方に美学があるようで、ある日スナックで呑んでる時も見事に消えた。金と手紙を置き、いつの間にかいなくなっていた。手紙には、
「呑め」
達筆な字でそう書いてあった。翌日理由を聞いて笑った。私がノリノリで若い子と話し、Sさんの隣には陰気なおばさんが付いた。腹立つので店を出たいが私がノリノリだったためドロンしたらしい。
埼玉からの消え方も良かった。当時は不況の真っ只中で早期退職者の募集があった。Sさんは部長層で退職金に凄い割増が付くという情報を得、すぐさま総務へ行って試算してもらった。で、金額を聞いて即決した。
「もうけた! 呑み行こ!」
Sさんは退職金の額を皆に打ち明けパーッと呑んだ。実に気持ちの良い呑み人であった。
Sさんが埼玉を離れた翌年、私も埼玉を離れた。が、四年ほど会わなかった。
(再会したのはいつだろう?)
手帳を見ながら思い出しているがよく分からない。幾つか職を変えた後、福岡の展示会でバッタリ会った。お互い名前が思い出せず、
「あっ!」
「おっ!」
指差し合って再会を喜び、とりあえず呑みに行こうという運びになった。
Sさんは再就職していた。「割増の退職金で独立する」と言われていたが家族の反対や自らの熱量不足に悩み、暇潰しに再就職したらしい。
Sさんの見立てによると独立の成否を決めるのは熱量の具合らしい。技術や繋がりがあっても結局そこが足りなければ大事なところで失敗するらしく、
「俺には底から湧き上がる熱がない」
大いに嘆き、
「お前にはそれしかないがそれがある、独立したいなら早く独立せい」
私を褒めたり馬鹿にした上で色んな人に会わせてくれた。いずれも仕事相手の紹介というより呑む人の紹介で、何一つ仕事に繋がらなかった。
Sさんの自宅で呑むようになってSさんとの共通点に驚いた。結婚した年齢、最初の子を授かった年齢、次の子、その次の子を授かった年齢、全て同じタイミングであった。そういえば呑み方も似ていた。ビール少なめ焼酎党。よく食べるくせに胃が弱い。顔デカく、体丸い五頭身。最たるところは病院嫌いの寂しがり屋。一人で留守番できず、酔っ払うと嫁の虚像を呼びつけた。
いつだったか。Sさんの奢りでイカをつまみに二人で呑んだ。活き作りであった。
Sさんは長崎県伊王島の出身でイカや魚にうるさい。釣りが趣味で伊王島に土地もあるらしく、そこに小さな家を建て、呑み暮らし死ぬのもいい、しかし嫁が付いてくるはずもなく一人でゆけば三日で帰ってしまうという話であった。
なぜ呑むのか。寂しいから呑む。Sさんと私は孤独に弱かった。それは実にウサギ並で、寂しけりゃ死んでしまう性分であった。
Sさんは若い時分を嘆かれた。家庭を顧みず仕事ばかりしてたらしい。
「何をしたら喜ぶだろう?」
父子ほど離れた私に酒を呑ませて聞くほどにSさんは奥さんとの日々を考えた。
「温泉旅行なんてどうです? 観光地へ行くのではなく、鄙びていても質の良い温泉」
Sさんは奥さんと温泉旅行に行ったらしい。で、喜びの手応えがあったらしく、たまに家を出る方向で「これから」を考えたいと言った。Sさんが好きな酒、釣り、広島カープを交えつつ、二人で喜べるカタチを練りたいという事であった。
ぼんやりしたSさんばかりが浮かび、シャープなSさんが浮かばなかった。最後になった野球観戦を思い出そうと努めてみた。
Sさんはカープ前田のストラップを見せつつ広島へ行った話をされた。Sさんは大食漢。肉を頬張り前田の素晴らしさを語られていたが、その内容を全く思い出せなかった。奥さんと行かれたのだろう。が、その事すら思い出せず、禁煙が辛いとか、足が臭くなってきたとかどうでもいい話ばかりが思い出された。さもあろう。目の前にいる人が数十日後に死んでしまうなんて思っていない。呑み友達とはそういうものである。
明日を嫌ったSさんが明日を意識し始めたのは明らかに奥様の影響であった。Sさんに言わせると奥様は健康にうるさいらしい。野菜嫌いのSさんに野菜を与え、運動をさせ、病気で苦しむ人の情報を与え、Sさんに余生の思考を提供した。Sさんは奥様との明日を考え始めた。考えなければもっと早くアルコールの闇に消えただろう。
Sさんの棺桶にはカープ前田のユニフォームと酒に関する色々、それに私の文章(プリントアウトしたもの)が入ったらしい。Sさんは見かけによらず読書家で文章の批評をくれた。稀に手書きの手紙を頂いたがそれがあまりにも達筆で「会社のロゴを書いて」とお願いしたばかりであった。
Sさんは私の文章をプリントアウトして読み、赤ペンなどで線を引いた。「ここが幼稚」「ここはいい」「展開が悪い」呑むと色々言われるので、
「Sさん倒れた後の暴露文は私が書きます」
言ってはみたが、いざ書いてみると大して暴露する事がなかった。Sさんの行動は一つ一つが鮮やかで持ち越しがない。だから亡くなったと聞いてお宅へ行き、遺影やお骨を見ても、何というか、呑み人としての鮮やかさばかりが先に立ち、どうも悲しみが湧かなかった。「事故死がいい」と言い切ったSさんのドヤ顔ばかりが浮かぶのだ。
ちなみに私は喪服を着なかった。Sさんはスーツを嫌う人で、
「ネクタイ考えたヤツをぶん殴りたい」
常々そう言っていた。私もSさんも首がなく、二人の間に喪服の着用は許されなかった。
遺影のSさんも首がなかった。しかし十年ほど前の写真で髪の毛が多かった。奥様の優しさらしい。
私はSさんと語るためにご自宅へお邪魔した。家族全員でお邪魔した。娘たちは「エビフライのおっちゃん」「柿好きなおっちゃん」と親しみ、嫁も「米を持って来てくれるSさん」と呼ぶ。重厚で豪快でサッパリとした余韻を残し、宣言通りにバーンと散ったSさんはホントにカッコ良かった。
「いい人生でしたね」
私は呑み友達としてSさんを褒めるべきであった。が、隣に奥様がいた。Sさんが唯一鮮やかになりきれなかった人が泣いていた。
「あの人の事を何も知らない、教えて福山さん」
奥様は涙声でそう言われた。が、男社会の男、特に呑み友達というものは虚像の中にある。お互い美意識という虚像を見せ合って寂しさを慰め合っているに過ぎない。本当のSさんを知っているのはSさんのお母様と奥様だけ。男の一生はその二人に構ってもらうための茶番に過ぎない。従って私が何を語ろうとそれは虚像である。が、虚像には虚像の役割があって奥様を喜ばしたりビックリさせるための面倒臭い伏線である。
臨月を迎えられた若奥様から茶を頂いた。スイカのように膨れたお腹にはSさん二人目の孫が入っているらしい。読書家のSさんは酔うと文学的・哲学的になる事があって万物の循環を愛した。
「一滴落つる、ゆえ一滴入る、消えねば何も生まれない」
潔い循環の果てにSさん何を思ったか。奥様の事、家族の事、人生の事。
少年は愛する人を喜ばすために生き、少年で死ぬ事を望む。
「おい、美味いなぁ」
夏空の下、汗だくのSさん美味そうに呑んでいる。逝って尚、美味そうに呑んでいる。
夏雲のような人であった。
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