第84話 Nの話(2013年3月)

Nという地元の友がいる。むろん呑む。
酒癖はいい。暴れもせず説教臭くもない。ただ呑み過ぎると魂が飛ぶ。
十代半ばNと頻繁に呑み歩いた。Nは呑み過ぎて寝ると意味不明な言葉を発して飛び起きる。次いで壁に向かって喋り出す。
(座敷わらしでも見えるのか?)
観察していると、ポロリ股間を出し、
「ま!待て!」
止める間もなく放尿する。以後、朝まで起きない。むろん彼に記憶はない。
Nは酒好きが高じて料理人になった。彼は霊感が強いらしく、そういう風に導かれたと言う。Nの母も自称霊感が強い。その母曰く、人には守護霊がいてNの守護霊は優秀らしい。よく分からぬがNにはNとは別の何かがいて、極限まで酔うとそれが顔を出す。これが母の言う守護霊だとすれば、とても優秀とは言えない。が、ひょうきん者で酒の肴になる。
Nは結婚している。東北出身の嫁さんと三人の子供がいる。
嫁さんは今も昔もバーテンダー。酒にもNにも理解が深い。が、その人でも結婚当初、Nのそういう挙動に唖然としたらしい。
酔って隣で眠るN。深夜ふと目覚めた。ブツブツ何か喋り出し、ゆるり立ち上がった。
「どこ行くの?」
「・・・」
返事がない。嫁さんイヤな予感がし、起きて耳を澄ましていると台所からジョバジョバ聞こえてきた。慌てて飛び起きた。台所へ駆けた。案の定、Nは放尿中であった。やるなとは言わない。シンクにやればいい。が、彼はシンクの下の引き出しを開け、食器満載のそこへやった。
「何やってんの!」
「・・・」
Nには聞こえない。全ては守護霊のなせる業。Nはそのままベットに戻り、何食わぬ顔で寝た。
「バカー!」
嫁さんは叫び、思いっきり蹴った。が、何の反応もなかった。
嫁さんの怒りはピークに達した。子を連れて家を出た。最寄のインターから実家に帰ろうと試みた。が、方向音痴でインターに着かず、どこか分からぬ道の駅で一晩を過ごし、翌日迎えに来て貰ったという。
Nの武勇伝は尽きない。彼が経営するレストランへ足を運ぶとそういう話が聞ける。
二月も終わり、そういう話を期待して家族でお邪魔した。
「とっておきの話がある」とNは言った。「しこたま呑んで酔い潰れ、死にそうになった話」だそうな。このシリーズがたまらない。私はがぶり寄った。焼酎片手に話を聞いた。
その日…。
酔い潰れたNはどうやって帰ったか分からぬが、とりあえず自宅に帰り着いた。家には一匹の犬がいる。呑む男は寂しがり。酔った男は寂しがりマックス、ゆえ動物と戯れたい。エサをやろうと外へ出た。と、その時、どこかへ頭をぶつけた。気にせずエサをやっていると、ポタ、ポタ、ポタ、ポタ、上から赤い水が降ってきた。何かと思って上を見た。空には満天の星。気にせずエサをやっていると目が痛くなった。しみた。手で顔を拭うと手が真っ赤になった。赤い水は臭かった。鉄のそれであった。血と気付いた。
彼は歩けぬほどに酔っていた。鮮血を家中に振り撒きつつ色んなものを蹴飛ばして歩いた。
赤い水は滾々と流れ、家中を赤黒く染めた。手で拭ってはいけない。が、酔ったNには分からない。手で拭い、たっぷり含んだ朱肉でもって壁、電化製品、窓、色んなものを触ってしまった。四方八方、朱に交わり赤くなった。更にその朱は強烈な臭いも放った。家中が鉄の臭いに覆われた。
引き続きNはよく分からない。Nの守護霊はとにかく脱げと言う。二月の寒い夜、血みどろのNはスッポンポンになった。スッポンポンになって風呂に行った。湯に浸かるのか。湯は入ってなかった。Nは洗い場の椅子に座った。目の前に鏡があった。鏡のNは血だらけ。何だか可笑しくなった。
