技術屋の血 〜先祖を追う〜
2008年6月13日執筆
阿蘇の事を調べるつもりで借りてきた資料に「明治百年・熊本県の歩み」という本がある。昭和43年に毎日新聞熊本支局が発行したもので、軽妙な文体が実に読みやすい。他にも色々と借りてきたが、文章が論文調だと庶民派の私は眠くなってしまい、どうもいけない。名字に関するものや神社仏閣に関するもの、宗教に関するもの、欲している知識を広く浅く得るため、ここ数ヶ月、時間をかけて読み漁ったが、どれも文体が固く睡魔との闘いであり、唯一この本だけが一気に読めた。
内容はタイトルの通り明治の熊本を振り返ったものであるが、なかなか笑わせてくれるし泣かせてもくれる。幾つか内容に触れてみたい。
どこの県も事情は同じであろうが、行政は政治的集合体を幾つか抱える事で成り立っている。熊本はそれらの反発が猛烈に激しかったところらしく、政争県熊本と呼ばれていたらしい。明治初期の熊本には四つの党があって、敬神党、実学党、学校党、民権党、この四つがあった。
敬神党はいわゆる超保守派、血と神様を愛してやまない集団である。
実学等は幕末の二つ目玉の一つ熊本出身・横井小楠を師と仰ぐ改革派である。(もう一つの目玉は佐久間象山)
学校党は藩校・時習館の流れをくむ士族中心の保守派である。
民権党はルソーの民約論を聖書と仰ぐ自由民権運動系の改革派である。
明治以降の熊本においては保守派の勢力が強く、維新後もなかなか旧時代の風が抜けなかったが時代の流れを受け、横井小楠系の実学党が政権トップに躍り出た。実学党は今までのやり方をひっくり返し、様々な改革を断行したが、何でも通るようになると、
「過去の象徴・熊本城も焼いてしまえ!」
そういう風になってきたものだから自然下火にならざるを得なかった。政府の圧力や時代の流れを受け、民権党が強くなったり、学校党が盛り返したり、寄っては引いてく波のように権力という一つ旗を取り合ったわけだが、敬神党だけはなかなか近寄れない。
敬神党は神にすがり文化にすがり、文明を徹底的に拒絶した。この党員に至っては電信(電報)の開通をバテレンの魔法と呼び、国が滅びる大元であると信じたらしい。彼らは電線の下は通らぬように心がけ、どうしても通らねばならぬ時は扇子を頭上にかざして通った。山口県に至っては電信を通すため処女の生き血を電線に塗らねばならないというデマが飛び、大混乱に陥った。この結果、電線を通しても切られる事態が相次いだらしく、政府もこの集団に頭を悩ませた。
また、敬神党は神風連の乱という西南戦争の前哨戦を演じている。この乱において、彼らはバテレン魔法の中継基地、熊本電信局へ飛び込んだわけだが、その際、勢い余って机の上にあったインクをこぼしたらしい。インクは黒い。バテレンの血も彼らが言うには黒いらしい。それでバテレンは死んだと思ったらしく、気を良くして帰ったという逸話も残っている。
ちなみにこの神風連の乱、一晩で鎮圧されている。理由は文明の利器・鉄砲を使わなかったからで、徹頭徹尾・武士の魂「日本刀」による乱を通した。彼らは優勢に乱を進めたが、いかんせん熊本城から大量の鉄砲隊が出てき、一気に形勢が逆転した。普通に考えれば当たり前の成り行きであるが、乱の目的が廃刀令や国の西洋化に対する抗議等、文明社会への反発であったため致し方なかったのであろう。
国の西洋化は急ピッチに進む。庶民の感覚としては敬神党に近かったが、敬神党と違うところは興味を持って文明というものを眺めたところにある。
文明流入による明治人の驚き、その代表格として鉄道がある。明治24年、熊本−高瀬(玉名)間に初めて鉄道が通った。ここにも明治の気分を表す面白いエピソードがある。
鉄道を取り囲む野次馬の中で猛烈に乗りたいが、いかんせん金がない男がいた。彼は家に戻るやカゴいっぱいに卵を詰め込み、沿線から飛び出して陸蒸気(列車の事)をとめた。陸蒸気は律義にとまり、そして問うた。
「何だ、お前は!」
「卵ばやるけん陸蒸気に乗せてはいよ!」
男は必死にそう言ったそうだが、たぶん殴られただろう。笑える。
更にもう一つ。明治24年、熊本に初めて電灯がともった。田舎の人は熊本の街に出、驚き、そして電球を土産として買い求めた。彼らは家に戻り、買ってきた電球を吊るしたが灯りはつかない。仕方がないので油ビンを持って電灯会社を訪ね、
「電気油ば売ってはいよ」
そう言ったそうな。これも笑える。
とにかく激動の明治において、庶民はうろたえ政治家は政争を続けているというのが熊本の具合であったらしい。
で、これを読みながら、
(うちの先祖はどうだったのか?)
