第96話 家出の達人(2014年5月)

反抗期の峠を越えた高校生ぐらいから家出を常用している。
家出という言葉の響きは極めて悪い。が、色んな事を短期に収束させるという点において、これ以上の方法を私は知らない。
嫌な事があってムシャクシャした時にジッとしていると、そのムシャクシャに押し潰されそうになる。家を出て新たな出来事を得、嫌な出来事に上書きし、そのムシャクシャを薄く、もしくは消してしまうというのが最も健康的で効果的な方法だと信じている。
その日は長女がゴネていた。何が気に食わんのか分からぬが、ウネウネウネウネ長時間ゴネた後、ヒソヒソヒソヒソ嫁に相談を始めた。
「二人して日陰を歩くな!バカヤロー!」
ヒートアップした私は子供部屋に乗り込んだ。すると嫁が耳打ちした。父のあしらい方を長女に教えたらしい。
「やり過ごそうとすんな!胸張れる手段でぶつかって来い!こんちくしょー!」
逃げてばかりの二人組が気に入らなかった。
嫁は長女の前に立ち塞がっていた。私は嫁を払った。足で払った。その当たりどころが悪かったらしく嫁がよろめいた。
「痛いじゃないの!バカー!」
長女が泣き出した。嫁は怒り狂った。こっちのムシャクシャも爆発した。
「お前らのコソコソが好かーん!」
こうなってしまうと、そもそも喧嘩の理由が何だったのかよく分からなくなった。とにかく、その場をやり過ごそうとする女たちへのイライラが止まらず家を飛び出した。
仕事をすればこのムシャクシャが消えるかもしれない。そう思って仕事をした。が、ムシャクシャは増幅し、狭くて汚い作業場が苦しくなってきた。
歌を聴いた。ノリノリの歌がいいと思っておニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」を聴いた。
「あげないっ♪」
「あげないだとぉー!この生意気おニャン子!こんちくしょー!」
この段階に達してしまうと室内にいるのはよくない。物を壊してしまう可能性があり、ついでに自分が壊れる可能性もある。ジッとしていてはいけない。ものを考えてはいけない。こんな時に悶々と考える事ができたら尾崎豊や中島みゆき、三島由紀夫や太宰治になれるだろう。凡人は家を出て忘れる事に努める、それが賢明であった。
バイク(カブ50)で家を出た。とりあえず山を下った。まずは日常から離れる必要があった。阿蘇を出た。外輪山の割れ目・立野河口瀬を抜ければ大津町の瀬田であった。その瀬田の端っこに畑という集落があって何となくそこがお気に入りであった。畑は熊本平野から見ると阿蘇方面の突き当たり。そのドン突きに神社があって、三方を高い岩肌に囲まれている。如何にも昔の山伏が欲しがる地形でいじけるには最高だった。
「そういうところがいい」
少年が押し入れに籠もるように家出者は山伏っぽくならねばならぬ。ここで何かが溶けてくれたら儲けもの。荒れた境内でゴロゴロ時間を潰した。が、ムシャクシャは消えなかった。消えてはいけない。ここで消えたら家出にならぬ。外出と家出の違いは普段と違う帰宅時間にあった。この外出を家出と呼ぶには深夜、もしくは翌朝帰る必要があった。
「海しかない」
海を目指した。山人の非日常、それ即ち海であった。とりあえず熊本港に出た。
港から海を見た。緑色の海があった。ゴミがやたらと浮いていた。まったく癒されなかった。どうせなら綺麗な海が見たかった。
「南に下ろう」
目的地を南の海に決めた。海っぺたの知らない道を南へ南へ走った。八代を越えてやっと田舎っぽくなった。芦北を越えて本格的な田舎になった。
「このまま水俣まで下ろうか?それとも鹿児島まで行って、川内、指宿、いっその事、船に乗って屋久島まで行ってしまうか?」
ノッてきた。旅とはそういうもので、意味のない飛躍に旅の醍醐味があった。更に言えば、こういう気分の時に旅っぽい何かが起こるもので、こういう気分になれるからこそ家出が必要であった。
昼飯は魚肉ソーセージを食った。旅の常食として私はこれを愛用していて、必ず神社仏閣でそれを食った。
手元に地図がなかった。ここは津奈木か水俣か、とにかく右手に海があって、入り組んだ陸地が続いていた。
知らない村の知らない神社に入った。賽銭投げて石段に座り、魚肉のそれを黙々食べた。食べながら境内を見渡した。小ぶりだがよく清掃された神社だった。
老人が草むしりをしていた。
「精が出ますね」
