| 薩摩の光 |
| 【帰路六十里】 行きはそれなりに目的があったが、帰りは目的がない。自由であった。 地図を見て隼人に向かった。隼人塚を見ようと思った。 国分寺跡と隼人塚は何となく似ている。賑やかな場所に石が突っ立っていて飾り気がない。ただ、隼人塚の方が愛されているような雰囲気がある。国分寺という響きより隼人という響きの方が鹿児島県民にとって馴染み深いからだろう。 隼人は今でこそ「はやと」だが、その語源となっている大隅・薩摩の先住民は「はやひと」と呼ばれた。「逸人」とも書いたらしく、その意は大和朝廷に屈しない勇猛な人間を指す。如何にも薩摩が喜びそうな言葉で、地名になったのもよく分かる。 私の認識では、隼人が鹿児島県の先住民で熊襲が熊本県(球磨郡)の先住民と思っていた。が、これを書きながら調べてみると、どうも線引きがないらしい。 隼人塚は「大和朝廷に殺された隼人と熊襲を慰めるため建てられた」と説明書きにある。平安後期の建造物らしいから、熊襲の大将・川上梟師(かわかみのたける)が討たれて千年近い時を経て建てられた事になる。何が凄いって、千年という気が遠くなる時間、隼人の話を語り継いだ祖先が凄い。 上代の話というのは多分に嘘だと思っている。日々大量に生まれる情報の中で人々が気に入った情報(口伝)と、政治操作を受けた情報(書物)だけが歴史のフィルターを通過し、今に残る。その点、隼人に対する鹿児島の思いというのは二千年のフィルターを通しているから、ほぼ嘘であろう。が、薩摩、鹿児島が望む像である事に間違いはない。 鹿児島っぽい男の事を薩摩隼人という。隼人の事を大和朝廷に負けた祖先、そう思って使っている人はいないだろう。隼人といえば勇猛な人間であり、それだけで示現流の気合が聞こえてきそうである。示現流の気合は「チェスト!」らしい。幕末の京都では至るところから「チェスト」が聞こえたというが、私の家でも「チェスト」が響いている。ソフトバンクの川崎(鹿児島出身)がヒーローインタビューで「チェスト」と叫んだらしい。それを見た娘の口癖がチェストになった。 私は隼人塚に立った。少しでも薩摩の心を理解しようと努力したが、何も分からなかった。その代わり薩摩おごじょの心は少しだけ分かった。 隼人塚は線路沿いの公園に建っている。公園だから色んな人がいて、若い女性が泣いていた。泣いてる女性を友達が慰めていた。失恋したらしい。いくら史跡が好きだと言っても、人間への興味に敵うものではない。私は隼人塚の事がどうでもよくなった。隼人塚を見ているフリをし、薩摩の涙に耳を澄ました。友人の言が良かった。 「優しい男は止めときなって言ったでしょ、変わらない男が一番いいよ」 慰めの言葉は「隼人を愛せ」と言ってるようで、上に媚びず、下を持ち上げず、自分の道を凛と歩む薩摩隼人が浮かんで消えた。友人と一緒になって慰めたかったが、口を出した瞬間、警察に突き出される可能性もある。嫌な時代だ。隼人塚を後にした。 日豊本線の線路を跨ぎ、右に折れた。今度は鹿児島神宮に寄った。大隅一の宮らしい。 巨木が良かった。本殿を巨木が囲っていて、この神社の壮大な歴史が見え隠れしていた。 本殿は何となく武骨であった。昨日見た霧島神宮に比べると男性的に思える。隼人という場所がそうさせているのかもしれぬが、これを書きながら歴史を調べてみると八幡大菩薩の力にも思える。 鹿児島神宮と呼ばれるようになったのは明治以降らしい。それ以前は八幡正宮、正八幡宮と呼ばれていたらしく、つまり八幡様であった。八幡様は戦いの神で、どちらかといえば男性的であろう。 八幡の名を捨てたのは廃仏毀釈による。八幡様は神様だから問題ないが、八幡大菩薩という神仏混淆の名残が問題だったらしい。細かくて嫌になるが、それだけ薩摩の廃仏毀釈は徹底していたという事で、重箱の隅を突っつくように仏道を追い出した。 本地(ほんじ)という言葉がある。八幡様が八幡大菩薩になったのは、この本地の理屈による。本地の理屈では、神様というものは仏様の分身らしい。例えば天照大神の本地は大日如来であり、素戔嗚命は牛頭天王である。そういうかたちで神と仏を引っ付ける理屈が本地であった。平安末期ぐらいから流行り出し、明治維新の廃仏毀釈で捨てられた。 勝手な想像だが、仏を担ぐ一派と神を担ぐ一派は喧嘩ばかりしていたと思われる。どちらかに寄れば、どちらかは飯が食えなくなった。