ふと、その事を思った。ちょうど思ったその日に山を下りる用事があったため、父方の実家へ足を運び、祖母に話を聞いた。親族の中でこの祖母が最高齢になる。福山家は割かし長生きの家系で私が小学校の時まで曾祖父、曾祖母がいた。この二人は明治の生まれであり、話を聞いておけば良かったと今更ながらに思っているが、小学校でそういう気分があったとすれば変人であろう。せめて実父がその辺の話を知ってないかと聞いてみたが、
「調べようと思いよったばってん、結局は何も調べとらん」
最年長、大正生まれの祖母に聞く以外、血を追う術はなかった。
父・富夫は末っ子である。父の兄は既に他界したが、超頑固な技術屋で、私から見れば祖父にあたる人も根っからの技術屋であった。祖母が言うに祖父は「電気の神様」と呼ばれており、「あらゆる機械を修理する」というのが謳い文句だったようで、その方法も凄まじい。
ドリームという古いバイクの修理依頼があったそうな。祖父はそれを見、どう見ても簡単には修理できそうになかったので全ての部品をバラしたそうな。原因が分からない時には全てバラし、部品全てをチェックし、修正し、組み直すというのが祖父のやり方だったようで、手間を考えるなら買い直した方が間違いなく安上がりであるが、兎角そういう技術屋だったのだろう。「できない」は禁句、部品がなければ作る、モーターがなければ巻線からやるというのが業務の方針で、それは伯父に受け継がれている。
祖父は婿養子である。祖母が四人姉妹の長女であるため、そういうかたちになった。祖母の実家は根っからの農家で熊本県三加和町にある。祖父の実家は有明海沿いの長洲町にあるらしく、そこで半農半漁の営みを続けていたらしいが、曾祖父の代に三池炭鉱の発電所へ勤務するという事で荒尾へ出た。たぶん曾祖父は次男以下だったと思われる。こちら側の姓を塩崎というが、私は接点を持った記憶がなく、ハッキリいって馴染みが薄い。ただ私の父は付き合いが深いらしく、父が経営するホビーショップ・シオザキはこの流れから来ていて、大牟田にも同様の店があるらしい。(行った事がない)
とにかく塩崎という血の流れの曾祖父の代から技術屋が始まっており、それ以降、一人もモノづくりから外れる事なく技術屋のみで四代を構成している。
祖父について更に触れたい。祖父は六人兄弟の二番目である。一番上は炭鉱に勤めた。三番目は祖父の助けを受けながら鉄工所を開いた。四番目は前述したが炭鉱に勤めながらプラモ屋を経営し、父の先駆者となった。五番目、六番目は女性で、どこかへ嫁いだ。いずれも三池炭鉱がその舞台として登場する。
三池炭鉱は江戸時代以前に発見されたとなっているが、本格的な採掘が始まったのは1721年である。その後、熊本県北、福岡県南に大いなる繁栄を与えたが、他の炭鉱同様、石油の流通で一気に冷めた。
祖父は曾祖父の流れをくみ、この炭鉱の電気技術者として青春を送った。最終学歴は祖母が言うに尋常小学校らしく、炭鉱へ勤務後、独学で勉強したらしい。赤紙は来なかったようだ。炭鉱の保安要員として免除されており、この点、炭鉱と祖父の密接な関係が何となく分かる。
祖父と祖母は見合い結婚である。三池炭鉱で働いていた北原という人の紹介で縁組された。
ちなみに福山家の本家は三加和町の豊前街道沿いにある。白坂という難所があり、その登り口に本家はある。白坂は通称「めくらおとし」と呼ばれ、登りながら曲がっていて、真っ直ぐ進めば崖から落ちる。それで「めくらおとし」と呼ばれているわけだが、祖母や実父、それに福山家の先祖は豊前街道と共に歴史を重ねている。豊前街道は熊本から山鹿、南関、八女を通り、北九州までゆく古道であるが、八女から先は都市化が進んでいるため全く分からない。熊本を出た後、植木から南関までが比較的残っている方で、そこも今頃になって観光地化されようとしている。
この福山家・縁(ゆかり)の古道、触れ合い方も人それぞれで、実父が子供の頃は弾拾いをしていたらしい。豊前街道は西南戦争の激戦地だった事から多くの弾が地中に埋まっていたそうで、そのほとんどを近所の子供がほじくり返したそうな。
