第85話 瀋陽雑記1(2013年5月)

その話は数年前からあった。「中国へ飛べ」という話である。
最初は心が躍った。知らない街や異文化に強い憧れがある。十年以上旅人をやっているというのはそういう事で、それ以上の理由はない。知らない街で知らない人と美味い酒が呑みたい。が、日本語、それも熊本弁しか喋れない私。異国のカウンターで誰を相手にどう楽しめばいいのか。そもそも目的地に着けるのか。
旅人は旅人ゆえ不安になった。どう考えても旅の醍醐味が薄い。薄いなら飛ばぬがよい。旅は国内にもじゅうぶん転がっている。やんわり断った。意図的にパスポートの取得も拒否した。が、そうも言ってられなくなった。万物に流れというものがある。客先の工場が右も左も海外へ飛び始めた。私が作る工場用設備も海を渡り始めた。
「修理、改造どうするの?」
何とか教えて乗り切った。
「立ち上げどうするの?」
日本で立ち上げ輸出した。
「急ぎの時はどうするの?」
何も言えなかった。
「設備で税関通すの大変!」
意味が分からなかった。
「そういうわけで現地に飛んで!」
この仕事は続けたい。続けるには飛ぶ事が必須という時代になった。
私は同業者の話に怯えていた。酒好き同業者の話によると「飛ぶは始まりの序章」だと言う。出張は長期出張から出向という中盤を経て現地法人立ち上げに至る。数年現地で暮らし、やっと軌道に乗ったと思いきや、その頃には現地の業者が力を付け、価格競争、泥仕合、社内紛争、官製デモ、撤退というストーリーが待ち受けているらしい。半分大袈裟だと思うが半分的を得ているようにも思える。
グローバル化、空洞化、色々言われて久しい。量産する以上、モノは広い市場で売りたい。安く作って安く売る、そうじゃなきゃ世界で売れない。戦後のアメリカは日本で作り世界で売った。次第に日本は高くなった。今度は日本もアメリカも中国で作り始めた。最近は中国が高くなりつつある。今度は南アジアで安く作るらしい。
資本主義はどこへゆくのか。世界中が高くなった時、アメリカやヨーロッパが安くなって順繰り回るだろうか。いやいや、行き場を失った資本主義は破裂するだろう。どこかの高まりを強制的に押さえ込み、第三第四の大戦が起こるだろう。仕組として何とも悲しげな主義である。が、その資本主義が主流である以上、日本が高いという事は間違いない。モノは作らねば先細る。分かっていても安いところへ打って出る。出ねば食えない。
私は末端にいる。末端ゆえに生きるも死ぬも自由。主義も社会も知ったこっちゃない。が、嫁・子供がいる。
「父ちゃん、くだらない仕事ばかりじゃ食えんよー!」
「出稼ぎ行けー! バカー! 食わせろー!」
カネ。そう、カネがなければ生きられぬ娑婆ゆえ私はパスポートを取得してしまった。昨年末、客に急かされ役場へ走り、今年一月渡された。十年仕様であった。赤い冊子をパラリめくるとゴリラのような顔がいた。枠いっぱい顔であり、顔が全て、顔に隠れて首すら映ってないのが不気味であった。
パスポートを手にニッポンという国の寒いところを想った。北の冬は雪で閉ざされる。多くの父は船に乗ったり電車に乗ったり、遠いところで小金を稼ぎ、北の春を想って暮らす。
数年前、埼玉大宮で呑んでいた時、隣に目頭を押さえる中年がいた。彼がこう言った。
「上野、大宮、ここでの酒はどうもいけない」
北の玄関で酒を呑んでいると北国の春が浮かぶらしい。北国の春は白樺、青空、南風ではない。家族である。家族がちらついて涙酒になるという。
赤いパスポートが重い。このパスポートが切れぬうちに私も出張者から出向者になるかもしれない。そうなったら東を向いて家族を想って泣くだろう。
テレサテンの空港を流した。空港を聞きながら酒を呑んだ。泣けた。これで私も出稼ぎ労働者の一端を担える。密かに泣いて密かに呑んだ。意味なき想像は酒が美味い。沁みた。むろん一人酒であった。
