第108話 すぐそこの色々(2015年5月)

熊本平野からもバッチリ見えるので気になっている方も多いと思うが山の斜面に二つの噴気孔がある。



調子のいい時は雲を成すほど噴いていて、実に不気味。歴史的にもこの辺りは湯の谷大変という水蒸気爆発(1816)があって、宗徒の湯谷を吹っ飛ばしている。
私が越してきた八年前には、この噴気孔はなかった。ここ数年の間に誕生した新顔で、消防団の噂によると別荘地の造成で地面をガリガリやってたら「ブッ」と噴き出し止まらなくなったと言う。
嘘かホントか分からぬが、双眼鏡を使ってよぉく見ると確かに家っぽいものが噴気孔近くに見える。別荘があるのだろう。
古くから人が住んでた地域だろうか。頼りにしている国土地理院の地図を見ると吉岡という小字が付いていて、どうやらそんな感じらしい。



今この小字は聞かない。この集落出身という人にも会った事がない。
地名辞典によると長野村の小村のようで、長野家の臣・吉岡八郎の屋敷があったとされ、寺も社もあったというが、それも遙か昔の話。長い事、牧場(ぼくや)を管理する人や杣の人しか近寄らぬ場所だったに違いない。
そこに別荘地ができたらしい。地元の人曰く「知らぬ間にシャレオツな街ができてた」らしい。募集の決め手は温泉付き分譲。噴気孔があるぐらいだからチョイと掘れば湯はジャンジャン出る。
「バブルの前だったかなぁ、そういうのがたくさんできたなぁ」
バブル前期の資本主義はカネと湯の臭いに敏感であった。湯が湧くところは狙い撃ちにされ、それを地元が許してしまえばアッという間に別荘地ができた。で、そういうところは御多分に洩れず、引継ぎ循環の思考が芽生えず、維持管理費が出なくなると打ち捨てられ、ゴーストタウンになった。ニッポンという国の流行り病であった。
その後の展開にもパターンがあって、吉岡も例外ではない。
「今は寂れとるじゃろうな、ぜんぜん行かんけん分からん」
地元の人も関心を示さず、村史もこういう類は一切載せない。田舎における資本受け入れの末路を集計・考察・学問化し、反省材料にすべきだと思うが、こういうものは資本家と政治家がネッチョリ抱き合い進めるもので触れると大抵叱られる。道を通さず人を入れず、ただ風化を待つというのがお決まりのパターンであった。
兎にも角にも噴気孔が見える。その周辺の別荘も見える。みんな「行った事がない」と言う。誰か行くべきだろう。率先して行ってみた。
地図には道が載ってなかった。が、噴気孔があるので、そっち方面にゆけば良い。愛車のスーパーカブ(バイク)で目指した。
道は今もあった。長野村の牧場(ぼくや)へ続く道で、その先へゆくと心霊スポットとして有名な阿蘇観光ホテル(廃墟)に出た。
吉岡の別荘地は今も健在のようで、立派な建物が急斜面に並んでいた。が、人の気配がなかった。
別荘地は硫黄臭かった。道の脇に温泉を分配するプールみたいなものがあって、熱々の湯が流れ込んでいた。プールの周りは土手になっていて、草の隙間から湯気が出ていた。土がほんのり熱かった。



「凄い!地面が熱い!ここに人が住めるのか?」
よく分からぬが、ここは別府の地獄谷や箱根の大涌谷に住んでいるようなもので、なかなかどうしてスリリング。アドベンチャー嗜好の方にはたまらぬ住環境だろう。
ぶらぶらした。人に会わなかった。が、生活の気配は感じた。電気も通っているし、家によっては草も刈られ、小奇麗にされてるところもあった。
噴気孔は別荘地の最も高いところにあった。急な坂道を登りきったところに立派な家があって、その奥からシューシュー噴いていた。ギリギリまで近付きたいと思った。が、背よりも高い草むらが行く手を遮り近付けなかった。



それにしても音が良かった。
「ヒュー!ピピピピ!シュー!」
風の音、鳥のさえずり噴気孔。地球に生きてる感全開であった。
内圧の高まりをこのポイントが逃がしている。ここに住む人は地球の吐息を聞きながら暮らす事になるだろう。ただし稀にクシャミもする。それは明日かもしれないし100年後かもしれない。クシャミの場合は生きてられない。湯の谷大変から200年、もしここがドンときたら、ここにある別荘地の色々が麓の我家へ降ってくる。
火山と暮らす醍醐味を見た。