また祖父は電気自転車を自作したらしいが、この白坂を走らせて性能のチェックをしていたらしい。
親族の今を培った古道、いつまでも変わらずにいて欲しいと願うが、観光地化するという事は現代においては車が行けるようにするという事でもある。固められてしまうのも時間の問題だろう。
さて、祖父であるが縁組したことにより祖母の実家から炭鉱へ通う運びとなった。時は戦時中、炭鉱の保安要員として赤紙免除の身分であったが村には男手がない。更に祖父は「電気の神様」と呼ばれるほど物品修理に精通した使える逸材である。地元の電気品、その修理も頼まれればやったらしく、その腕はすぐに評判となった。村の長者である福山イサクさんという人にもその声は届いたらしく、炭鉱を辞めて村の専属修理人になるようお願いに来られたらしい。ご丁寧に炭鉱に宛てた「この人を村にください」という手紙も持参して来たらしく、祖父はそれを持って炭鉱に行ったそうな。が、それを炭鉱が受け取るはずもなく、怒鳴られシュンとして帰ってきた祖父だったが、以後一週間ほど無断欠勤したらしい。すると憲兵が村に現れ、
「炭鉱に戻らねば徴兵する!」
怒鳴り込んできたから大慌て。急いで炭鉱へ舞い戻ったという。
祖母が言うに、炭鉱の怒りは相当なもので、何かバツを与えねばならないという風になり、その結果、熊本市のどこかの寺へ預けられ、延々と田植えをさせられたらしい。祖父がこのバツで懲りたかどうか、真相は分からぬが、案外楽しんだのではないかと思われる。その証拠に終戦から六年後、祖父は炭鉱を辞めるのであるが、その理由は、
「百姓の家に婿養子として入った。だから百姓をしなければならない」
これであった。
祖父は百姓仕事も満更じゃないと思ったのではなかろうか。というよりも、その性格として飽きっぽかったのではないかと思われ、炭鉱にも電気の仕事にも飽きてしまい、他の仕事をやりたがっていたのではあるまいか。これは祖父の子孫である私と照らし合わせて考えているが、祖父はこの後、幾つか仕事を変える。人間のタイプにもよるが膨大な熱量を放出するためには課題と新鮮さと夢がいる。課題は次から次に生まれるが新鮮さと夢は時間が劣化させる。極々稀に新鮮さと夢が持続する人がいるが、祖父は私同様平凡な思想の持ち主だったのではあるまいか。
とにかく祖父は炭鉱を辞めた。が、辞めた理由である百姓仕事には本腰を入れていない。本腰を入れられなかったと言った方が的を得ているかもしれない。百姓の仕事は副業で、機械修理が主という状態が二年も続いたようである。村に百姓は山ほどいた。しかし電気の神様はいなかった。祖父が願っていたかどうかは分からぬが、周囲の力によってそういう方向になり、その結果、祖父は婿養子でありながら本家を離れ、近所で独立する運びとなった。
跡を継ぐ者がいなくなった本家は大変であったが、そこは祖母の妹が新たに婿養子を迎える事で落ち着いた。祖母は四姉妹であるが四姉妹とも近くにいて元気である。今もたまに集まっては茶を飲んでるらしく、実に微笑ましい限りであるが、四人全員が長く生き、その上、元気で仲が良いなどは奇跡の状況に思える。
さて、福山鉄工所として独立した祖父であるが猛烈に繁盛したらしい。待っている修理品が工場に入りきらず、場外に列を作っていたそうで、「働きづめの数年間だった」とは祖母の言である。当然かなり儲かったはずだが、その事を問うと当時の夫婦喧嘩が思い出されるらしく、祖母は熱くなった。
「あの人は金儲けが下手で下手で、それで喧嘩ばっかしよった!」
仕事は超細かいくせに金を取る段階になると超適当だったらしく、「そっでよか」が口癖だったそうで、この流れは子へも続いている。この子供というのが父の兄、つまり私の伯父であるが、頑固者の鑑と呼べる技術屋で、生涯を油と電気に捧げ、祖父と同じ六十で逝った。この妻、つまり伯母も伯父のカネに対する姿勢を猛烈に嘆き、その点、嫁姑が激しく同調している。
つまり技術屋、そういう血であった。
祖父が最初に鉄工所を開いた場所は豊前街道沿いの借地らしい。家は近所の空き家を解体し、持ってきて組み立てた。プラモデルじゃあるまいし、この時点で何だか浮世離れの感はあるが、現に浮世離れした祖父であったと推測する。