困り果てた平安人、一策を講じた。それが本地垂迹説ではないか。 隼人を去った。 北上し、国道223号線に乗った。日当山である。日当山といえば西郷隆盛であるが、今の私には西郷よりMちゃんの印象が濃い。Mちゃんが日当山に住んでいると聞いたせいで、歴史と地名の認識が違う色に塗り替えられてしまった。司馬遼太郎は日当山を西郷どんの休息地として書いた。が、違う。Mちゃんというアイドルの住む街である。そう思うと日当山が輝いた。確かに日の当たり具合が違うように思われる。 道は天降川に沿って北へ進む。天降川と書いて「あもりがわ」と読む。見ても聞いても甘美だが、思い出も美しい。 この道を走るのは二回目であった。以前は人の車で走った。Nの車だったように記憶している。妙見という神の名の温泉があって、そこに足湯があった。私はNの彼女と友人と、その足湯に浸かった。川を眺めたように記憶している。記憶によれば恐ろしく美しい川であった。 記憶通り足湯があった。一人で入るのは寂しいが、記憶に沿って足を垂れ、記憶に従い川を見た。確かに美しい。が、記憶のそれとは違う気がした。足湯を出、川に下りた。お世辞にも綺麗な水とは言えなかった。あの時は埼玉から来たが、今回は阿蘇から来ている。もしかすると目が肥えたのかもしれない。つまらぬ成長であった。 天降川は旅人を飽きさせぬようにできていた。神の史跡と、それに滅ぼされた隼人・熊襲の史跡が交互に現れ、それに幕末が乱入した。 足湯のある妙見地区から右に曲がると犬養の滝があって、その手前に和気神社があるはずだ。白い猪が記憶に残っているが今回は素通りした。もっと面白そうな史跡を見付けたからだ。「熊襲の穴」と書いてあった。 駐車場にバイクを停め、山を見上げた。看板によると、この山中に熊襲の穴があるらしい。看板は「スグソコ」と告げていた。登ってみた。登って後悔した。「スグソコ」は町おこしの企みであった。 「キツク、ナガイ、ノボリ」 そう書けば誰も登らぬ。登ってしまえば戻るのは馬鹿らしい。先へ進むだろう。「スグソコ」にだまされ、汗だくになった。 階段の行き止まりが巨大な岩盤であった。小さな鳥居もあった。説明書きもあったので呼吸を整えながら読んだ。 岩盤の下に隙間があり、その奥が熊襲の住んだ穴らしい。入口は小さいが、看板によると中は百畳敷きくらいの広さがあり、更に三百畳敷きの部屋へ続くとある。合計四百畳、それが本当なら、かなりの人数が住める。 隙間に体を入れてみた。太り身には辛いが、無理して体を捻じ込むと確かに空間はあった。が、百畳敷きか分からなかった。変な音が穴の暗闇に響いていた。不気味だったので前へ進むのは止めた。 看板が言うに、熊襲の大将・川上梟帥が殺された場所もここらしい。女装した日本武尊に殺されたそうな。大和朝廷の英雄も意外とセコい技を使う。 とにかく隼人と熊襲が消えた事で大和朝廷というニッポン初の統一王朝ができた。統一王朝の証こそ伊勢神宮であり、阿蘇神社であり、氏神様だが、そういうものに混じって隼人や熊襲の史跡が残っているというのは、ニッポンという国の誇るべき大らかさに思える。 道は塩浸温泉を過ぎた。塩浸温泉は坂本竜馬とお龍が新婚旅行で立ち寄った思い出の場所である。二人の像が建っていた。行った事あるので寄らなかったが、新婚という響きにNとMちゃんの新婚旅行を想った。Mちゃんは変わり者なので海外へ行くとは言わず、私のように日本一周をしないだろうか。NとMちゃんの新婚旅行に私は家族総出で付いて行き、朝から晩まで邪魔をする。走りながら壮大な計画を練った。面白かった。かなり笑えた。 笑っていたら道を間違えた。左に曲がるところを直進し、牧園町の田園に入ってしまった。更にガソリンの残量を全く見ていなかったためガス欠した。全てはNとMちゃんの劇的展開が悪い。昨晩の印象が濃いために、くだらぬ計画をたくさん立て、変な結果になってしまった。 アソカラ号を押しながら来た道を戻った。牧園麓という場所がこの一帯の中心でスタンドがあった。スタンドを認識していながら素通りしたというのは、よほど真面目に「新婚旅行邪魔邪魔計画」を練っていたと思われる。随所に子供を投入し、ムーディーチャンスを与えない綿密な計画であった。 牧園の田園に良い老人がいた。 「ガス欠かね?」 軽トラに乗った老人が話し掛けてくれた。スタンドまで乗せて行ってくれるという。