第150話 老人の日本語(2020年5月)

物事を複雑にしたがる人には必ず裏がある。
税務と労務を見るといい。難解な日本語の羅列で物事を複雑にし、そこに仕事を作り、役人が天下る仕組を作った。何と頭がいいのだろう。いいのか悪いのかよく分からないぐらい頭がいい。
更に言いたい。ポッと出の横文字を使いたがる人にも必ず裏がある。
エグゼクティブプロデューサー、CEO、COO、名刺交換で横文字表記の肩書を見ると必ず日本語訳を求めるようにしている。で、
「部長なら部長って書けばええたーい!何で横文字にすっとー!」
キャピキャピ質問すると皆一瞬黙る。そして「グローバルスタンダード」とか「社の方針」とか色々言うけど結論はよく分からない方が権威付けには都合がいいかららしい。これは宗教家とか政治家とか評論家の得意技で、分からない言葉で人を混乱させ、自分の優位な方に導こうとする。
これは去年の話だけど、ある寺で年老いた坊さんが若者に説教してる現場を見た。いい話だったので「聞いてていいですか?」と聞くと老人優しく頷き、こう言ってくれた。
「話ってのは聞きたい人に聞いてもらうためにある」
何やら若い坊さんが集まって議論の後の反省会らしい。
「お前は勝ってない、皆お前の早口に疲れただけだ、言葉は分かってこそ言葉、噛み砕いて分かるように伝えなさい」
年老いた坊さんは議論を優位に進めた若者の姿勢が気に入らないらしい。若者の心をズバリ言い当て「私も昔はそうだった」と付け足した。
導きたいとか論破したいとかって思うと勝たなきゃって気持ちが前に出るらしい。手早く勝つには相手が分からない事をたくさん喋って相手の脳味噌を疲れさすのが一番いい。
「分からないってのが一番疲れるもんな」
下を向く若者の顔を老人が笑って覗き込んだ。若者は目をそらした。
「相手が放り投げたら勝ちじゃない、それは錯覚、若気の至りだ」
若気とは何か。それは欲の膨張期を指すらしい。無欲で生まれ、欲が膨らみ、欲がしぼんで死んでいく。
「欲と向き合う、それは生きるという事だ」
欲の風船は膨らめば膨らむほど後が苦しい。破裂して一気にしぼんで生きる希望をなくしたりもする。だから早い段階で欲の膨張を止め、小さな袋から小出しに欲を出しながら小さく生きる。
「それが幸せに繋がる確かな道だ」
宗教語が一切なくホントに分かりやすかった。こういう話が聞きたいと思った。なるほど無欲の言葉が一番沁みる。坊さんこう言ってた。
「私はもうすぐ死ぬから欲が薄いのよ、だから言いっ放し、言いっ放しの今が最高、でも人より多く生きてきたから、何て言うかなぁ、確信みたいなものがあって、それをダラダラ勝手に喋りたいの」
最高だ。得も損もなくなった無欲の老人はそこら中にたくさんいるに違いない。無欲の赤ん坊は喋れないけど死を間近に控えた老人は喋れる。聞きたい。半世紀以上大人を生きた人の真っ直ぐシンプルな日本語が聞きたい。
それからそれっぽい老人を見付ける度に話しかけるようになった。が、欲と命が尽きかけた老人ってのはいそうでいないもので、やはり生きてりゃ説教に寄るところが多く、もう死ぬぞ、これぞ言いっ放しだって老人はなかなかいなかった。が、いた。小さな酒場で酔い潰れていた老人に僕はふるえた。
去年奥様に先立たれたそう。子供は3人いるけど誰も家に近寄らない。奥様の葬式以来、孫も子も会ってないらしい。
「さみしいですね」
そう言ったら老人が吼えた。
「バカヤロー赤ちゃんが生まれたら喜ぶだろがー、死ぬ時もあのクソジジイがやっと死んだって喜ばれるのが生きものとして正しかろーが、昔はみんなそうだった、みんなクソババアにクソジジイばかり、死んだらみんな大喜び、葬式は大宴会よ、今はみんないいヤツで死にたいから大人のまま猫をかぶって死んでいく、ジジイやババアはちゃんと嫌われ万歳三唱で死なんといかん」
正しい正しくないは別として何と真っ直ぐな日本語だろう。不覚にも僕は泣いてしまった。生と死は喜ぶのが生きものとして正しいという老人の主張に建前は一切なかった。
欲が生んだ社会性、それ即ち大人の成分を捨て、子供に還って「死んで万歳」社会悪として消えてゆく。
「正しいのはどっちだ?」
「分からん!分からんけどじいさんすごいぜ!」
老人は先に帰った。払いはツケらしい。「勘定は僕が払う」と言ったら「てめぇぶっ殺す」と言われた。
最高だ。引き続き無欲の老人を探したい。
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