祖父は私が六歳の頃に亡くなったが、その頃、酔った祖父に噛みつかれた思い出が今も離れない。仏壇の上にある祖父の顔と伯父の顔は年々ソックリになり、ついには伯父の人格が祖父の人格となった。私の実父が言うにも祖父と伯父は似ているらしく、私の考えはそう間違っていないだろう。
ちなみに生前の伯父とはムナヤケするほど語り合った。三度の飯よりモノづくりの話が好きで、それさえあれば酒のつまみは要らないような人だった。手作りの工場を祖母の家に構えていたが、そこに屋根より高い手作りエレベーターを建設し、近所のランドマークとなった。作業場には伯父しか使えない工作機械が山ほどあり、八百坪の土地は伯父が拾ってきたガラクタで埋め尽くされた。
「おっちゃん、このガラクタ死ぬまでに使い切らんでしょう」
「なんの、これは宝の山、必ず使おうたい」
そういうやり取りをしたが、それらは使われる事なく伯父の死後、鉄屑になった。
伯父の遺品を私はかなり頂いている。新品のキリや紙ヤスリ、それにボール盤を貰っているが、伯父は新品を持っていても全く使わなかった気配がある。刃物は何度も砥ぎ直し限界まで使っていた。ベアリングは古い機械をバラし、外周のサビを落とし、グリスを再注入して使っていた。昨今三千円で買えるラジカセに関しても、伯父はハンダゴテ片手に時間をかけて修理し、満足気な笑顔を見せていた。伯父は「モノを捨てない美学」を語り、そして体現した。それは現代の効率重視の感覚からすれば時間の無駄であり、何よりも膨大な土地がいる。しかし技術屋らしい技術屋にはこの要素が不可欠なように思え、そういう人物に出くわした時、尊敬の念を抱いてしまう。
伯父の遺品である新品のキリを使いながら、伯父が予備品を使い切るタイミングを想像した。たぶん千年はかかっただろう。この時点で伯父は新品の予備品を持つべきでなく、伯母に叱られるべき存在になってしまうのだが、モノを作って飯を食う人間は、モノを最後まで使い切る責任があるという伯父のポリシーは、今風のエンジニアである私からすれば、ただただ脱帽するばかりである。私たちがやっているエンジニアの作業、標準品を組み合わせ、よく分からないブラックボックスにソフトを組んで納入、この型に嵌ったようなやり方は、この人たちから言わせると積み木をやってるようなもので、技術とは呼べないのかもしれない。ただ、私たちのやり方は圧倒的に早くて安い。安易で面白味に欠けるが確かな結果がスマートに出る。一つ大きな問題は循環の中で多くの廃棄物を伴ってしまう事にあるが、そこに目を伏せているのが私たち今風エンジニアで、明日を考えれば修正すべき点は多い。
さて、話を戻し祖父であるが、独立して十年弱、齢四十、技術屋として油が乗り始めている。マニアック修理人として噂も飛び交い始めたらしく、国鉄を始め様々なところから修理の依頼が来たらしい。祖母が言うに巨大な物の修理依頼も来るようになって、狭い道(豊前街道)に修理品が溢れ、車が通れないという事もしばしばで新たに工場を設けようという話が上がったそうな。そもそも土地は借り物で年に一俵の米を渡している。近くに売ってる土地もあり、「買ってくれんか」と話もきた。祖父はそれを即金で買った。価格は八百坪で百万円。今であれば山林並の価格だが、昭和36年の田舎にあっては高値の土地といえるのではないか。とにかく金儲けは下手だが、客は尽きる事なく多かったため、使う暇はなく、小金は貯まっていたそうである。
福山鉄工所は格段に広くなった。併せて仕事も増えた。このタイミングで人を雇う、そうする事でカンパニー化、規模拡大というのは始まるのだろうが、祖父はその道を選ばなかった。
技術屋に組織の運営は向かないというのは私の哲学であるが、無理してそういう事をされている方は意外に多い。そういう方というのは人とカネの管理に苦しみ、無理のある人生を送っておられる。本田宗一郎みたいに藤沢武夫みたいな人が見付かれば良いのだろうが、そういう幸運はまず得られない。技術屋の幸せはモノをつくるところにあり、人間の管理・統制が主体である組織づくりはその欄外にある。その点、幸せを見誤った人間ほど悲惨なものはなく、その事例は枚挙にいとまがない。