「こいつ笑えるー」
Nは寝てしまった。
この数時間後、病院の先生は真顔でこう言ったらしい。
「発見がもうちょい遅れていたら君は死んでいた」
発見者は、むろん嫁であった。
恒例のイヤな予感で目覚めた。隣に旦那がいない。三人の子供はグッスリ寝ている。下の階からは人の気配。彼女は行きたくなかった。行きたくなかったが行かずばなるまい。ションベンまみれの可能性もある。
彼女は一階に下りた。臭い。ションベンとは違う。電気を点けた。仰天した。そこは血の海であった。
白い壁に赤い手ベタベタ、床にもベタベタ、ソファーもテレビも子供のオモチャもベッタベタ。ホラー映画のそれであった。が、こういう絵は日本映画にはないだろう。ジェイソンのそれであった。
彼女は妻であり母であり女、強かった。凛としていた。深呼吸し、考えた。
(私の旦那は殺された?自殺した?強盗?怨恨?そもそもどこに?)
Nを追うのは簡単だった。血を追えばいい。血は風呂場へ続いていた。そこに血みどろの服があった。
Nはいた。ドア一枚を隔て裸でグッタリしていた。生きているのか死んでいるのか、まずそれが分からなかった。開けて確認しようとドアを横へスライドさせた。が、そのドアは折り畳みながら横へスライドする仕組で、折り畳んで膨らむ部分がNの足に当たって開かなかった。
「どうしたの!開けてよ!生きてるの?開けてよ!開けてー!」
隙間から見えるNは全身血だらけ。ドアは開かない。動かぬN。さすがの彼女もパニックに陥った。全ての力を振り絞り、何度も何度もドアを開けようと試みた。ドアはNの膝に何度も何度も強い力でぶつかった。ついにはNの膝を壊し、Nを目覚めさせた。
「なに?」
「なにじゃないわよー!」
スッポンポンのNを風呂場から引っ張り出し、彼女は救急車を呼んだ。Nの実家から義母も呼んだ。あまりの騒動に子供たちも飛び起きた。修羅場であった。
それからの話も面白い。Nは嫁さんと一緒に病院へ運ばれた。が、居合わせた看護士が新人ばかりだったという。とりあえず額の深い傷を縫う必要があるとの事でホッチキスみたいな医療器具が登場した。Nは貧血と酔いと低体温で意識が朦朧。聞こえはすまいと患者を前に新人会議。
「これ、どうやって使うの?」
「分かんない、説明書どこ?」
「あった」
「えーと、まずこれを押すのかな?」
Nにも嫁さんにも丸聞こえであった。が、二人が言うに「グッタリしていてどうでもよかった」らしい。麻酔もせずに専用ホッチキスで縫合し一命を取り留めた。
Nの話を聞きながら額の傷を見せてもらった。確かにホッチキスの跡があり、「ぶつけた」というより「割られた」という方が適当で笑える話ではなかった。
「痛そやねぇ」
「痛い!でもコッチの方がずっと痛い!」
Nは膝を指した。Nを救わんと嫁さんが必死で壊したその膝が痛くて痛くてしょうがないらしい。が、その痛みは嬉しかろう。命がある。愛がある。何と言っても嫁がいる。
「ホントいい嫁さんもろたねぇ!感動した!」
びっこを引くNは嫁の肩を借りただろう。が、首が折れても頭は下げぬ。
「ケガした時くらい呑むのやめなよ!」
呑むなと言われりゃもう一杯。嗚呼、我ら悲しき肥後もっこす。懲りて謝り惚れ直し、分かって下さい寂しんぼ。
Nよ、あんたの話は酒が美味い。
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