荷台にバイクを乗せ、私は助手席に座った。深々と礼を述べた後、車中で色々話したが何を言っておられるのか、さっぱり分からなかった。方言というのは、ほんの半世紀で恐ろしく変わるものらしい。Nのそれとは別物で、隠語の香りが残っていた。 それから人吉までノンストップで進んだ。道中壊れる事が危惧されたバイクも実に快調で、走れば走るほど調子が良くなっているように思われた。 人吉で青井阿蘇神社に寄った。昨年、県内初の国宝に指定され、一気に全国区となった。国宝指定の理由を読んだが、何が決定打なのか、よく分からなかった。 本家の阿蘇神社が指定されず、分家の青井阿蘇神社が指定され、本家は悔しがっているに違いない。が、境内を歩き、 (分家の心が国宝を勝ち得た要因ではないか?) そういう想像を得た。何と言ったらいいのか、由緒ある神社には威張りん坊が多い。が、ここはその色が薄く、地に愛されている雰囲気があった。 青井阿蘇神社は確かに阿蘇神社を勧請する事で始まった。が、それ以降、阿蘇神社との繋がりは薄かった。相良と阿蘇の関係悪化が大きな要因である。青井阿蘇神社は阿蘇の名を冠しつつも阿蘇を気にせず、相良家、及び人吉球磨に愛されながら時を重ねた。長い歴史の中、相良家の肝煎で祀り神を変えるも可能だったと思われる。が、祈りへの政治介入は今も昔も民衆を混乱させる。 「ま、いいや」 そのまま阿蘇神社で突っ走り、今に至ったと思われる。 気取らない分家の心は土地に愛され国宝という称号を得た。青井阿蘇神社は分家であり、神道の系列でゆけば阿蘇神社の下であるが、国の格付けとしては一段上になってしまった。 格付けというのは得てして人や史跡、土地や道を狂わせる。が、こうなってしまっては後に引けない。行政が「町おこし」の名で気合を入れて公金投入するだろう。この神社を古くから支えた地の人が埋もれてしまわない事を祈る。神社の大義は観光ではなく、基本、地の祈りにあるという事を忘れてはなるまい。 人吉から国道445号線で北へ向かった。ダム問題で熊本を騒がせている川辺川に沿った道である。相良村、五木村を越え、五家荘のある泉村へと続く。平家の落武者も逃げてきた天下無敵の田舎道であるが、今はダムの関係で、半分くらい泣きたくなるほど立派である。 市街地を離れ、少し行ったところに雨宮神社という神様の落としモノがあった。上空からポトリと森を落としたのだろう。田園の中に点の森があって、その中心が神社であった。 この森は「トトロの森」という別名もあるらしい。そういうのは、この森にいらない。 森のカタチに神様の気まぐれを感じ、とりあえず祈ったというのが雨宮神社の始まりであろう。トトロの森に適すかもしれぬが、それに便乗するのは素朴の放棄であって、この味わいに必要な事ではない。 森の中を歩いた。中も良かった。国宝はこういうところに与えるべきだと思うが、与えた瞬間、このカタチは崩れてしまうだろう。 格付けという価値を均す作業を時代が求め人が求めている。格付けしたい気持ちも分かり、私も勝手な格付けを楽しんでいる。が、その影響で世の中がつまらんものになりつつある。格付けはハッキリ言って世の毒であろう。文明の勝手で格付けし、一部の人が潤って、地に潜む文化人が消えるなら、それは本末転倒に違いない。 国道をひたすら上って五木村に着いた。相変わらず山村にアンマッチな近代的集落が広がっていた。 知事が変わり、ダム建設の中止が表明されたが、相変わらず谷の底に重機が多く、道もダンプが多かった。 谷底から引き上げられた人々は近代的集落に住み、変わりゆく故郷を上から眺めている。地の心はこの風景をどう捉えているのか。一連の流れは自然災害みたいなもので、人災ではあるが「なるようになる」と気楽に構えておられるのかもしれない。 道の駅で握り飯を買い、吊り橋で食べた。垂らした足の先に人間の心が渦巻いていた。 「人ってのはどうしようもない・・・」 五木村へ行けば誰もが考え込んでしまう。山村は右も左も問題山積であった。 泉村に入った。入った瞬間、椎原ダムがあり、ダムが見えなくなると極端に道が細くなった。「ダム建設の恩恵はここまでよ」という線引きだろうが、実に分かりやすい。国道とは思えぬ狭い道が岩壁と川に沿っていて、舗装も大いに荒れていた。 これぞ秘境の道であった。転がっている岩に気を付け、ノリノリで進んでいると、前方をダンプが塞いでいた。