祖父は技術屋として心の声に従ったのではないか。
祖父のその後は子孫の私から見て極めて納得がいく。実父はこの時の祖父に関して、このような事を言っている。
「オヤジは実に気ままだった。気に入らん仕事は平気で断りよったし、気分のよか時はそこまでせんちゃよかろうというとこまで笑顔で引き受けよった」
この証言の背後にカンパニー化を望んでいる姿は全く見えない。祖父はこの時期というものを芯から楽しんだに違いない。
昭和39年、祖父は鉄工所を休業し、何とニワトリ(ブロイラー)の飼育を始めた。理由は「手が動かなくなってドライバーが回せなくなったから」らしいが、私が思うに飽きたのだろう。その証拠に動かない手で巨大なブロイラー小屋を自ら作り上げている。また、祖母曰く、祖父のブロイラー飼育に手抜きはなかったらしい。この点も食うためにやむなくやった仕事というより、望んで新たな世界へ飛び込んだ感がある。ブロイラーの生産数、質、共に近所のトップに立ったらしく、祖父の本気、それが窺え、肉体の衰えは微塵も感じられない。
冒頭でも書いたが熱量の大量放出というのは実に気持ちがいい。青春時代を振り返ると何ともいえない気持ちになるのは放出の余韻だろうが、祖父は慣れてきた仕事をやりながら、つい昔を振り返ってしまったのだろう。そして、うっかり自分が本来持っている熱量を「また吐き出したい」と願ってしまったはずだ。何度も言うが、持ってる熱量を大量に吐き出すには課題と新鮮さと夢がいる。祖父は炭鉱を辞めた時と同じように新鮮さを求めたに違いない。
手元には祖母から聞き書きしたノートがある。年表風に祖父の人生を抜粋し、遠目に眺めてみると、その人生は十年毎に状況を一変させている。大雑把にいうと三十までを炭鉱に捧げ、四十までを修理に捧げ、五十までをブロイラーに捧げている。全期を通じて祖父は技術屋であり、後期のブロイラー業においてもモノづくりやっていた面影がある。
祖父に「これを極めねばならない」という職人的信念はなかったに違いない。信念があったとすれば「熱中できる事をやらねばならない」という時間に対する愛情に他なく、祖父の移り気な年表は極めて納得がゆく。
祖父が他界したのは六十である。私と重なる部分はたった六年しかないがモノづくりをやっている印象は極めて薄い。朝早くにどこかへ出かけ、帰りにはショルダーバック型の高級お菓子を買ってきてくれた事を憶えており、その他は冒頭にも書いたが酔って噛みつかれた思い出だけである。
祖父の早過ぎる死に関し、実父はこういう感想を漏らしている。
「あんな気苦労の多い仕事ばしたもんだけん早死にした」
祖父は五十の坂を越えるやブロイラー飼育をやめた。
祖父の兄弟は三池炭鉱の周りに散らばっており、そこから一歩も動いていなかったのだが、その兄弟から仕事の誘いがあったという。内容は炭鉱へ人を派遣するという仕事で、今の人材派遣業と何ら変わりはない。当時はこういう人たちを親方業といったそうな。割のいい仕事だったらしく、荒尾で会社を設立し、祖父、その兄弟、そして伯父が運営に当たった。抱えている人材は二十人。どれくらい儲かったかは知らぬが、祖父は痛烈なまでに後悔しただろう。
人を抱える最も致命的な要件は、その従業員の生活を支えなければならないという事である。祖父が今まで支えてきたのはせいぜい家族であり、この点、自由があった。祖父は自分の人生を自分で決め、そのために必要なスキルを積み、勝手気ままに充実した時間を生きたはずだ。が、二十人という従業員は祖父の自由を根こそぎ奪ってしまった。引くに引けず、楽しもうにも楽しめず、悩み悩んだはずだ。この時に書いたであろう祖父の言葉が今も肉筆で残っている。
「腹を立てるよりさすったほうがよい。人を憎むより愛したほうがよい」
痛々しさを感じてしまうのは私だけだろうか。
また、実父はこうも言った。
「あぎゃん青くなったオヤジの顔は初めて見た。オヤジはこの仕事で病んだ」