「趣味ですたい」
老人は黙々と草を抜き、竹で編んだしょうけに入れた。しょうけがいっぱいになると裏山に捨てて戻ってきた。効率が悪かった。老人はこの行為を趣味と言ったが、確かに草むしりが目的のようには思えなかった。むしって山へ行った老人は、ふらりふらりと境内を歩き、やたら遠回りして戻ってきた。抜いたところを踏み固めているらしい。
「何という気長な作業!まさに趣味!」
私は魚肉ソーセージを噛む事すら忘れ、その行為をガン見してしまった。老人は風景作りに没頭していた。これは相当な人間性がいる。人間が出来てないとやれるものではない。
ある山寺の和尚さんを思い出した。鎌倉時代から続くその山寺を訪れた時、その和尚さんも草むしりをされていた。広大な敷地だったので、
「刈り払い機を使わんと大変でしょう」
そう言ったら、
「刈り払い機を使うと風景が病む」
そう返ってきた。ザッと抜いた後に踏み固めるらしい。それが山寺の風景を作るそう。
私は老人に話しかけた。そういう事かと思って直球で問うた。
「風景を作っておられるのですね?」
老人は目を丸くした。
「なんば言よっとな?」
「この境内の風景を作っておられるのですね?」
「暇だけん草むしりばしよるだけたい」
老人は私の言葉を肯定しなかった。否定もしなかった。刈り払い機を使わないのは確かにその仕上がりが気に食わないからだと言った。ただし手で抜く事と踏み固めに哲学や指導はなく、単に運動と実益を兼ねているらしい。
「考えた事なかったばってん、確かに手で抜いて踏んだ方が美しかけんそぎゃんしよる、ああ、そう言われりゃそう、ばってん一番の理由は暇潰したい、家におったっちゃ婆さんが嫌がる」
何と立派な老人だろう。立派とは自然体を指す。この老人には何の衒いも気取りもなかった。
家出者は自然に弱い。猛烈に感動した。
「実るほど、こうべを垂れる稲穂かなー!」
自然に満ちたこの老人は恐るべき人格者に違いない。私は魚肉ソーセージを老人に振る舞った。家出の事も話した。老人は長くなる事を察したのか「ちょっと待て」そう言うと社の下から椅子を持って来た。
「さあ話そう」
若い暇人と老いた暇人のぶつかり合いが始まった。
老人は私の発言を一言一句漏らさず受け止め、咀嚼し、長い沈黙の後、短いが確かな日本語でその感想を返してきた。会話が反射の延長上にある昨今、このテンポに身を置くだけで、この老人の凄味が伝わってきた。
感想という表現もいい。その場に居合わせなかった人間の反応は感想でしかないと言う。片方の言い分しか聞かず、現場も見ず、助言やアドバイスなんて片腹痛い、そういうのは増上慢の典型らしい。
「だから私はあんたの言う事に対して感想ば言う、感想しか言えん」
この老人は禅僧もしくは教職であろうか。「草むしりが趣味のジジイ」それ以外は自己紹介がなく、聞くのも野暮に思われた。ただ想像するに教職は違うかもしれない。
数年前、教職の神と崇められる先生宅へ長女と二人で泊りに行った。この先生は頭の先から爪先までストイックで、どこを切っても教職であった。そういう匂いが老人にはなかった。
老人と日暮れまで話した。老人の言葉には感想という名の名言が多かった。併せて私事という名のエロ話やバカ話も多かった。分量比を思い返すに感想を1とするなら私事が8ぐらいあった。
「マジメな話は疲れるけん」
そう言って強烈なシモネタを放たれた。シモネタの球種が重かった。更に多様であった。山の手のお嬢様が聞いたら失神してしまうレベルであった。遊郭遊びに詳しくて色街の変遷とその妙技を語ったかと思ったら、新宿二丁目・昔の男の必殺技、次いで女はアジア、なぜなら欧州、南米と比較して、その具合を語る次第。ハンパな引き出しではなかった。
私はこの偉大なる老人の名言・金言が聞きたかった。が、老人曰く「死ぬ間際になると下世話な話こそ重要だという事に気付く」らしい。自然と忘れてしまうような事が意外と大切で、忘れたいとか残したいとか、人間を意識させる話はつまらんもんらしい。
私は帰宅後、幾つかメモを残した。そういうものが老人の言う「つまらんもん」だと思われるが、まだ死ぬまでには時間があるらしく、やはりシモネタよりマジメな話の方が印象深かった。
マジメな話に触れたい。