さて・・・。
出発は一月という事で準備万端整えた。が、客の事情で出張が延びた。「ちょっとだけ」という話だったが冬が終わって春が過ぎ、初夏になった。初夏になって中国から電話があった。なるべく早く飛びなさいという指示であった。
「来週飛びます」
回答した後、地球の歩き方を読んだ。準備はそれだけ。荷物はリュック一つに収まった。
心配は行きの旅程にあった。目的地に着けるのか。日本語しか喋れない初めて尽くしの馬鹿者を客も心配してくれ中国で使える携帯を貸してくれた。着いたところの空港には「福山」と書いたボードを持ってホテルの人が立つらしい。
5月14日、始発の電車で家を出た。早朝6時前の電車だったが、家族全員沿線で手を振ってくれた。北国の春、空港、私のハートは出稼ぎに泣いていた。泣いてる父を更に泣かしてどうするのか。出張先が旧満州・瀋陽という事もあって何だか出兵しているような気になった。バンザイで送られているような気になった。ゆるり走る南阿蘇鉄道、車窓には若い緑、ふるさとが遠くなるにつれ同期の桜が流れ始めた。
「キサマと俺とは同期の桜♪」
一人旅ゆえ同期はいない。が、そんな事はどうでもいい。酒が美味けりゃいい。ウイスキーの小瓶を開け、ちょいと舐めた。始発の電車は学生で満ちていた。隣には女子学生がいた。女子学生は私からそっと離れた。朝からウイスキー飲む変なオヤジに身の危険を感じたらしい。
新幹線で福岡まで行き、福岡から飛んだ。
九州と瀋陽の直行便はなかった。福岡から韓国インチョン経由で瀋陽へ飛んだ。インチョン空港はソウル近くの小島にあって北アジアのハブ空港らしい。ハブとは中継拠点であるが、さすがはハブ空港。着いて降りた瞬間、雑多な人種がごった返していた。何だか興奮してきた。
「ハブだけにパブへ行こう」
興奮ついでにブリティッシュパブに行ってみた。ビールだけで十種類ぐらいあった。
「オイシイ、オイシイ、チョーダイ!」
外国人っぽい日本語で注文してみた。が、全く通じず、見た事あるバドワイザーの写真を指差し注文した。
空港では瀋陽の地図を買った。パブで開いた。失敗した。英語と韓国語の表記であった。最も分からぬ組み合わせで一つも地名が分からなかった。
瀋陽空港には現地時間で16時前に着いた。出たところに「福山」を持つ中国人がいるはずであった。いた。超目立っていた。黒いサングラスをかけ、筋骨隆々怪しげな男。ターミネーターかと思った。
ターミネーターは中国語しか喋れなかった。私は日本語しか喋れなかった。ターミネーターは無駄に色々喋った。私も無駄に喋った。目が合った。通じ合えない事を理解した。
車は黒塗りの外車であった。動き出した瞬間ヤバイと思った。ターミネーターは運転が超荒かった。これから色んな車に乗るが中国人は基本的に運転が荒い。その中でも最高に荒い人物と初っ端から出会ってしまった。
エンジンをかけた。動き出した。タイヤが空転した。道はアスファルトが剥げてボロボロ。土煙が舞った。アスファルトのない道ではベタ踏み。それがターミネーターの流儀らしい。むろんコーナーではドリフトした。
私は窓上の持ち手を両手で掴んだ。ターミネーターは笑った。笑いながら何か言った。「俺の運転は最高さ!そんなとこ掴むな!ドーンと乗ってろ!」そういう事だと思われた。
黒塗りの車は高速道路を右へ左へ車線変更。クラクション鳴らしっぱなしで突き進んだ。「なぜクラクションを鳴らすのか?」聞けたら聞きたい。彼はこう言うだろう。
「この車にはクラクションがある、それは鳴らすためさ」
速度計は150キロを示していた。高速道路の制限が120キロだから速過ぎるという事はないのかもしれない。ターミネーターは車の能力をフルで使いたい。無邪気にそれだけを楽しみ、使いこなせる自信に満ちていた。ターミネーターは車をよけ、人をよけ、穴をよけた。高速道路なのに道端には人がいて、所々アスファルトが剥げていた。マリオカートの実写版みたいで超スリリング、貴重な体験であった。