炭鉱といえば事故が付きものである。祖父の会社においても例外ではなく、その抱えている人間が事故で死んだらしい。実父は祖父に付き添い、遺族の葬儀へ出たらしいが、いつも自信満々の祖父がシュンとし、真っ青な顔になっていたという。
祖父はそれから日課として般若心経を唱えるようになった。
そして昭和58年、初めて弁当を残した翌日、心臓病で死んだ。
私が初めて見た死人は祖父であった。今でも生々しく憶えているが、眠っているように血色のよい祖父が担架に乗って運ばれてきた。手元は仏教徒の倣いであろうか、ミゾオチの上で組まれており、それが崩れぬよう紐で結ばれていた。六歳の私はこの時なぜか猛烈に腹が立った。
「じいちゃんに何ばすると!」
叫んだ記憶があり、布団に入った祖父の横で泣きじゃくった覚えがある。
幽霊や守護霊というものは未だに信じていない。信じていないが一度だけそういったものを感じた事はある。祖父を荼毘に付した晩、全く眠れなかった。枕元に誰かが立っていて、気になって眠れないのだ。あれ以来、眠れない夜というのを私は知らないが、あの日の事を思い出し、そして今回、祖父の年表を製作するに至り、ただならぬ縁を感じてしょうがない。
祖父を天才という人は多い。しかし祖父は天才ではなかった。努力家の技術屋で、技術をもって自らの人生を作り上げようとする真っ当な人間であったと推測する。ただ、早い晩年にそれが崩れた。
祖父と私がどういうやり取りをしたのか、今となっては何も分からない。何も思い出せない。しかし私は葬儀の時、手が縛られている祖父に強い憤りを覚えた。なぜそういう思いを持ったのか、それは今までサッパリ分からなかったが、もしかすると祖父の自由に対する憧れ・思いを私は聞いていたのかもしれない。
祖父の生き様はその子孫に強い影響を落とした。祖父と一緒に仕事をやっていた伯父は、ある意味で祖父以上の変わり者、そして天才肌であった。が、祖父の死後、誰に仕える事もなく、誰も従えず、技術屋として一匹狼の生涯を終えた。
伯父の死因は癌であった。祖父のように突然死ではなかっただけに、その闘病生活を垣間見る事ができているが、その様を見ても根っからの技術屋であった。伯父は仕事同様、癌という病気そのものを理屈で考え、その根本に何があるかを考えた。そして一つ一つをつぶさに調査し、一つ一つに論理的な手を打った。それはバイクの修理を依頼され、部品をバラし、一つ一つの部品を精査した祖父のやり方に似ており、その作業は技術屋のそれと何も変わりがない。機械が動かない、であればモーターの巻線から始めよう、伯父は癌という「人間の故障」に対し、免疫力という根本、その徹底的修正に入った。
伯父は西洋医学の判断を遥かに超えて生きた。そして祖父と呼吸を合わせるように六十で逝った。
亡くなる二週間前であろうか、長女と二人で見舞いに行った。伯父は娘が怖がるほど痩せ細っていたが、何の何の、病床から復帰し、仕事をやる気満々であった。モノづくりの話をすると、その目は火がついたようにカッと開き、私の設計の拙さ、それを強く指摘し、
「オッチャンならこぎゃんする」
と、笑顔で説明してくれた。
つまり伯父とはそういう人で、技術屋として一生を過ごし、技術屋として死んだ。
伯父には三人の娘がいる。いずれも優等生で素行がいいものだから、親族会の時などは私の素行の悪さを常々指摘された。伯母も伯父も私を悪い見本としていた感があり、親しみはあったが褒められた事は一度もなく、否定される事がコミュニケーションになっていた。その伯父が一度だけ私を褒めてくれたのは、この見舞いに行った時であった。
「裕教みたいな人生もよかね、ま、楽しんでやれ」
褒められたと言えるかどうか、それは分からぬが、こういう事を伯父が言ったのは間違いなく事件であり、私は己が耳を疑い、続いて気持ち悪くなった。伯父も病中にあって様々な事を考えたのだろう。そして技術屋一本の人生も悪くない、悔いはないと確信しているが、私のようにチャランポランの人生もそれはそれでいいじゃないかと思ってくれたのかもしれない。