「やり過ごす」というのは結局問題の後回しらしい。やり過ごしの蓄積を懸命に修正する作業が言い訳で、問題を問題だと認識し、その場で処理してれば言い訳をする必要がないと言う。その点、嘘と言い訳は似ているようで構造上の違いがあり、どちらも良いとは言えないが、嘘の方がだいぶマシで可愛気があると言う。
知恵の話も良かった。知恵の前段・知識は日陰者らしい。この日陰者をお日様の下へ担ぎ出し、明るい知恵へと変えるには知識の実践が必要で、実践なき知識の積み上げは根暗の陰気者を作るばかり、百害あって一利なしだそう。
「知識人が増えると世の中どんどん陰気になる、知識人の判断は暗かでしょうが、それより少ない知恵をチョット持った色んなタイプのバカがたくさんいるといい、知恵で判断すると世の中明るくなる」
分かる。猛烈に分かる。シモネタの隙間にこういう話を叩き込むから沁みて沁みてしょうがない。死生観も見事。
「生きてる間の何事が娑婆にどう作用する?例えばたい、あんたが褒めたこの境内の一つば見てん、私がなんか言ったところで誰がマネすんね?ばってん、私が死んで草が伸びたとする、誰かが刈り払い機で刈る、何か違うと誰かが思う、その誰かが手で抜くかもしれん、そういうもんの繰り返しで今ができとる、な、生きてる間は誰も見らんし伝わらん、死んでから見らるる、そういうもんでしょうが?」
老人は夕方になると帰った。遅くなると心配した婆さんが警察に電話するらしく「シャレにならん」そう。
「若い頃は私も家出をしたクチで」
老人はそう言って笑った。今は家出にならんらしい。家出はある年齢を境に失踪、そして徘徊と名を変えるらしく、そうなるとシャレにならんで大騒ぎ、泣けてくるらしい。
「家出はええのぉ」
老人、最後の名言がそれであった。
芦北の御立岬で水平線に沈む夕日を見た。嫁からメールが来ていた。どこにいるのか問うていた。
「海にいる、夕日を見て帰る、遅くなる」
そう返した。
水平線を縁取る赤いラインが消えた。併せて私のムシャクシャも消えた。目的は達した。もう帰っていい。帰っていいが、これから帰ると9時前には着いてしまう。帰ろかな。まずいかな。家出人には家出人なりのメンツがあった。閉店までパチンコし、11時くらいに帰った。
嫁は起きていた。寝ててくれたら翌朝元気に「オハヨー」とか何とか言って見事な家出が終了したように思える。せめて笑って欲しかった。嫁はムスッとしていた。いつものようにスポーツニュースを見ていた。
「ご飯いるの?」
「いる」
ぶっきらぼうに返し、遅い飯を食った。飯を食いつつ私は老人との約束を今果たすか明日果たすか悩んだ。
「どんなに悪くない時でも一つは謝らんといかん、あんたには謝るべきところがある」
夫婦喧嘩というものは謝りどころ(着地点)を探すのが難しいらしい。が、私には足で払ったという絶好のポイントがあった。
「それを使って謝りなさい」
私と老人の約束であった。
夜飯は鯖の味噌煮であった。やたら骨が多かった。嫁はサッサと寝るらしい。寝床へ向かった。言わねばならぬ。延ばすときつい。
「おい」
呼び止めた。
「なに?」
「その…、なんだ…、えーと…、この魚は骨が多い」
「そう」
宿題を持ち越してしまった。
結局、翌朝謝った。「ごめん」と言ったら「はい分かった」そう返された。今度は恥ずかしくて家出したくなった。夫婦とはそういうもので、その点大きな違いはないらしく、こうなる事を老人に予言されていた。
「謝った後、あんたは恥ずかしゅうて燃えそうになる、家出したくなる、ばってんそれも一瞬、次ん日にはよか思い出になる、よかなぁ、若いってホントによかなぁ」
嫁と娘に話したい事が山ほどあった。ここで書いた色々を少しだけ食卓で話した。軽く流された。聞いてもらえなかった。やはり、あの老人が言うように生きてる間の色々は死んでからしか伝わらないらしい。
ちなみにこれを書いている今日という日(5月27日)は結婚記念日であった。本日より15年目に突入。色々あったがこの調子でいくとアッという間に暮れてしまうに違いない。老人の域は遠いようで案外近い。
「亭主ですか?現在失踪中です」
「おじいちゃん?どこか徘徊してるんじゃない?」
遠からずそう言われる日が来るだろう。そうなったら私は胸を張りたい。お日様にドーンと胸を張り、こう言いたい。
「家出はええのぉ」
達人とは余韻を残すものらしい。
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