ダンプの先では重機が唸りを上げていた。工事中であった。 「ちょっと待ってもろてよかですか?」 交通整理のオヤジがそう言うので、ちょっと待った。五分ほど待ったろうか、 「まだですか?」 聞いたところ、無線で確認してくれた。まだらしい。 道は一本しかない。待つより他に道はないので、バイクを置いて軽い運動をした。「早くしろ」というアピールであったが、待ちの車両が全く来ないから現場は気にしなかった。 二十分以上待ち、やっと通れた。待った車両はアソカラ号だけであり、この道の交通量の少なさは驚異的であった。 二本杉峠で砥用町に入った。五家荘にも寄らず悪路を突っ走ってきたが、それには理由があって、次の旅は椎葉のAさん宅を基点に五家荘へ抜けようと思っている。先ほど握り飯を食いながら地図を見、五家荘と椎葉の間に「椎葉越え」という道がある事に気付いた。その隣には「ばんさん越え」という道があり、いずれも行けそうな感じであった。美味しいものは先に置き、とりあえず尻の痛い旅を早く終わらせようと思った。 標高1100メートル、二本杉峠を一気に下り、国道218号線に出た。見慣れた道は私を安心させたが、それにしても尻が痛い。座ってられず、山中は立って進んだ。 国道218号線は長かった。飽きもあり、冒険しようと県道39号線に入った。県道39号線は地図によると外輪山で切れている。が、もしかすると小道が繋がっているかもしれない。駒返峠という外輪山の難所へ繋がってくれれば、それから先は何とかなる。 真っ直ぐ進むと、地図が示す通り道がなくなった。が、それで諦める私ではない。民家を探し、ベルを押し、道を聞いた。出てきたのは老夫婦であった。 「は? 駒返な?」 目を丸くして笑われた。駒返への道を聞かれたのは初めてらしい。三十年以上前は徒歩で通れたが、今は柵がしてあるらしく、「絶対通れない」と言い切られた。ただ、老夫婦にとって駒返は思い出の峠らしい。「通れるように行政に言って」と言われた。申し訳ない。私にそういう力はなかった。 矢部と清和の山中で大いに迷った。迷いながら清水峠を越え、南郷谷に戻った。 到着は午後六時であった。八時過ぎに出たから十時間の旅であった。とにかく疲れた。 子供たちは土産がない事を罵った。罵りながら私の日焼けを発見し、ゲラゲラ笑った。長袖を着ていたので手首だけ黒かった。 嫁が「旅はどうだった?」と聞いてきた。が、NとMちゃんの結論を言ってしまえば、この書きものが楽しめまい。 「必ず書くからそれを読め!」 そう言って、喋りたいのを我慢した。 帰宅した私は阿蘇に帰るや音楽を聴いた。山口百恵「さよならの向こう側」であった。この旅を経て青春の光がどう発されるのか、私は自分自身の心に興味があった。光は出た。いつも通りMちゃんの虚像も現れた。 「ありがと」 Mちゃん奇跡のセリフが繰り返され、その像は鮮明であった。虚像というより実像に近かった。十一年のボンヤリが消え、映像のピントが合った。ただし終始裸眼を貫いたので細部が鈍っていた。視力0.2、ちょうど良い実像かもしれなかった。 青春の確認作業は私を優しくしたのではないか。一泊二日の旅を終え、真面目にそう思っている。 フラれ続けた末、嫁と出会った。嫁と出会い、三人の子をもうけた。この数週間、嫁は三女の食いっぷりに怒り続けているが、この奇跡的映像を私は馬鹿みたいな顔で眺めている。正直に生きた末の幸せではないか。 帰路六十里、十時間に渡って歌い続けた曲がある。私の青春を支えた歌に山口百恵、尾崎豊、中島みゆき、玉置浩二があると冒頭で書いたが、その中の玉置浩二である。私が道化師Fになった翌日、Mちゃんの「ありがとう」を境に流れ出し、二週間が過ぎた今も頻繁に流れ、困っている。 「しあわせのランプ」という歌である。 しあわせに なるために 生まれてきたんだから 好きな人と 一緒にいなさい 大切な ことなんか 分かってくるんだから 好きなことを やっていきなさい それでもどうしても やりきれなくなった時は この空を 見上げて やさしかった頃のこと思って なつかしく なったら しあわせだって言って笑っていなさい 二人は肩肘張らず真っ直ぐ進む。たぶん結婚するだろう。 青春の光は薩摩にあって、今もNの隣で光っている。 |
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