ちなみにチャランポランといえば、私の実父もそう思われていた節がある。超一本気の伯父から見れば大抵の人はチャランポランだが、その伯父が実父の事を指し、
「富夫も勝手気ままだけん」
私と重ね合わせ、何度かそう言った。
伯父は祖父に振り回され、その結果、祖父と何度も喧嘩しつつ祖父の跡を継いだような格好で一生を終えた。これに対し実父は末っ子だった事もあり、祖父に振り回される事もなく、勝手気ままなサラリーマンを三十まで続け、関東へ転勤を命じられるとそれが嫌でプラモデル屋を始めた。伯父から見ると弟である実父は芯がないフニャフニャの人間に見えたのだろう。そして、それから派生した息子(私)もフニャフニャ、何となく説教したくなった気持ちも分からないでもない。
話は変わるが伯父の葬儀の際、伯父が養毛剤を使っていたという証言を得た。(実の娘から)
「ハゲて悪いか、こんちくしょー!」
そういう感じの人だったため、伯父のハゲネタは私の持ちネタであったが、それを聞いてちょっと悪かったなぁという気持ちになった。しかし伯父の安らかな死に顔を見ていると、集団から外れたところに三本ほど往生際の悪い毛がある。むろん、それを放置する私ではない。コッソリやると後生が悪いので、皆が見ている前で抜いた。そして、その三本を「技術の神様」と崇めるつもりだったが、従姉妹(次女)が手で払い、どこかへ散らしてしまった。今現在、従姉妹三姉妹の中で次女だけが嫁いでおらず、それはこの報いだと思っているが、果たしてどうか。
話を戻し福山家であるが、祖母の話により曾祖父の一つ上までは分かった。馬十さんとトシさんという人らしく、この周辺は揃ってハワイへ移住している。冒頭で説明した明治百年の資料によると、明治26年に津田静一という軍拡主義者が熊本に移民会社をつくっている。この当時、世界は植民地ブームで、日本でも植民地を得ようという動きがあったようだが、この人はこんな事を言っている。
「わが国の人口は年々増加するが、なにも弱ることはない。海外に植民地をつくればよい。優勝劣敗は生物の世界の法則である。人口も面積もシナ(中国)は日本より多い。そのシナに日本は対決する」
この思いで、移民というよりも植民地化の前段として移民会社を立ち上げ、熊本を中心に精力的な募集を行った。この流れもあって、明治から戦前まで、熊本から多くの移民者を出している。移民先はハワイ、ブラジル、北米が多く、そのほとんどは百姓である。
明治期、熊本の百姓は本当に辛い時期を送っていたようである。明治18年、県庁が食うに困っている者の調査をしたらしいが、それによると阿蘇・上下益城・玉名の山村で109720人が餓死寸前の状態にあったらしい。当然、移民会社の募集には良い事ばかりが書いてあるので、「今よりはマシだろう」という事で応募の数は増えた。私の先祖はそういう流れでハワイへ渡ったらしい。
ちなみにハワイといえば母方の血もハワイへ渡っている。
母方の祖母は英語を喋った。三加和の隣、菊水という場所が母方のルーツであるが、ご近所でそういう人がいたかどうか、たぶんいなかったであろう。母方の血においては昭和の中期頃まで移民が続いており、日本に残った祖母は英語と触れる機会が多かったに違いない。
この祖母が菊水で床屋を営んでいて、実父は通勤途中そこへ通った。目当ては祖母の娘、つまり私の実母・恵美子である。結局それが実を結び、そこから私が生まれた。
明治期の熊本が政争県と呼ばれていた事は冒頭で書いた。私のルーツ、県北は民権党が勢力を伸ばしたところで、自由民権運動の拠点になった。荒尾からは宮崎八郎、宮崎滔天が出ている。前者はルソーの民約論を教典とする植木学校を開いた。後者は孫文の親友で中国の革命運動を陰ながら支えた。二人とも熊本では超有名な人物で、知らぬ人はいないだろう。これらの拠点という事もあって、県北は自由民権運動が盛んになった。山鹿では巨大な集会も開かれ、普通選挙も他に先んじて行われた。
これらと先祖の関わりも調べたが、父方・母方共に足を突っ込んだ形跡は見られず、知らんぷりをしていたようだ。ちょっと残念ではあるが、引き続き調査を続けたい。