瀋陽の街に入った。大渋滞であった。ターミネーターは逆走したり歩道を走ったり、一秒でも早く私をホテルに届けるべく全力で道路交通法を無視した。
「急がんでいい」
私は何度もゼスチャーでお願いした。が、急いでいるわけではなく、これが中国人の一般的運転らしい。逆走、割り込み、クラクションは中国人の当たり前。当たり前だから歩行者も強気。車をよける気配がない。そういう環境ゆえクラクションは運転の習慣。ターミネーター常にプップップー。右の車もブーブーブー。歩道激走バイク野郎もピッピッピー。街全体がクラクションに満ちていた。
街は全体的に煙っていた。日本では微粒子が来ると騒いでいるが、ここにはビックな粒子が溢れていた。ホテルから見下ろす瀋陽の街は常に白く、四方八方工事中であった。ビルを壊したり道を剥いだり、日本なら防塵対策をやる。が、ここではそういう気配がない。濃い埃の中に街があった。
ホテル前で人間観察をした。街もザッとしているが人間もザッとしていた。
日本人は微粒子を常に計測し、風向きによっては警報を出して外出を控える。中国人はその何倍も劣悪な環境で無防備に過ごしていた。たまに防衛している人もいるが粗い布を顔に巻き何となく防衛しているようで、単なる気休めであった。
目の前で若いギャルがタンを吐いた。デート中であった。ニッポンのオッサンと同じスタイルでカーッとためてペッと吐いた。彼氏の方が遠慮気味に吐いた。
老夫婦の乗る自転車が来た。ペットボトルを山積みしていた。積み方が半端なかった。ビルの2階に相当する山の如き積みっぷりで、前後2台の自転車で荷車を挟み込んでいた。荷物はグラグラ揺れていた。右へ左へ揺れながら赤信号の交差点に突入した。暴走車両は急ブレーキ。老夫婦は知らん顔。暴れん坊の中国人も老夫婦には弱いらしい。クラクション鳴らしっぱなしで老夫婦の通過を待った。微かに残る儒教の名残と思われた。
30分ぐらいの観察で目が痛くなった。鼻水も止まらなくなった。やはり私はデリケート日本人。ここで過ごすには体を鍛える必要があった。
ホテルは客先が予約してくれたところで四つ星ホテルであった。部屋は無駄に広かった。特にベットが広かった。何回寝返り打てるか試してみた。小さく6回いけた。
この日は客と呑みに出る予定であった。時間があった。外に出たいが出るのは怖かった。風呂に入った。水道水が汚いと聞いていたが透明な水が出た。
夜は日本人三人と日本料理屋で呑んだ。まさか中国で焼き鳥片手にキリンビールが呑めるとは思わなかった。店員も日本語ペラペラで味も普通に美味かった。話を聞くに、日本から来た現地駐在員は中国を欲していなかった。むしろ日本を欲していて、多少高くとも、こういう場所で日本的に呑みたいらしい。
私は異国にいるはず。食の異国はまだ始まっていなかった。異国を確かめたくホテル裏手の屋台に寄った。フランクフルトみたいなものが1本1元だという。1元は凡そ15円。安い。試しに一つ買ってみた。よく分からぬがオマケをくれた。3本で1元だった。ホテルで食った。お世辞にも美味いとは言えなかった。
数時間後ハッと目覚めた。猛烈な腹痛に襲われた。下痢であった。
現地駐在員の言葉を思い出した。
「水道水を飲んじゃいけない!ヘンなところで飯を食わない!ヘンなところに行かない!」
駄目だ。いけない。分かっている。分かっているがヘンなところにこそ旅の醍醐味は転がっている。
私は出張者というより旅人であった。旅人は旅人ゆえ旅人っぽい事がしたい。
異国初夜は便器の上で暮れた。
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