もう一つ、ずっと前から気になってたところに行った。
これである。



拡大しなくちゃ分からぬが橋である。



阿蘇のメインロード57号線をスーパーカブで走りつつ、よそ見をして気付いた。
57号線から南郷谷へ入るメインは阿蘇大橋、地元の入口として長陽大橋も有力だけれど、古くは黒川橋という石橋が白川と黒川の合流点付近に架かっていて、それがメインであった。この橋については2008年に碧翠楼という題目で生きる醍醐味に書いたが、その後、九州北部豪雨で流された。(リンク先の最下部に写真あり)
私は地球を意に介さぬ巨大構造物が嫌いで、それが農村を文明側に引きずり込み、結果として農村を疲弊させてると勝手に思い込んでいる。田舎は不便がいい。不便の中で独特の価値観を持ってる方がいい。田舎の人たちが文明的原理(便利)に焦がれてしまったら、後は都市部の思う壺ではないか。
黒川橋が流れたのは痛かった。私を含め一部マニアしか泣かなかったが、行政が通行止めにして人を行かせなかった黒川橋は本当に過去の縮図であり、前記マニアが集まって呑むと、それだけで四半刻は語れるという凄味があった。黒川の狭いところを狙って架け、そこへ続く道も斜面を縫うように曲がり落ち、それから先も川と崖に沿ってグニュグニュ曲がって進むという地球を尊重した道があった。
ちなみに、
「すかーん!」
と、叫ぶ呑み会を私は愛している。「すかーん」は熊本弁で「嫌い」という意味だが、呑みながら叫ぶ明るい「すかーん」は実に気持ちがいい。
「なんとか大橋とか、なんとかトンネルとか、いっちょんすかーん!地球ば気にせんで人間様の事ばっか気にして、ズゴーンと真っ直ぐ地球ば通す!地球に遠慮しろー!巨大土木はすかーん!」
そうは言いつつも、毎日巨大文明にお世話になってる現状がある。お世話にならなきゃ南郷谷から出られない。その現状がこの橋の出現で少しだけ変わるかもしれない。期待してバイクを走らせた。谷を下った。ギョッとした。想像以上にステキな橋があった。
「いいっ!橋の名前がいいっ!」



橋場橋。橋場に架かる橋だから橋場橋。
古い時代の名付けはシンプルが好しとされた。地名は地形や地目によって付けられ、構造物もそれに倣った。これに偉そうな連中が食い込んでくると漢文調が好しとされ、渡月橋やら大観望やら物々しい名前が付いた。最近は更に酷くなって横文字が流行りだそうで、セントレアとかアルプスとか、ヘソで茶を沸かすってなもんで、橋場橋は今だからこそ凛とした凄味があった。



気に入った。下を流れる黒川がダム川ゆえ濁っているのは気になるが、新緑に突き刺さる飾り気のないフォルムは見事であった。
30分ぐらいボーッと眺めた。誰一人通る人はいなかった。



南郷側には弁財天(水の神様)が祀られていた。その奥には清冽な水路が走っていた。橋場という場所は古くから水の要所として親しまれているのだろう。ふと三女の事を思い出した。水泳の授業で6メートルしか泳げず笑われたらしい。私も25メートル泳げない。教えられない事は神頼みがいい。
「三女が10メートル泳げますように」
賽銭箱に百円を投げ、橋場を去った。

さて、愛車で走るに絶好の季節が訪れた。スーパーカブは今日もカルデラを走る。
私はこの愛車が好きだ。愛している。10年前に2万円で買ったカブを今でも騙し騙し乗っている。捨てられない。
燃費が悪くなってきた。走ってる最中にウインカーも落ちた。猫をひいた後、なぜか風防が割れた。年頃の娘に話しかけたら他人のフリをされた。
それでもカブが好きだ。



カブでよそ見が楽しい。よそ見で気になったところに必ず寄る。いずれ事故って後悔するかもしれない。が、逆らえない。それ即ち楽しいの心と知る。
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