また、福山という姓について図書館で調べた。この姓は九州に多い。地名として薩摩にある。千五百年頃、島津に名付けられた土地で、千八百年ぐらいから黒酢を作り始めている。今は黒酢の町として有名である。
他に広島の福山がある。こちらは城もあり福山の名を冠した武将もいる。
明治以降、庶民も名字を持つようになり、大抵は土地の名を名字とした。平安から江戸初期にかけ、武士への褒美は土地であった。武士はその褒美を受け取ると所有者として地名を名乗った。江戸中期以降、武士が扶持をもらうようになると、名字とは血筋の事を指すようになった。
維新後「名字を付けよ」と言われても、庶民は困ったに違いない。庶民は庶民であるがゆえ、恐れ多い名家の名は付けられない。大抵は武士が付けてる名字を外し、地名を付けたものと思われる。父方祖父の姓は塩崎というが、元は有明海沿い長洲町である。長洲には二キロに及ぶ石垣堤防が江戸時代に構築された。堤防を境に内側は水田、外側は塩田が造られ、以後近代まで塩業が町の重要産業となった。で、その塩田付近が塩崎姓発祥の地である。今その地名が残っているか、それは分からぬが、兎角そういう風に名字が付いた。
福山に関していえば薩摩の福山地方に住んでいた農民が移住してきたか、山が好きな人が勝手に付けたか、どちらかであろう。広島には福山の名を冠した武将がいるため庶民が付けるとは考え辛い。私という人間を武士の末裔と考えるには無理があり過ぎるので、上のように移住か適当、その二択と推測している。
総じて今ある資料から私の血を考えたい。
まず技術屋である。これは外せない。特筆すべき先祖として上に触れた祖父がいる。祖父は曾祖父がやった百姓脱却・技術者への挑戦を一気に一人立ちできるところまで高めた。だが自由っ気があり過ぎ、興る事はなく、無念の早世を遂げた。次に伯父である。伯父は祖父のやった事を濃縮させた。その方法はあまりにも純粋で一本気で、技術者というよりも職人といった方がいいのかもしれない。この二世代リレーの血はあまりにも濃厚、且つ強烈だったため次世代には薄れたと考えたい。特に私においては、実父がこの流れに背を向け、勝手気ままにやったという半世紀があり、この点フィルターを通したような薄い血が流れてきている。
また母方であるが、祖母は前述した床屋であり、祖父はカミカゼタクシーという会社に勤めている。祖父はシベリア抑留の経験者で、そこでも何か巨大なモノに乗っていたらしく、基本的に乗り物が好きらしい。酒も好きで年がら年中飲んでおり、運転は酒を飲んでやるものだと思っていた節がある。むろん運転は荒い。何度か酒臭い祖父の車に乗ったが、「カミカゼタクシー」という屋号に極めて納得のゆく見事な走りであった。ちなみに私が独立する時、「阿蘇カラクリ研究所」か「阿蘇カミカゼ設計」かで迷った。どうでもいいが、この流れを踏んでいる。
またもや脱線した。が、血の総括はすぐそばまで来ている。
これらの流れを得た父と母が床屋で出会い、私が生まれた。遺伝は得てして隔世の影響が大きいらしいので隔世四人衆をピックアップしてみる。三加和の祖母、電気の神様、英語を喋る祖母、カミカゼタクシー、以上の四人である。この四人を足して割れば私の人生像が薄っすらと見えてくるかもしれない。そう思ったが、人間は足せないし割れないし想像がつかない。無駄な検証であった。が、その反面、使った時間は極めて有意義であった。
これを書くための資料集め、読破、聞き取り、執筆、かなりの時間を費やした。費やしてる最中に秋葉原で無差別殺傷事件が起こった。彼は孤独な人生に疲れたという。彼の論においては孤独だと無差別に人を殺し、人の輪にいると怨恨で人を殺すという。彼の哲学の致命的な事は常に後ろ向きだった事だろう。
飲み屋で一杯やっている時、隣の女性がこう言っていた。
「これまで楽しんできたけん、いつ死んでもよか。でも、後百年は生きたかね」
彼女の時間は何と光り輝いている事か。
ご先祖様に学ぶ事は多い。その最もたるは今のこの瞬間の奇跡的ありがたさである。
六月十八日は技術屋の三回忌。間に合わせるべく、これを書いた。伯父に届く事を祈る。